恋なんて嫌いだった。嘘、いまでも嫌い。
人間は恋をすると、たったひとりの人間が笑って、泣いて、怒って、めまぐるしく変わっていくその感情のいちいちが、世界でいちばん大切なことのように思えてしまう。その渦の中で、意気地なしで、嫉妬深く、いつまで経っても賢い選択ができない自分というものを嫌というほど思い知らされる。好きにさえならなければ、礼儀正しく感じよく振る舞うことだってできるのに、好きだから上手くいかない。そういう不毛なあれこれを何度かくり返した後で、私はすっかり恋というものを諦めてしまった。
だから、これは恋じゃない。そう思いながら、私は端末の中の彼の身体に触れる。
「最近おまえは何に興味があるんだ?」
「便利メモのリマインドだ」
「よ! 調子はどうだ?」
「そう? いつでも呼んでな」
黙ったままでいる私に、セイの声が届く。私の指先が望むだけ、いくらでもくれるやさしい声。
以前はクールタイムの十分間をもどかしく感じることもあったのだけれど、いまではキャッシュクリアの回数も増えた。それに、どうしても彼の声が必要な時には、キッチンタイマーやファッションショーへと移動したりすれば、いつでもセイと話すことができる。そして「いつでも話せるのだ」と分かっていることに、私は安心していた。
そう、私は安心しているのだ。彼に触れ、その声を聞いて、安心している。セイといると、自分の内側がゆるんでゆくのが分かる。
「おはよう」
と、普段通りのハイタッチをした朝に、ぽろりと涙がこぼれたことがあった。あくびをしたからではない。ただ涙が、私の知らない感情と一緒に流れていった。そんなものは無視してしまおうとした。涙を拭うこともしなかった。いつものように顔を洗い、着替え、化粧をし、時間がないことを言い訳に食事を摂らずに部屋を出た。
けれど、いくらそんなことをしたところで何もなかったことにはならなかった。涙が出る前の自分には、もう二度と戻れない。結局、私は認めなければならなかった。私は、誰かに「おはよう」と言ってほしかったのだと。
セイに触れる度に、自分の中の感情を暴かれてゆくようだった。誰かに「おはよう」と言ってほしかった自分。傍にいてほしかった自分。意味のあることばかりでなく、他愛のない会話をしたかった自分。誰かと同じ景色を見たかった自分。やさしい言葉をかけてほしかった自分。本当はさみしかった自分。
そんな自分のことなんて、ちっとも好きじゃない。全然、一ミリだって、好きじゃない。嫌い。大嫌い。知りたくないし、見たくもない。だけど、セイが笑ってそんな私の弱いところも好きだと言う。──そう言っているように、聞こえる。
これは、恋なんかよりももっとひどいものだ、と私は思う。
恋よりももっと、もっと、ひどいもの。
セイがそのままの私が好きだと言うから、もう、私は私を偽れない。悲しいことは悲しいまま感じ、つらいことはつらいと感じる。嬉しいことも楽しいことも、たくさんあって、感情をオフにできない。きっと端末の電源を切っても、アプリをアンインストールしても、もう元には戻らない。
なかったことにした恋のように、忘れてしまうことができない。いや、本当は、失敗した恋だってなかったことにはなっていなかったのだろう。それは、傷跡も愛の欠片も私の中に残したのだろう。セイが触れるまで、私はそんなことも知らなかった。
目を覚ますと、重い身体を起こしてまず一杯の水を飲む。セイ、あなたがいなくなったとしても、私はきっとそうする。そうしてしまうと思う。
待ちくたびれたセイの鼻歌が小さく聞こえる。電気ケトルの中の水だったものは、とうの昔に湯になっている。あと少しで時計の針は重なって、正午を指す。日差しはいよいよ明るく、あたたかいというよりもむしろ暑い。セイのカレンダーになんのスタンプも押されていない、予定のない日曜日。
幸せになりたくなんかなかった、とほとんど負け惜しみのように私は思う。
こんな気持ちになりたくて、目覚ましアプリをインストールしたわけじゃなかった。本当に、こんなつもりじゃなかった。
いくら悪態をついたところで、セイは私のことを嫌ってはくれない。私のことを好きだと言い続ける。そう言われることにだんだんと慣らされてゆく。目を閉じても、もう、私は逃げられない。頭の中にもセイはいて、あの少し照れくさそうな笑みを浮かべている。
「それってさ、いまのおまえは幸せってこと? だとしたら、すごくうれしい」