煙草は大嫌いなのに、彼のシャツに染みついた煙草の匂いは不思議と好きだった。それは、普段は気づかないほどの微かな匂いだ。彼との距離が近づいた瞬間にふと立ちのぼるその匂いには、電子煙草特有の、熟れすぎた果物のようなべたべたとした甘さはなかった。彼らしい、やさしくて清潔な匂い。
「何の香水つけてるの?」
いつだったか、セイにそう尋ねたことを覚えている。彼は一瞬、何のことか分からないという表情を浮かべた後で、「ああ、」と言った。
「たぶん、煙草の匂いかな」
少しだけ目を伏せて微笑む彼の、その横顔を見ただけで、私はたちまち理解してしまった。煙草を吸っているのは彼ではなく、彼の持ち主であることも、彼がいま持ち主のことを思い出していることも、たぶん、彼が恋をしていることも。
「ふうん」
と、だから私は言った。
「仲良しなんですねぇ」
「なんだよ、にやにやして」
「いや、別に?」
ちぇ、とセイは怒ったような、拗ねたような顔をした。それを見た私は、ははは、とわざと声を立てて笑ってみせた。そして、私の中で育ち始めていた淡い恋のような感情は、すっかり行き場をなくしてしまった。
セイと出会ったのは、町の小さな読書会だった。そうして二週間に一度、小学校の隣にある図書館の会議室で顔を合わせているうちに、私たちはいつの間にか話すようになったのだ。
このあたりでは、彼のような最新型のアンドロイドは珍しかった。人はみなセイの菫色の瞳に見惚れた後、気まずそうな様子でそっと目をそらしてしまう。そんな視線になんて気づいていないような素振りでセイはひとり本のページをめくっていた。きっと、話しかけたのが私ではなかったとしても、彼は喜んだのだろうと思う。けれども、私にとってはちがう。セイだから、話しかけた。そのことに、彼がずっとずっと気づかなければいいのにと思う。
それは、失恋と呼ぶほどのものでもなかった。きちんとした手続きを経て終わらせなければならないほど、彼に夢中になっていたわけではない。私は、恋になりかけていたその何かに「友情」というラベルをしっかりと貼り直した。大丈夫、私なら上手くやれると思った。
実際、私とセイは良い友達だったと思う。人間とアンドロイドであることなんて、普段は忘れてしまっていたくらいだ。
けれどある時、椅子に座ったまま帰り支度をする彼を見下ろすと、うなじに刻まれたバーコードが見えた。
「ごめん、ちょっと待ってて」
そう言って鞄に本や小さなメモ帳をしまう彼の、襟足から覗く刻印。それによって彼を所有している誰かがいるということを思い出し、私は胸を痛めた。
「ねえ、セイにはメモ帳なんていらないんじゃない?」
「んー?」
彼は鞄を覗き込み、ごそごそと中身を整理している。几帳面なのだ。
「お待たせ。……それで、さっきなんて言ってたんだ?」
「だからさ、メモなんてとらなくても全部覚えてられるでしょ?」
「まぁ、それはそうなんだけどさ」
少し困ったように眉尻を下げてセイは言った。
「なんか、手で文字を書くのが好きなんだよな。黙々と手を動かしてると、気持ちが落ち着くっていうか……」
そっと伏せられた目を縁取るその長いまつ毛を見ながら、ああ、またこの顔だ、と私は思う。彼の心に棲んでいる誰かを想っている時の顔。憎らしいはずなのに、この瞬間ができるだけ長く続いてほしいと願ってしまうほどに美しい。
「懐古主義者のアンドロイド? 信じられない」
私は彼を置いてさっさと歩き出した。背後でセイが慌てて立ち上がる気配がする。それでも構わずに歩き続ける私を、律儀に追って来るつもりらしかった。会議室の外の狭い廊下には、春の陽気にあたためられた生ぬるい空気が充満にしている。そのむわりとまとわりつくような空気が、ますます私を苛立たせた。
「いいだろ、好きなんだから」
「……そうだね」
そう答えるのが精一杯だった。
「もしかして、具合が悪いのか?」
うつむいてしまった私に彼は言った。そうじゃない、と言うように首を横に振る。
「じゃあ、何か怒ってる?」
「怒ってない」
「だったら……」
そして、彼の手が私の肩にかけられようとした時、感情が爆発した。
「セイには分からないよ!」
想像していた以上に大きな声が出てしまったことに私は驚き、傷ついた。これではまるで八つ当たりだ。顔を上げると、セイは目を丸くして私を見つめていた。何が起こったのか理解できないと彼の全身が語っていた。
私は彼が何か言葉を発する前に、その場から逃げ出した。走って、走って、走り続けて、気がつくと自分の部屋のベッドでわんわんと泣いていた。悔しいのか、悲しいのか、惨めなのかも分からなかった。ただ、目の奥が燃えるように熱く、いくらでも涙が出るのだった。
そんなことがあってから、私は一度も読書会へは行っていない。極力外出もせず、本も読まずにぼんやりとしているうちに、もう一ヶ月が経っていた。セイからの連絡はなかった。本当は、私から連絡するべきなのだろう。しかし、どうしてもあの時のことを謝ろうとは思えないのだった。
友情なら終わらないと思っていた。ずっと傍にいられると信じていた。それがこんなにあっけなく終わってしまうだなんて、嘘みたいだ。
ぽかんとした気持ちのまま、私は久しぶりに部屋の外へ出た。突き抜けるように真っ青な空が眩しくて、思わず顔を顰めた。そして、どこかで美味しいものでも食べようと歩き出そうとした時、ポストに一通の手紙が入っていることに気がついた。白い無地の封筒の裏には、礼儀正しくていねいな筆跡で、「懐古主義者のアンドロイドより」と書かれていた。
「……ばか」
そうつぶやきながらも、自分の口元がゆるむのが分かる。彼の手紙からは、私の好きなあの煙草の匂いがするのだった。