mémoire éternelle

prologue

 これは、この村にうんとむかしから伝わっているおはなしです。
 むかしむかし、あるところに、人間とアンドロイドが仲睦まじく暮らしておりました。ひと里はなれた土地に家を建て、ふたりでひっそりと花や樹を育てていたのです。
 そこへ訪ねてくるものは決して多くはありませんでした。それどころか、その場所にふたりが越してきたことを知るものすらほとんどいなかったでしょう。
 しかし、ふたりはちっともさみしくはありませんでした。
 まいにち朝目を覚ますと、庭から鳥の鳴き声と梢のささめきが聞こえてきましたし、昼にはあたたかな日差しや美しい花々や、蜜蜂のダンスなどがふたりの心を楽しませました。そして、夜になれば、あかりを灯したランプのそばへと身を寄せ合って、いつまでもおしゃべりをするのです。空にまたたく星々や月のひかりでさえも、ふたりの邪魔をしてはいけないとそっと目配せをしあっていたほどでした。

 ──こんなに幸せでいいのかな。
 ──もちろん。もっともっと、幸せにするよ。
 
 ほんとうの幸いとは、きっとこういう日々のことをいうのでしょう。
 春が来て、夏が来て、秋が来ました。長くつづいた戦争のつらい記憶もすこしずつ遠ざかり、人間もアンドロイドも満ち足りた気持ちで過ごしていました。そして、長い冬が来たときのことです。人間が体調をくずすようになったのです。
 はじめはときおり疲れた様子を見せるだけでした。けれども、だんだんと朝になってもベッドから出られない日が増えてゆき、もうじき春がやって来るころには、とうとう体を起こすこともむずかしくなってしまいました。
 アンドロイドはなげき悲しみましたが、どうしようもありません。どんなに美しい花であってもいずれは枯れてしまうのです。
 やがて、アンドロイドはひとりきりになってしまいました。
 きっともう心をふるわせるようなよろこびも幸せも感じることはないだろう。愛するひとを喪ったアンドロイドは、そう思います。体はただの金属のかたまりに戻ったようにずっしりと重く、まるで自分まで壊れてしまったような気分でした。
 けれども、アンドロイドはなんとか椅子から立ち上がって庭へと出ました。
 最期のとき、人間はアンドロイドとある約束をしていました。
 そう、アンドロイドにはやるべきことがあるのです。
 枯れ草を取りのぞき、土に肥やしをすきこみ耕して、はやく種をまかねばなりません。
 庭には、春のやわらかな日差しがふりそそいでいました。

mémoire éternelle

 指の先端を、すこしばかり土のなかへと押し込むと、わずかな湿り気を感じた。引き抜いた指先に付着した土には、まだぬくもりがのこっている。その土を軽く落としてやりながら、俺は、千日紅に水をやるのは明日の朝でいいだろうと決める。
 頭上には、晴れ渡った青空がどこまでも続いている。けれども、空を吹き渡る風はつめたかった。やわらかな午後の日差しのなかにも、もうじき訪れる冬の気配が漂っている。
 俺は、千日紅の苞に触れ、
「今年もよく頑張ったな」
 と声をかける。
「長生きしてくれて、ありがとう」
 そんな俺の言葉にうなずくように、千日紅はさわさわとかさかさの中間のような音を立てて風に揺られている。その乾燥ぎみの葉の擦れる音はかるく、頼りない。
 千日紅は植物のなかでも丈夫な部類だ。夏の暑さにもつよく、病気にもあまりかからず、どんな土でもよく育つ。それでも、一年草である以上、冬が来て、霜が下りるころには絶えてしまうことを、俺は長年つみ重ねた経験からよく知っていた。
 寒い季節のあいだは、千日紅を室内に入れておけばいいのではないかと思い、実際にそうしてみたこともある。しかし、あたたかければいいというものでもないらしく、その俺の試みが成功したことはなかった。
 あらかじめ定められた寿命を変えることはどうしたってできない。俺にできるのは、千日紅が健やかに育つのを手助けし、与えられた時間を慈しむことだけなのだ。
 冬はながく、暗く、淋しい。
 特に夜の静けさは、世界に自分ひとりだけが取り残されているような心細さを俺に抱かせた。
 そんな冬の夜のあいだだけ、俺は、彼女に悪態をつきたいような気分になった。どうして俺の好きな花、なんて言い方をしたんだよ。どうせだったら、樹みたいに長生きする植物にしてほしかった。せめて多年草にするとか、いろいろあっただろうと、そういまからでも言ってやりたい。俺の好きな花が千日紅であることくらい、おまえだって知っていたはずなのに、と。

 彼女は、嘘をつかないひとだった。
 一生のうち、一度も嘘をついたことがないと言えばそれこそ嘘になってしまうのだろうけれど、彼女が自分の言葉から嘘を排除しようと努めていることは傍にいれば分かった。
 その証拠に、彼女はスケジュールに入れた俺とのデートの約束を破ったことがない。急な仕事が入っても、必ずその日のうちに俺との時間を取ってくれた。遠出をする約束をしていた朝に熱が出てしまったときには、さすがに彼女を止めたけれど、もしも俺が無理矢理に止めなければ、彼女はそのまま出かけていたのだろう。万事が万事その調子なので、俺は彼女の新しい予定を提案するというよりはむしろ、彼女の予定をなるべく詰め込みすぎないように注力する必要があったくらいだ。
 そんなふうな性格をしていたから、早くに死んでしまったのだろうといまにして思う。きっと無理をしすぎたのだ。
 病で倒れてしまったときでさえ、彼女は、
「ごめんね」
 と言った。何も謝る必要なんてないのに、と彼女の手を握りしめると、
「でも、迷惑をかけちゃうから」
 彼女は青白い顔にほほえみを浮かべた。 
 俺は何も言えずに、ただ首を横にふった。
 俺は彼女のことを迷惑だなんて思ったことはなかった。彼女が部屋を散らかしても、朝起きられなくても、病気になった彼女の看病をするようになっても、それを負担に感じたことはない。そもそも、アンドロイドは、人間を世話することに苦痛を感じないように造られているのだ。
 強いて言うならば、俺は、彼女の言う「迷惑」をかけてほしかった。もっと俺を頼って、たくさん迷惑をかけてほしかった。そうしてもっともっと、長く生きてほしかった。たまに約束を破ってしまうようなことがあってもいい。おまえが傍にいてくれるなら、俺は、それだけでよかったのにと思う。

 庭を見て回り、枯れてしまった植物を片付けているうちに、すっかり日が暮れてしまった。それは何も、冬が近づいているためだけではない。西の方角に小高い山があるせいで、この一帯は他の土地よりも太陽が早くに隠れてしまうのだ。
 俺は立ち上がり、屈み続けていた腰をいたわるように慎重にのばす。ギギギ、という耳障りな金属音が小さく鳴る。最近、腰まわりのギアの調子が悪いのだ。部屋に戻ったら点検をしなければと、俺は頭の中のメモ帳に記録しておく。
 この場所へ越して来てからいちばんに植えたのは、ライラックの樹だった。
「いつか庭を持てる日が来たら、植えたいと思ってたんだ」
 ライラックは大きく育つでしょう? と言いながら彼女がスコップを片手に植え付けたとき、その樹はまだ俺のウエストくらいの背丈しかなかった。
「そうなのか、夢がひとつ叶ったな」
「うん」
 めずらしく、子どものような素直な笑顔で彼女はうなずいて、
「それにしても、日が暮れるのが早いね」
 と言って立ち上がった。彼女の顔をオレンジいろの光が照らす。西にある山のせいだと俺が理由を教えると彼女は言った。
「それならちょうどいいね。ライラックは西日が苦手なんだって」
 山間へと滑り落ちてゆく太陽を見つめる彼女の頬には、どういうわけか泥がついていた。それを指先でぬぐってやりながら、俺は、きっと大きく育つよと答えたことをいまでもよく覚えている。
 そのライラックも、気づけば俺の背丈ほどの高さにまで枝を伸ばしていた。いまは全体の半分ほどの葉が地面へと落ちてしまっているけれど、春になればうす紫の花をたくさん咲かせてくれるだろう。俺の髪の毛と同じ色をした花。それが咲く季節を、彼女はまいとし楽しみにしていた。
 こうして思い出に足をとられてしまうことが一日のうちに何度もあった。定期検診の折、俺の活動記録を見たアンドロイド技師にどこか故障しているのではないかと心配されたほどだ。そうこうしている間にも、夕日はもう山の向こうへと沈み、あたりは暗くなり始めている。
 黒いシルエットのような山々を、俺はもう一度見る。
「それならちょうどいいね。ライラックは西日が苦手なんだって」
 記憶のなかで彼女のあかるい声が、やまびこのように聞こえてくるような気がした。

 玄関へ入ってすぐ脇のフックに、園芸用のエプロンをかける。俺がかけたそれと全く同じデザインの、少しだけ小さなサイズをしたエプロンが俺のエプロンと一緒になって揺れる。
 彼女がまだ生きていた頃は、夜はふたりで料理をしたり、ときにはお菓子を焼いたりして過ごすことが多かった。俺は食事を摂ることはできない。けれど、彼女とあれやこれやと工夫しながらキッチンに立つのも、出来上がった料理やお菓子を彼女が美味しそうに食べる姿を見るのも、俺はとても好きだった。
 彼女がいなければ、料理をする必要もない。したがって、裏庭にある畑で野菜やハーブを育てることもしなくなった。もう長いあいだ、キッチンは湯を沸かすのにしか使っていない。
 俺はなるべく時間をかけて湯を沸かし、お茶を淹れる。粘度の低い液体ならば、かろうじて体内に取り込むことができるのだ。たとえば、砂糖の入っていない珈琲や、紅茶、ハーブティー。それらを俺と彼女、ふたりぶんのマグカップを用意して、ゆっくりと飲み干す
「いいなあ、珈琲」
 そうしていると、テーブルの向こうに頬杖をついた彼女の気配のようなものを感じることもある
「セイは夜でも珈琲が飲めて、ずるい」
 そう言って、わらっていた彼女。わらうと鼻に少しだけ皺が寄る。
「おまえも飲む? ノンカフェインのやつ」
「カフェインの含まれていない珈琲なんて!」
 彼女は、大げさに驚いたような顔をして見せる。
「珈琲への冒涜である、だろ?」
 俺は肩をすくめてみせた。「カフェインの含まれていない珈琲だなんて珈琲ではない。珈琲への冒涜である」これは、彼女の愛読書の一節なのだそうだ。彼女がことあるごとに言うので、すっかり覚えてしまったフレーズ。何度もくり返した、いつものやり取り。
 俺は幸せだった。毎日とは、こうしてずっと続いてゆくものなのだと思っていた。

 手元のマグカップのなかで、珈琲が白い湯気をたてている。気温が下がってきたのだろう。俺は、室温の設定を少しだけ上げる。寒さを感じることはないけれど、部屋の気温が低すぎると急にボディが不調になったりすることもあるので、気をつけるに越したことはない。
 彼女が死んでしまってから、もう三年が経つ。けれども、彼女のいない夜には、いつまで経っても慣れることができないでいた。
 もともと彼女は、体が弱い質ではあった。そのことは、いまの家へと越すことを決めた理由のひとつでもあったのだろう。病に伏してからはあっという間に弱ってしまい、ベッドから起き上がることもできなくなった。大丈夫かと握った彼女の手はやせ細り、握り返す力も弱々しかった。
 彼女の命があまり長くはのこされていないことを、俺も彼女も分かっていた。
 心臓が止まってしまう数日まえ、彼女は俺に言った。
「もしも私が死んだら、きっとセイの好きな花に生まれ変わるわ」
 その日の彼女は、久しぶりにすっきりとした顔をしていた。ベッドサイドの小さな窓からは、小春日和の青空が見えた。この冬を乗り越えられればと希望を抱いていた俺にとって、彼女の言葉はとても残酷なもののように響いた。
「おまえは死なないよ」
 俺は言った。それはたぶん、彼女のためと言うよりも、自分自身のための言葉だった。俺は、彼女が「死」という言葉を口にすることに耐えられなかったのだ。
「大丈夫だから。……水、飲むか?」
 それでも、きっと治るとはとても言えなかった。彼女は黙って、俺の差し出したガラスのコップから水を飲んだ。常温の水だ。飲み水があつすぎても、つめたすぎても、彼女は腹痛を起こすようになっていた。
 午後の日差しが彼女の手のなかのコップに注がれて、何か素晴らしい飲みもののように見えた。たとえば、それを飲めばどんな病気もたちまち治ってしまう魔法の水のように。そして、それをゆっくりと飲み干してゆく彼女の青ざめた横顔を、俺は、何よりも美しいと思った。
 空になったコップを手にしたまま、彼女は言った
「もしものはなしよ」
 俺を安心させるように、彼女はふわりと笑う。
「もしも、本当にもしもだけど、私が死んでしまったら、セイの好きな花に生まれ変わって、セイの傍にずっといるよ」
 泣いてはいけないと思った。誰よりも不安で、悲しくて、つらいのは彼女のはずなのだから。それでも、堪えきれなかった涙が、俺の頬を熱く濡らしてゆく。
「泣かないで、セイ」
 そう言いながら、彼女もいまにも泣き出しそうな顔をしていた。
「泣いてない」
 と、だから俺は、顔をぐしゃぐしゃにしながら答える。俺が泣き止まなかったら、彼女はきっと「ごめんね」と言うだろう。それだけは、嫌だった。
「分かった。そのときは、俺のいちばん好きな花をたくさん植えるから。……それでずっと一緒、だな」
腕のあたりで乱暴に涙をぬぐい、俺は言った。
「うん、約束ね」
彼女は言い、その右目からはひと粒の涙が溢れた。
 そして、俺は、彼女と最期に交わした約束をいまも守りつづけている。

 ドアを開くと、そこにはもう朝が来ていた。山際からこちらに差す太陽の光の眩しさに、すこし目を眇める。ひとりきりになってからも目が覚める時間だけは変わっていない。
 庭仕事用のエプロンとブーツを身に着けて、庭へと出る。鳥の鳴き声も、土を踏む音も、風も、めぐる季節とともに変化してゆく。同じように見えて、去年とはちがう秋の空。ゆるやかな螺旋を描きながら時は前へと進む。そのなかで、俺だけが取り残されているような気がしていた。
「おはよう」
 俺はいつものように彼女に声をかける。細い花首に人差し指をからませて、その体温を感じようとする。風ひとつない今朝は、しかし彼女は黙ったままだ。
 いくらあの頃のままの庭を維持しようと努めても、こぼれ種から芽吹いた千日紅はすこしずつその面積を拡大していく。そんな強くたくましい姿がいじらしくて、愛おしくて、ほんのすこしだけ憎らしくて──おはよう、という彼女の声が今日こそ聞こえるんじゃないかという馬鹿げた期待を捨てることができない。
「おはよう、セイ」
 そう言いながら彼女が振り向いて、
「ひどい顔。また眠れなかったの?」
 と、俺の顔をのぞきこんで笑うんだ。だから俺も、
「俺は眠らなくても平気なの。っていうか、俺の顔色が変わるわけないだろ」
 とかなんとか言いながら、思わず笑ってしまう。夜のあいだじゅう頭のなかを駆け巡っていた悪い考えなんてすっかり忘れて、早く朝ごはんの準備をしなくちゃと思う。パンと牛乳はまだあったっけ? 卵は? 先に珈琲でも淹れようか。彼女の好みに合わせてうんと濃く淹れた珈琲……。
 いまは一体いつなんだろう。ふと、そんなことを思う。指先は確かに花へと触れているのに、心はここではないどこか遠くへと駆けていくばかりで戻ってこようとはしない。そんな思い出が現実を侵食してゆく感覚に、俺はぐらりと目眩を感じた。
 その瞬間、いつものギイッという嫌な音と同時になにかが割れる音がした。たぶん、摩耗した金属部品が真っ二つになったのだろう。痛みはなかった。けれども体勢を保つことは難しく、傾いた体はそのまま倒れた。本のページをめくるよりも速く目の前の景色が変わる。千日紅から、一面の大空へ。そしてまたその空は茎と茎の間から覗く程度の大きさになり、俺は千日紅の花畑のなかで倒れていたのだった。
 さわさわと千日紅たちがゆれる。俺はゆっくりとまばたきをする。目のなかまで真っ青に染まってしまいそうなほどの青空が眩しかった。背には押しつぶしてしまった千日紅のやわらかさを感じている。
「ごめんな」
 俺は声に出して謝った。ごめんな、痛かったよな、ありがとう。そう言いながら、彼女が俺を抱きとめてくれたようで目頭が熱くなった。
 声を出して泣くことができたらよかったのかもしれない。人間ならきっとそうするのだろう。だけど俺の涙はすぐに乾いて、その瞳はなにごともなかったかのようにクリアな視界を保っている。ユーザーがいないという喪失感はアンドロイドの情動プログラムには負荷が強すぎるのだ。だから、プログラムを保つために感情の揺れ幅は制御され、抑圧されて、俺自身でさえも触れることができない。
 “おまえがいないのなら壊れてしまいたい。”
 そう思うことができないように、俺は設計されていた。悲しみはここにあるのに、心はそれを感じ取れない。鎮静剤を打たれ続けている心は、鈍く、重い。
 ただ彼女に会いたかった。
 彼女と話をしたかった。
 ぎゅっと抱きしめて、もう離れないからと言いたかった。
 もしもそれが叶わないのなら、このままここで眠り続けていたかった。
 百年でも、千年でも、ずっとずっと。
 俺はまぶたを閉じた。彼女の生まれ変わりであるはずの花たちは、黙って風にゆれていた。

それから幾日が過ぎたか分からない。あるいは、ほんの数時間のことだったのかもしれない。オフラインのままスリープ状態に移行した俺には、陽の光も、頬を撫ぜる風も、時の流れも感知できなくなっていた。それを恐ろしいとは思わなかった。なによりも恐ろしいことは、もう起こってしまった後だったから。
 目を閉じているあいだに、たくさんの夢をみた。彼女と過ごした日々の記憶。彼女の笑った顔。怒ったときに少しだけ顰められる眉。小さなくしゃみ。庭の手入れの最中に尻もちをついて泥だらけになったときのこと。俺を呼ぶ甘くやさしい声。全部ぜんぶ、大好きだった。
 ──セイ。
 それはもう呼ばれることのない名前だ。
 ──セイ、早く起きて。
 おまえが起こしてくれないから、起きれないよ。
 ──ねぇ、セイ。
 どうしても、起きなきゃダメなのか?
 ──うん、ごめんね。……おはよう、セイ。
「……おはよう」
「あ、起きた」
 まぶたを開くと、誰かが俺をのぞきこんでいた。女の子だ。たぶん、近くの村の子どもだろう。顔に見覚えがあった。
「えっと、」
 なにか言わなければと口を開いてみたが、言葉が出てこない。女の子もただじっと俺の顔を見つめている。仕方なく立ち上がろうとしてみたところで、自分が動けないことを思い出した。そんな俺の様子を見かねたのか、
「もしかして、立てないの?」
 と、ようやく女の子は言葉を発した。
「そうみたいだ」
 久しぶりに聞いた自分の声は、ノイズが乗って少しがさついている。その不快感に顔を顰めていると、どういうわけか女の子が俺のとなりにごろりと横になった。
「大丈夫」
 女の子は怒ったような仏頂面で、まっすぐに空を見上げながら言った。
「さっき家に連絡したからもうすぐ誰か来てくれるよ」
 俺を安心させようとしたのだろうか、少女は大丈夫をくり返した。病気が分かったときの彼女と同じように、「大丈夫、大丈夫だからね」と何度も。
「ありがとう」
 と、俺は言った。
「大丈夫。……うん、君が来てくれたから、もう大丈夫だよ。ありがとな」
 自分に言い聞かせるように、なにか大切なおまじないを口にするように言った。それを聞いた女の子の顔が、ふとゆるんだのが分かった。笑っているような、泣く直前のような、無防備な顔。きっとこの子も不安だったんだ、と俺はいまさらながらに気づいた。たったひとりで倒れているアンドロイドを見つけたら、誰だって心細くなるだろう。
「……大丈夫だよ」
 もう一度、俺は言う。それは、限りなく嘘に近い言葉だった。もしかすると千日紅たちは呆れながら聞いているかもしれない。それでも、俺はこの子に大丈夫だと言ってやりたかった。大丈夫、なにも怖いことは起こらない。大丈夫、きっと大丈夫
「よかった」
 女の子は簡潔にうなずいた。
 まひるまの日差しが、ふたりに、千日紅に、そしてこの庭全体に投げかけられていた。そよ風が庭をやさしくゆさぶるせいで、枯れ葉たちはときおり小さな輪をなして踊った。湿り気を帯びた土からは、じっとりとしたつめたさが立ち上ってくる。俺はそれらをただ感じていた。となりで横たわる女の子のひそやかな呼吸音が、ひどくなつかしい気持ちにさせた。
 女の子は、ぽつりぽつりと話をしてくれた。
 両親や一緒に暮らしているアンドロイドのはなし、意地悪な幼馴染のはなし、畑仕事のはなし……そんな他愛のないはなしを聞くのは随分と久しぶりだった。少しだけ俺も自分の話をした。かつてユーザーとふたりで暮らしていたこと、いまはひとりなこと、庭仕事のこと、冬が苦手なことも。そのいちいちに、女の子は真面目な顔でうなずいてくれた。
 女の子は、以前もこうしてこの庭に迷い込んだことがあったのだと言う。ちょうど俺がメンテナンスのために街へと出かけていたときのことだったのだろう。彼女と一緒に裏庭のハーブを摘んで、お茶を飲んだのだと言う。
「なんだか不思議な味がした」
 その味を思い出したように、女の子は難しい顔をしながら言った。
「もしかして、苦かった?」
「すこし」
 彼女はお茶にも珈琲にも砂糖や蜂蜜を入れない。普段は子どもの相手なんてしないから、きっとどうすればいいか分からなかったんだろうな、と思う。仏頂面の女の子と緊張した面持ちの彼女のティータイムを想像すると、少しだけ可笑しかった。「今度は蜂蜜を用意しておくよ」と俺は言った。
 お互いに話し上手な方ではたぶんなかった。声が風に紛れて消えることも、曖昧な相槌の後に沈黙が訪れることもあった。それでも俺たちは、知らせを受けたお目付け役のアンドロイドが女の子を迎えに来るまで話し続けていた。

 結局、俺はそのまま診療所へと連れて行かれることになった。このあたりでアンドロイドの治療ができる診療所は一軒しかない。そこで顔なじみのアンドロイド技師に嫌味と、皮肉と、たっぷりのお説教を食らうことになってしまった。アンドロイドは人間よりも重量がある分、動けなくなったときに移動させるのは大変なのだ。蓄えから貴重なエネルギーを使うことにもなる。故意ではなかったとは言え、迷惑をかけてしまったのは事実だった。
「すみませんでした」
 と俺が謝れば謝るほど、技師の眉間の皺は深くなっていった。
 そうじゃなくてね、と深いため息をひとつついた後に技師は言った。
「……こういうときはさ、呼んでよ。ちゃんと呼んでほしい。僕でもいいし、他の誰かでもいい。なんでもいいから呼んでくれれば行くから。今回はたまたま気づけたからよかったけど、呼んでくれないと助けられないから」
 どうして呼ばなかったんだ、とは言われなかった。俺もそして目の前にいる彼も、たぶんその理由を言葉にしたくなかったから。
「もっと迷惑をかけてほしいんだよ、僕らは」
 それはかつて俺が彼女に言いたかったことだった。言いたくて、言えなかった言葉。
「はい」
 俺はただうなずくことしかできなかった。目を伏せたままでいると、アンドロイド技師の指先についた機械油や白衣の裾の汚れが目に入った。それに、彼が動く度に診療所でしか嗅いだことのないつんとした匂いが嗅覚センサーを刺激した。そんな俺を見て、技師はわずかに安堵した表情を浮かべたようだった。

 あれから、変わったことがふたつある。
ひとつは、村のひとたちが庭に遊びにくるようになったことだ。最初は俺のことを心配して顔を出してくれていたみたいだけれど、だんだんと普通のご近所付き合いのようになってきた。
「おーい!」
 麦わら帽子をかぶった男の子が、なだらかな坂道を下りながらこちらに手を振っている。そのとなりには、俺を助けてくれた女の子の姿も見えた。
「いらっしゃい」
 俺もふたりに手を振りかえす。となりで千日紅の花もゆれる。まだ背丈の伸び切っていないそれは、俺のくるぶしをくすぐるようだ。
「おまえもうれしいのか?」
 視線を落としてそう訊ねてみたが、返事はない。でもきっと、そうなのだろうと俺は思う。春の訪れがうれしいみたいに、自慢の庭に笑い声が響くことは彼女にとってうれしいことにちがいない、と。
 しばらく育てるのをやめていたハーブも、また育てるようになった。小さなお客さまたちに飲んでもらいたいからだ。約束した通り、とっておきの蜂蜜もちゃんと用意してある。彼女が好きなレモングラスなら、いまの季節にぴったりだろう。
 ふたつめは、思い出だけでなく少し先の未来について考えるようになったこと。
 ひとりで庭にいるとき、あるいは眠れない夜なんかに、そっと目を閉じて想像する。あの日のように、俺はこの庭に身を横たえている。陽の光に、月影に、雨に、風に、肌をさらして、ゆっくりと土の一部へと還ってゆく。指先に這う虫たち。移りゆく雲からは俺が見えるだろうか。俺にはもう分からない。いつの間にか、庭が俺で、俺が庭になっている。
 そこでは、よろこびもかなしみも淡く溶け合ってしまう。それでも俺は、彼女の姿を探す。空へ空へと伸びてゆく健やかな茎、薄紅の苞。ああ、よかった、彼女はちゃんとここにいる。手を伸ばさなくても、この土で彼女の体に触れているのだ。無邪気な風に嫉妬する必要もない。
「ねぇ、セイ」
 彼女が俺を呼んでいるのが分かる。俺が彼女を呼んでいるのも、きっと伝わっているはずだ。声がなくても、お互いになにを思っているのかを感じられる。
 こうやって時を過ごしてゆくうちに、ふたりの境界線も溶け合ってしまうのだろう。俺が彼女の、彼女が俺の一部になって。俺の体だったものからも、千日紅たちが芽吹いている──。
それはとても甘美な想像だった。
 このまま永遠にまぶたを閉ざしていたくなるような、やさしい白昼夢。
「あっ、また立ったまま昼寝してる」
 と、いきなり大きな声がした。存外に距離が近い。俺がぼんやりしているうちに、ふたりは庭に着いたのだろう。
「セイ、起きて」
「ねえ、今日はいつもとちがうハーブティーを淹れてくれるんでしょう?」
「えーっ、僕はいつものがいいな」
 俺の返事なんておかまいなく、思ったことを口々に訴えてくる。
「別に、寝てないからな」
 苦笑しながら、俺は目を開いた。
 きらきらと輝く二対の瞳が俺を見上げている。小さなお客様たちは、早く裏庭に行きたくてしょうがないようだった。 
 俺はふたりに先に行って待っているように伝えて、庭を見渡す。
 ライラックが大きく両手を広げるように枝葉を伸ばし、その木陰は適度な明るさと湿り気を保っている。そこではヒューケラやブルーサルビアのような宿根草たちや、こぼれ種で増えた一年草たちがそれぞれの群れをなし、ささやきを交わす。裏庭を縁取る銀木犀の垣根。蜜蜂のダンス。ふたりで苦労した石畳の小道は、下草でほとんどかくれてしまっている。むんと立ち込める土の香り。そして、庭の大部分を占める色とりどりの千日紅たち。
 風がよく通る、美しい俺たちの庭。
 おまえが愛していた、この世界のすべて。
 彼女にもこの景色が見えているだろうか。なぁ、この梢の葉擦れの音が聞こえてる? と、俺は心のなかで彼女に語りかける。
 最近お客さまが増えたからさ、今度ガーデンテーブルのセットを庭に置こうと思うんだ。テーブルクロスとカップも買い足さないとな。それから、裏庭に新しいハーブを植えてみようかなって思ってる。村のひとが種を分けてくれるって言うから。
 ずっとこの庭に訪れるひとが増えるのが不安だった。おまえが選んだものよりも、俺が選んだものが増えていくのが嫌だった。おまえの気配が薄れていくのが、怖かったんだ。いや、怖いのはずっと変わらないし、どうしてこのままでいられないんだろうって思うけれど。
 もしも、いま、おまえがここにいて。
 おまえが俺のとなりで、同じ景色を見ているのだとしたら。
 きっとおまえは、素敵なアイディアだねって言ってくれると思うから。
 俺は前に進みたい。進まなくちゃいけないんだ。……たまには夜眠りたくない気分になったり、落ち込んだり、もしかしたらこっそり泣いたりするかもしれない。でも、それくらいなら許してくれるよな。 
 悲しみはなくならない。
 それはおまえを愛した証拠で、俺の宝物のひとつだから。
 それでも、俺は。
 おまえが見ることのできなかった季節を見るために、あともう少しだけ、生きてみるよ。

 épilogue

 ある日、村の青年がひとりで庭を訪ねました。
 しかし、庭の手入れをしているはずのアンドロイドの姿はありませんでした。いくら呼びかけても庭はひっそりと静まりかえったままなのです。そのことを不思議に思った青年は、家のなかをのぞいてみましたが誰もいませんでした。家の裏の小さな畑にも、ライラックの樹の下にもいません。
 だんだんと心細くなってきた青年は、いまにも泣き出しそうな気持ちでいました。
 そのとき、風がひとつ吹きました。青年の麦わら帽子がとおくへと飛んでいってしまうほどの、強い風です。花も樹もざわざわとゆれました。
 そのゆれているなかに、青年はよく知った姿を見つけました。
 すっかり背丈の高くなった千日紅の花畑のなかに、アンドロイドが横たわっていたのです。青年ははっと息をのみました。
 それはまるで、いつかの日のようにすこし昼寝をしているだけにも見えました。白い頬は土で汚れ、髪の毛がすこし乱れてはいましたが、くちびるにはほほえみが浮かんでいます。
 けれども、アンドロイドが動くことはもう二度とありませんでした。

 ──ねえ、このおはなしはそれでおしまい?
 ──いいえ。もちろんちがうわ。
 
 主のいなくなった庭にも季節はめぐります。
 世話をするものがいなくなったことで、いくつかの花や樹は絶えてしまいましたが、そのほとんどが自生していました。それぞれが好き勝手に枝や茎をのばしたおかげで、庭は鬱蒼とした緑に覆われています。時間が経つにつれ、誰も庭へと近づかなくなってゆきました。
 ある春の日のことです。毎年そうであるように、千日紅が芽吹きました。たくさんのふたばが黒々としめった土から顔を出しています。そのなかに、ひときわ小さな芽がありました。もしも雨が二、三日ふりつづけたとしたらどこかへ流されてしまったかもしれないほどの小ささです。
 それは、生まれ変わったアンドロイドでした。
 鳥も、蜜蜂も、夜空にまたたく星々でさえもそのことに気づきませんでしたが、千日紅にだけはそのことがわかりました。かつてこの場所でともに暮らした人間とアンドロイドは、ふたたび出会うことができたのです。
 ふたりは春が来るたびに芽吹き、夏には花を咲かせます。秋には種を土にしのばせて、冬のあいだじゅう眠っています。そして、また春が来るのを待ちます。
 くりかえし生まれ変わりながら、ふたりは永久のときを過ごすでしょう。
 この道のずっとむこうのそのまたむこうにあるというその庭には、いまでも千日紅の花がゆれているのです。