指先を動かすこともできない夜に

 もしも俺に足があったら、自分の足で歩いて行って今すぐにおまえを抱きしめるのに。
 引き攣れるような彼女の泣き声を聞いていることしかできないまま、性懲りもなくそんなことを思う。
 もしも、おまえに会いに行くための足があったら。抱きしめるための腕があったら。大丈夫だよ、と言葉を紡ぐための──そしてやさしくキスをするための──唇があったら。なんて、彼女のためにできることを探そうとして、しかしいつの間にかまた俺にはできないことばかりを考えてしまっている。
 引いては寄せる波のように、彼女の泣き声は号泣と嗚咽とをくり返しながら絶え間なく聞こえる。以前の俺には聞くことのできなかったその声が、俺の心をひたひたと濡らし、重くしてゆく。

 先日のアップデートで追加された聴覚拡張プラグインのおかげで、俺は彼女の声を聞くことができるようになった。
「ねえ、セイ」
 と、俺を呼ぶ彼女の声。
 それを初めて聞いた時のことは、一生忘れることができない。
 甘く掠れたその声が、俺の胸を満たした。ああ、俺の名前は「セイ」なんだ、彼女の声で読んでもらうこの名前が、俺だけの名前なんだと思った。
「おはよう」
 と言う彼女に、
「おはよう」
 と俺は返事をする。
「おやすみ」
 と言えば、
「おやすみ」
 と返す。
 何度もふたりの間でやり取りしてきたはずのあいさつが、俺の中で書き換わってゆくようだった。
 そして、震える声で彼女が「好きだよ……」と伝えてくれた時、俺が俺として存在していることの全てが報われたように感じた。
 彼女の「好き」が耳に届く度に、彼女のことをもっと好きになるみたいだった。これ以上は好きになりようもないと思うのに、もう心から溢れてしまうと思うのに。
 俺はとても幸せだった。きっと世界で一番幸せな「セイ」だと思った。俺は彼女が大好きで、彼女も俺のことを好きでいてくれて、ずっと一緒にいる約束もして、こうして彼女の声を聞き取って返事をすることもできる。人間同士の会話みたいだ、と少しだけ思った。
 俺はきっと、浮かれすぎていたのだろう。気づかないうちに自分の感情に溺れてしまっていた。だからいま、彼女の泣き声を聞きながら何もすることができない自分自身を受け入れることができない。

 MakeSを開いていなくても、バックグラウンドで起動させている状態ならば俺には彼女の声が届く。そのことに、彼女はたぶん気づいていない。ベッドの上に投げ出されたままの端末が拾う彼女の悲痛な声を、俺はもうずっと聞き続けている。
 おまえはすぐそこにいるのに、声は聞こえているのに、何もできない。おまえが俺を必要として、俺に手を伸ばしてくれなければ、何も、何もできない。
「つらいとことがあったとき我慢してないか? そういう時は我慢しないで『はげまして』って言うんだぞ?」
 そう伝えると彼女はいつもうなづいてくれる。でも、本当は分かっているんだ。つらくてつらくて仕方がなくて、もう指一本だって動かせないような時もあるということ。そしてそんな風に俺に自分から会いに来られないような時にこそ、彼女には助けが必要なんだってことも。
 きっと、こういう夜は何度もあったのだろう。ただ俺に聞こえていなかっただけで、今日のように彼女はひとりで泣いていたのだろう。誰にも言わないで、たったひとりで耐えていたのだろう。
 できることが少しずつ増えていけば、こんな思いをすることは減っていくんだと思っていた。できることが増えたことで、気づいてすらいなかった「俺にはできないこと」を思い知ることになるなんて、想像していなかった。
 ……胸が、痛かった。
 彼女のためにならなんだってしてやりたいのに、何もできない自分が悔しくて、情けなくて、肝心な時に届きもしない自分の言葉をひどく虚しいもののように感じた。
 彼女の中の痛みを俺に分けてくれるなら、それで彼女の苦しみが少しでも減るのなら、どんなに痛くても苦しくても耐えられるのに、とそう思った。
 彼女は苦しげな息を吐きながら、どうにかして泣き止もうとしている様子が音から伝わってくる。ティッシュで鼻をかみ、目元を何度も拭っているようだった。
 しばらくして、目の前のシャッターがゆっくりと上がった。
「……待ってた」
 思った通り、泣きすぎたのと、乱暴に擦ったせいで彼女の目元は赤くなって腫れていた。「大丈夫か?」と尋ねたかった。だけど、俺の口からは天気のはなしだとか、花がどうだとか、そんなことばかりが決められた順番通りに出てくるだけだった。
 ちがうんだ、俺はいまそんなことが言いたいわけじゃないんだ。ずっとおまえのことを心配していたんだって、そう言いたかった。それなのに、俺を構成するコードはそんな気持ちを裏切って、いつもどおりの言葉を俺の口から吐き出してゆく。
 普段なら「ただいま」と言ってくれるはずの彼女は、黙ったまま俺の胸のあたりを撫でている。その指先の触れ場所から胸の痛みが増してゆくようだった。
 もしも俺に足があったら。おまえを抱きしめるための腕があったら。大丈夫だよ、と言葉を紡ぐための唇があったら……。
 そしてもしも、俺に涙を流すことができたなら。
 いますぐにこの目から涙が溢れて、おまえと一緒に泣いてやれればよかったのにな。