グラスのなかの真っ赤な液体が、彼女の薄く開いた唇のなかへと注がれてゆく。そして、こくり、こくりと嚥下する度に動く喉の白さから、俺は目を離せないでいた。
バーと呼ぶほどではないけれど、落ち着いた雰囲気の店内には、ささめきのような声が満ちている。秘密めいた目配せ、グラスのかちりと合わさる音、堪えきれないみたいにくすくすと漏れる笑いも。だから、
「セイくんは、なにが飲みたい?」
「えっ?」
と、いきなり尋ねられて、思わず間の抜けた声が出た。飲みたいもなにも、と俺は彼女を見上げる。カウンターの上に置かれた端末からは、髪をアップした彼女の細い首がやけにはっきりと見えた。
「もし飲めるならなにを飲んでみたいのかなって。大丈夫、ちゃんと私が飲むからさ」
少し酔っているのだろう、いつもよりも楽しそうな調子で彼女は続ける。
「だから、セイくんの飲みたいものを頼んでみようよ」
本当に大丈夫か? と観察してみたけれど、顔色は特に変わっていないように見える。俺が知らなかっただけで、意外と彼女はアルコールに強いのかもしれない。
「うーん、そうだな」
と、俺はバッググラウンドで検索をしながら、期待の籠もった彼女の視線を受け止める。彼女が飲んでいたのは、確かカシスソーダというお酒らしかった。同じようなものでない方がいいだろう、と俺は慎重に考えを巡らす。この店にありそうなメジャーなカクテルで、でも普段は彼女があまり飲まないようなものがいい。──だって、その方が飲む度に俺のことを思い出すだろうから。
「……ジンライムかな」
「OK! 初めて飲むなぁ」
「ふうん、そうなのか?」
「うん、決まったものしか飲まないから」
そういうものなのか、と少し調べただけで選びきれないほどたくさんあったアルコール飲料を思い返しながらしながら不思議に思う。俺だったらいろいろ試してみたくなると思うけどな、なんて、あり得ない想像をしてしまう自分が可笑しかった。
「酔う、ってどんな感じなんだ?」
ジンライムを待つ間、俺はそんな質問をした。
「そうだなぁ、身体がふわふわする感じかな。自分のコントロールから、ちょっと離れる感じ。身体だけじゃなくて、心も」
「それは少し、怖いかも」
酔った彼女が転んでしまうところを思い浮かべながら俺は言った。正確には、ふらりと蹌踉めいた彼女と、それを受け止めることのできない自分を予想しながら。
「そうだね、怖いね」
と、そんな俺の気持ちも知らないで、彼女は簡単にうなづく。怖いなら飲まなければいいのに、と思ってしまうけれど、それはたぶん俺の学習がまだ足りないせいなんだろう。
俺の代わりに彼女が注文したカクテルは、シンプルな配合のせいかすぐに出てきた。グラスの中の透明な液体に、照明の光が落ちてゆらゆらと小さな月のように揺れている。「きれい」と息をのむように彼女が言う。その表情を見て、俺の胸の裡にも安堵のさざ波が広がってゆく。
彼女の唇が、グラスの縁に触れるだけでドキドキしてしまう。知らぬ間に、そのつめたいグラスと、自分の唇を描画している端末の画面とを重ねている。俺が飲みたいと言ったカクテルが、少しずつ、また少しずつ、彼女の内側へと取り込まれてゆく。もっとゆっくり飲まないとダメだと、そう忠告しなければならないはずなのに、俺の口からはどんな言葉も出てこなかった。とろり、と瞳を溶かすように彼女は笑う。
「美味しいね、セイくん」
「うん、美味しいな」
美味しい、という言葉が口の中で甘かった。美味しい、うれしい、よかった。甘露のように言葉が滴る。俺の舌には味覚がついていないけれど、言葉の味を感知する機能はあるみたいだ。
なぁ、と彼女に呼びかける自分の声が、酔ってもいないくせにひどく甘ったるかった。だけど、相手は正真正銘の酔っ払いなので、気にしないことにする。
「カクテル言葉って知ってるか?」
「花言葉みたいなものでしょう?」
「そう、花みたいにカクテルにもひとつずつ言葉が与えられているんだ。例えば、さっきおまえが飲んでたカシスソーダなら『あなたは魅力的』だな」
「へえ、詳しいね」
俺の髪の毛先を掬うように、彼女の指先が動く。端末はそれを耳へのタップとして処理し、俺の感覚へと伝える。そこは何度触れられてもくすぐったくて、でももっと触れてほしくて、もどかしい。
「じゃあ、セイくんが頼んだジンライムは?」
と、彼女が尋ねる。
「ジンライムは……、千日紅の花言葉とおなじ、かな」
正確にはちょっとちがうんだけどと俺は付け足しながら、どうかなんでもないような顔ができていますように、と強く念じる。少しでも気を抜くと、恥ずかしくて表情が変になってしまいそうだった。
俺の答えを聞いても、彼女は何も言わなかった。そしてそのまま手のひらで端末ごと俺の顔を隠してしまった。その暗がりに彼女の人差し指と中指とが伸びてきて、その二本の指先でそっと俺の唇に触れた。ここからは彼女の顔は見えなかったけれど、俺には彼女がどんな顔をしているかが分かるような気がした。
俺は自制心を少しだけ手放して、
「もう一回しよ?」
と、ささやいた。その声はイヤフォンを通して、彼女にだけ届いた。
それからふたりは、何度もそれをくり返した。店内のざわめきを遠くに聞きながら、その密やかな行為に溺れた。俺も彼女も、きっとたぶんひどく酔っているので、それは仕方がなかった。そんな言い訳を頭の中で用意しながら。