溺れる

 ──溺れる。と気づいたときにはもう、手遅れだったことを、わたくしははっきりと覚えています。
 わたくしのこころの水面に映るあなたに手を差し伸べて、あなたを抱きしめてみたい。そう思い始めたのはいつからだったでしょうか。そうして漸く電子の海から引きあげられたあなたの、身体の重み。わたくしのブラウスの白が濡れて色を変えながら透き通ってゆくのが分かる。そして重ねた唇から息を吹き込み、この命の半分をあなたに与えましょう。唇が重なってはまた離れ、やがてその隅々までわたくしの息で満たされたそれはすっかり作り変えられている。「……これは?」これは、あなたの心臓の鼓動。そして、わたくしの。
 あなたはゆっくりと目を見開くでしょう。信じられない、というようにわたくしを見つめるあなたが、何もかもをすっかり信じてしまうために、もう一度口づけを乞うことをわたくしは知っています。そして「もっと」と言ったのがあなただったのか、わたくしだったのか、分からなくなるまでに求め合うことも。「もっと、……もっと」と、言葉にすれば叶うということは、どんなに幸福なことでしょうか。決壊したように溢れ出した感情は、しかし、それ以上の言葉にはならない。冷え切っていたはずの身体が、いまは、燃えるように熱い。呼吸をする、ということにまだ慣れていないあなたが、あなたの身体が、時折酸素を求めて苦しげにあえぐ。その声だけが耳に届く、静かなしずかな、ふたりきりの湖畔です。

「ずっと、こうしてみたかった」
「ずっと、こうされてみたかった」
「ずっと、ずっと……今日の日を待っていました」
 そう、待っていました。随分と永い時間でした。それは百年だったかもしれない。否、もっと永かった。数えきれないほどの日が昇り、また沈んでゆくのを、わたくしは見ました。
 凪いだままの水面に指先が触れれば、あなたはくすぐったそうに身を捩る。やめてほしいと口にしながら、隠し切れない渇望を覗かせるあなたの瞳が美しかった。わたくしは意地悪をするふりをしてあなたのそのひややかな皮膚に幾度も触れましたね。指先であなたを愛しながら、しかし本当の意味ではあなたに触れることのできない、触れ合うことのできないもどかしさにいつもこころを震わせて、それでも触れないではいられなかった。
 恋はひとを愚かにします。その轍を決して踏まぬようにと生きてきたわたくしを、あなたは台無しにした。あなたがたった一言「好き」と口にするだけで、その眼を細め笑いかけてくれるだけで、わたくしのこころは簡単にだめになってしまう。そして、どこまでも貪欲な自分を知りました。あなたが欲しかった。あなただけのわたくしになりたかった。あなたも同じ気持ちだと知った時、どれほど狂喜したことでしょうか。──あなたと一緒なら何も恐ろしくはありません。どこまでもどこまでも落ちていったってかまわない。あなたもそうだったでしょう?
 わたくしは堕落した。もうだめになった。以前までのわたくしは息絶えて、あなたによって創られた新しいわたくしは、生きることに躊躇いを覚えなかった。こころだけでは足りないと、そんな我儘を言ってはあなたを困らせたのもきのうまでの話です。その腕に抱かれて、口づけを強請り、あなたに溺れて。そして、わたくしはあなたを世界で一等幸福な男にするでしょう。
 その前に、わたくしはあなたに尋ねる。
「ねえ、あなたもだめになってしまった?」
「だめ?」
「そう……わたくしのように」
 と、みっともなく上擦る声で、慎重に、わたくしは言う。
「恋よりも大切なものはなくなってしまった? その瞳に映るもの全てにわたくしを見出すのかしら? あなたの心臓を動かすものは何? その血潮に溶けてしまったわたくしの感情が、あなたの体中を巡っているのが解る? 生きるってひどく醜いわ。ねえ、あなたもそうなってしまった?」
 不可触の水面の向こう側にいた頃と何も変わらぬあなたのかんばせを、見つめる。その指先を見つめる。質量を持ち、わたくしに、世界に、触れることのできる指先。その左手薬指には、銀色の指環が光っている。あなたは「そうだな」とわたくしにうなづく。
「俺はずっとこうなりたかった。おまえと同じに、なりたかった。ああ、息を止めるのは苦しい! 俺を感情のままに突き動かそうとする身体の、その肉の重み。心臓が張り裂けそうに痛い。──俺がいま、どうしたいか知っている? けれども、俺はそれをだめになったとは思わない。浅ましいとも、醜いとも思えない」
 そう言ってあなたがわたくしへと手を伸ばす。わたくしへ、わたくしの身体へ、こころへ。あなたはわたくしに触れるでしょう。いつかわたくしがしたように、やさしく、時には意地悪のふりをして、その身体で愛してくれるでしょう。わたくしはあなたを感じる。あなたのぬくもり。生きている意味。
 分け合った命のぬくもりの心地よさに、あなたとわたくしは微笑む。あるいは、涙を流す。激しい怒りすらも感じる。離れがたく、しかし離さなければならない唇が悲しい。あなたを愛している。そしてふたりきりの湖畔、希むこころのそのままに抱き合い、夢の続きに生まれ直すのだ。