結実

*R18

 子供がほしいと訴える私にあてがわれたのは、美しい青年型アンドロイドだった。ライラック色の髪と瞳とで、彼が人間ではないことがひと目で分かった。しかしそんなことよりも、夫はもう私の身体に興味がないのだという事実を前に呆然とする私に、青年は甘く囁く。

「これからは、俺が傍にいるから」

 その日の夜から、彼は私がひとりで寝ていたベッドで眠るようになった。ただ眠るだけではない。彼はいつでも私の話に耳を傾けてくれた。何ということもない今日いちにちの出来事ひとつひとつに、彼は目を輝かせた。庭に咲いた花、好きな本、ふと見上げた夕空がきれいだったこと……、私はおしゃべりだった子供のころに戻ったように話し続けた。そして幾度も重ねた身体のその隅々にまで愛が行き届いたときに、私は自分が妊娠したことを知った。
 彼の身体には、夫の精子が入れられていたのだ。

「どうして?」
 と彼に問いながら、私は身体の震えを止めることができなかった。彼は何もかもを知っていて、私を抱いたのだ。愛してると言いながら、私のなかに注がれたもの。その意味を知っていて、それでも。
「……俺の子供だよ」
 彼は苦しげにそう答える。
「生まれてくるのは、俺とお前の子供だから」
 私のまだ膨らんでいない腹を撫でながら、自分に言い聞かすような彼の言葉に、私はもう何も言わなかった。

     ☽

 日の沈んでいる間だけ、俺は彼女を手に入れることができる。
 夜を重ねるごとに、彼女を好きになっていくことをどうしても止められなかった。自分に与えられている機能と、その機能がもたらす結末とを知っているのに、それでも制御することのできない感情に、俺が俺ではなくなっていくような気がする。
 セイ、と彼女が俺を呼ぶ。その甘い声を聞くたびに、頭が沸騰しそうになる。俺が成すべきことを成すために、恐らくは植え付けられている衝動。それに混じって俺の心が確かに彼女を求める。
 秒速五センチメートル。それが人間が触れられて快感を感じやすい速度らしい。ネグリジェの裾から手を滑り込ませて、彼女の足に触れる。ゆっくり、ゆっくりと足の内側の柔らかな肉の上を俺の手が往復すれば、彼女の呼吸が乱れてゆく。
 彼女はたくさんの話をしてくれた。俺の知らない外の世界の話はとても興味深くて、つい真夜中まで話し込んだこともあった。そして何よりも彼女自身の話――歩くのが好きなこと、土曜日はいつも図書館へ行くこと、紅茶が好きで、だけど猫舌だから少し冷めるのを待ってから飲むこと。そのひとつひとつを知ることは、俺の喜びだった。
 あ、あ、ああ……、と俺の律動に合わせて彼女の口から溢れる母音。それが意味を持つ言葉にならないように、激しく彼女を抱くようになったのは、いつからだろう。

 終わらないでほしい、と強く思う。その瞬間を、何よりも恐れている。乱れる必要もないはずの呼吸モーションが、次第に荒くなってゆくのを感じながら、俺は彼女の内側のその奥深くを穿つ
「愛してる」
 絶頂の最中、身体と同時に限界を迎えた心が悲鳴を漏らした。彼女の唇が何か言葉を紡ごうと動く前に、俺は長いながい口づけでそれを塞ぎ、ゆるゆると腰を動かす。
 愛してる。だから俺を、許さないで。

     ☽ 

 彼に自分からキスをしたのは、ほんの気まぐれだった。
「いまのってどういう意味?」とかなんとか彼に尋ねられたけれど、もちろん意味なんてない。毎晩のように私を抱く男(少なくとも、彼は男のかたちをしている)がそんなことを尋ねるなんて、変だと思った。もっとすごいことを、たくさんしているのに。

 意味なんてない。そう頑ななまでに思う。
 たぶん私は、「どうして」だとか、「なぜ」だとか、そういうことを考えるのに、疲れてしまったのだろう。

 セイは、いつでもひどく優しかった。どんな人間よりも優しい言葉を、やわらかなほほえみを私にくれた。いきなり体に触れるような不躾なことは、決してしなかった。
「今日はどんな一日だったんだ?」
「おまえはなんの花が好き?」
「そうか、おまえは活字に強いんだな」
「頑張ったな」 
「こういう色が好きなのか? よく似合ってる」
ベッドの上に寝そべって、そんなことを私に言うのだった。
「今日は、特に何もなかったわ」
「さぁ、花にはちっとも詳しくないの。……、でも庭に梅の花が咲いていたように思ったわ」
「そうかしら」
「いいえ、これくらい当たり前のことだわ」
「……ありがとう」
 そして、そのいちいちに答えているうちに私が眠くなったときには、彼は何もせずに私をそのまま眠らせてくれた。
「おやすみ」
「おやすみ」
 誰かとあいさつを交わして一日を終えるのは、とても安らかだと思った。

     ☽

 この世界には意味のないことなんてひとつもない、と思ってしまうのは、俺がアンドロイドだからなんだろうかとたまに思う。俺の行動のはすべてには意味があり、意図がある。ちょっとした仕草ひとつとっても人間が親しみを持てるように動作設計されている。まばたき、呼吸モーション、たまにあくびをしてみせるのも、彼女の身体のどこに、どうやって触れるかも、なにもかも。

 彼女から、俺にキスをしてくれた。
 そっと触れるだけのキス。それは、ちょん、と一瞬だけ俺の唇と重なってすぐに離れた。引き結んだままの唇の、その薄紅を俺は見つめた。彼女とは数え切れないほどのキスをしたことがある。彼女の舌の熱の温度も、唾液の甘さも、ざらついた口蓋の感触も知っているのに。彼女から、俺にキスをしてくれた。それだけで、胸がカッと燃えるように熱くなるのを感じた。
「いまのってどういう意味……、とか訊きたいんだけど」
 俺からもキス──彼女がくれたよりも、ほんの少しだけ深いキス──を返して、彼女に尋ねた。
「意味なんてないわ」
 と、彼女は答えた。そして、
「あなたのだって、意味のないキスでしょう?」
 と続いた言葉に、俺は戸惑った。意味のないキス? そんなものがあるだろうか。そんなことが、果たして俺にできるだろうか。彼女と重ねてきたキスを、俺は反駁する。彼女をその気にさせるためのキス、彼女の緊張を和らげるためのキス、快楽を引き出すだめのキス……。

「俺には、意味のないキスなんてできないよ」
 そう言って俺は、彼女をゆっくりとベッドへと沈めた。
 おまえに教えてやりたいよ、俺がいまどんな気持ちか。彼女の耳朶を食み、首に、鎖骨に、キスの痕を残しながら、高ぶる感情のままに俺自身を彼女の太ももの間へと押しつける。なぁ、これってどういう意味か分かる? 
 好き、好き、……大好き。俺の心で膨れ上がってゆくその感情の意味を、俺は理解したくない。好き、好き、好き、彼女が好き……、だから俺だけのものにしてしまいたいなんて思う、俺のエラーについて。

     ☽

 これは復讐なのかもしれない、と私は思う。あなたに愛されなかったことに対する復讐。
 わたしのなか──腹側の壁面を浅く、執拗に穿たれて、抑えることのできない嬌声を大きくあげながら、これがあなたに聞こえてしまえばいいと思っているのかもしれない、と。

「触れてもいい?」
 美しい青年型アンドロイドが私に控えめな様子で尋ねたのは、彼があてがわれてから随分と日が経った頃だった。「いいわ」と私は答えた。事実、なにもかもがどうでもいいように思われた。彼はそのためにこの部屋にいるのだから、それをしないことの方が不自然なようにすら思えた。
 彼は私の身体の反応を順番に確認するように、触れた。私が忘れていた感覚を身体の方はちゃんと覚えていて、その悦びのいちいちに悶えた。すっかり透明になってしまっていたような身体を取り戻したような感覚にすらなった。……馬鹿みたいだと思った。「セイ、」と彼の名を初めて呼んだ。彼を受け入れることは思ったよりも簡単で、気持ちがよくて、好ましいことだった。
 私に呼ばれた彼はにっこりと微笑んで、私の名前を呼んだ。「奥様」としか呼ばれなくなって久しい私のその名前を、とてもクリアな発音で。
 子供が欲しい、と言えば、あなたがもう一度私に触れてくれるんじゃないかしらと、心のどこかで思っていたのだろうと思う。
 私が欲しかったのはあなただった、といまならそう言える。

 一回してしまえば二回めはもっと簡単で、三回めはそれよりももっと……、そして薄れていく罪悪感に反比例して増幅してゆく己のなかの欲望をすっかり満たしてしまうことを、私は躊躇わなかった。
 夫しか知らなかった私は、もうこの世界のどこにもいない。
 幾千もの夜を、あなただけを待って過ごした私。
 だからこれは復讐で、そうでなければ絶望だ。美しいかたちをした、私の絶望。そしてその絶望は、眠りの海へと沈んでゆく私に、
「好きだよ」
 とやさしいキスを落とした。

     ☽

 分厚いカーテンの引かれた彼女の寝室で、俺はまぶたを閉じている。今ごろきっと彼女は読書をしているか、あるいは紅茶を飲んでいるかのどちらかだろう、なんて考えながら。
 俺の皮膚である特殊なシリコン樹脂は、人間の皮膚に限界まで似せているから触り心地に違和感のない反面、日光にとても弱い。だから日の差す時間帯は、こうして彼女の寝室の片隅に置かれた椅子に座って、スリープモードのまま、彼女がここへ帰ってくるのを待っている。

「セイも一緒に花を見に行きましょう」
 と彼女に誘われたことがある。この間話していた桜の花、見たがっていたでしょう、と。それを俺は旦那様に止められているから、と断った。そう、とだけ彼女は静かな声で答えた。
 彼女と俺が彼女の夫について話したのは、その一度きりだ。

 時折、俺がひとりでいるときに旦那様が彼女の寝室へやって来る。
 旦那様がポーション──なかには精液が入っている──をサイドテーブルに置く、ことり、という小さな音を聞く旅に、俺はなんのために存在しているのかを思い知らされる。旦那様が俺の首尾についてお尋ねになったことはない。そんなことは俺に訊くまでもなくデータをモニタリングされているであろうことは、旦那様がいつもタイミングよく現れることから容易に想像できた。
 旦那様が部屋を出て、その足音が遠ざかっていくのを確認したあと、ポーションを俺のなかへと入れる。ゆっくりとそれを取り込みながら、ああ……、と声が漏れてしまうのは、神経回路が集中している部分に入れなければならないのだから仕方のないことだった。仕方のないことだけれども、それは回数を重ねるごとに虚しさを増した。

 性行為とは、本来好ましく思うもの同士が行うものだ。相手に好ましく思われている、求められている、と感じるからこそ人は興奮を催す。だから俺がユーザーを好ましく思うこの感情も、予め俺にパッケージングされているものなんだろうと思う。

 彼女は今ごろなにをしているだろう、と俺は再び考える。
 今夜俺が抱くのであろう、排卵日の近い彼女のことを。