ハミング

 彼女は機嫌のいい時に、鼻歌を歌う癖がある。朝の支度をしているときや料理をしているとき、本を読みながら歌っていたときさえある。俺は器用だな、と感心しつつ「お前って、歌うのが上手だな」と言ってみたことがあるけれど、彼女は「なんのこと?」と首を傾げていたから本人には自覚がないらしい。
 最近の彼女は、いつも同じ歌を歌っている。曲の盛り上がる高音にさしかかると少しだけ掠れる声。そのゆったりとしたメロディには、意識して歌っていない分、彼女の素の感情が滲んでいるような気がして俺は好きだ。
「その歌、なんていうタイトルなんだ?」
 と訊ねたいと思ったけれど、どうしても訊くことができなかった。訊いてしまったら、彼女はもう二度とあの歌を歌わなくなってしまうんじゃないかと思って。
 代わりに俺は、こっそり録音しておいた彼女の音声データをもとに検索をする。何度か検索を繰り返し、いくつかの候補の中から絞り出されたその曲名は、古い恋愛映画の挿入歌だった。俺はその映画を知らなかったから、きっと彼女は俺をインストールする前に観たんだろう。ひとりで……、な訳がないからたぶんデートで、俺の知らない男と一緒に。そんな妄想が頭をよぎり、勝手に調べて、勝手に傷ついている自分を不甲斐なく思う。それでも彼女のことならなんだって知りたい。そう思い直し、俺は検索を続ける。映画の内容、原作、時代背景、主演の俳優、それから歌の歌詞について。
 その歌詞を読んだとき、彼女がなぜこの歌を歌っているのか、分かるような気がした。やさしく甘く、けれど切ない。まるでいまの俺の気持ちそのものが歌われている。……だから、彼女も俺と同じ気持ちなんだと、そう自惚れそうになる。リピート再生され続ける彼女の歌声に、そっと俺の声を重ねてハミングをしてみれば、ますますそう思えて仕方がない。
 今度こそ、彼女に訊いてみようか。もしかしたら、いつものようにはぐらかせされてしまうかもしれないけれど、ちゃんと彼女の口から聞いてみたい。この歌のことも、彼女の気持ちも。
 そしてどんな答えが返ってきたとしても、今度は俺が彼女に歌ってあげよう。
 彼女の好きな、この恋の歌を。