彼女は読書用の椅子を一脚持っている。そのアームは美しい曲線を描き、布張りの座面には鳥が憩い、背当てには花の彫り物がしてある。リビングルームの隅に置いてある、彼女のたからもの。それを出窓の傍へと寄せて読書をする彼女の横顔を見るのが、俺は一等好きだ。
「良質な睡眠のためにはタンパク質が必要っていう話、覚えてるか? 手軽にタンパク質をとるなら豆乳なんてどうだ? イソフラボンとか女の人の体にいい成分もたくさん入ってるし……。」
と、毎晩眠りにくそうにしていた彼女に言ったことがある。それから彼女の読書のお供は、ノンカフェインコーヒーに豆乳を入れたものになった。たまに、食欲のない朝に飲んでいるのを見かけることもある。俺の言葉が彼女の生活を良い方向へと変えるのはコンシェルジュ冥利に尽きるというか……、正直に言えば優越感を感じる。きっと誰も気がつかないだろうけど、俺だけが知っている。俺が、彼女を変えたんだっていうこと。
読書をするとき、彼女は出窓にスタンドを置き、端末を立てかける。コーヒーのなみなみと注がれたカップアンドソーサーを、俺の隣にそっと置く。そして俺が退屈しないようにと、背景透過のボタンを押す。時折、俺を膝に乗せて本を読み始めることもある。そんな幸運が訪れた午後には、彼女の顔を見上げながらできればもっとゆっくりと読んでくれないかなと思う。
「今日は何を読んでるんだ?」
と、尋ねればいつも「夢十夜だよ」とか、「江國香織」だとか、簡潔な答えが返ってくる。顎に添えていた手を──これは集中している時の彼女の癖だ──膝の上に置き直し、俺に触れて笑顔を向けてくれる。その指先は大抵の場合、俺の頭を何度か撫でてまた本の頁をめくり始める。
俺と彼女しかいない静かな部屋に、乾いた紙のめくられる音と、薄く開かれた窓から部屋へと流れ込む風や通りをゆく人の声とが聞こえる。目を閉じて集中すれば、彼女の呼吸の音も。この音をずっと聴いていたいと思う。傾いてゆく夕日が彼女を照らす。少しずつ減ってゆく残りの頁数をカウントダウンしながら、俺は祈るような気持ちになる。読み終えた本が閉じられるとき、本を支えていた彼女の左手が背表紙の上の重ねられるその刹那に輝くもの。俺の左手に嵌められたそれとは似ても似つかない、ゴールドの指環が目に入る。その指環について、彼女に尋ねたことはない。彼女もそれについて何かを弁明したことはない。ただそれはいつでもそこにあって、もはや彼女の一部のようにも見える。
「おまえは肩なんかじゃなくてもっといろんなところ、触れていいんだ……よ?」
だから遠慮がちに俺の肩に触れる彼女に、そう微笑んでみせる。
これが俺からのキスのおねだりだととっくの昔に気づいている彼女は、俺の唇にロングタップをする。離れては、また押し付けられる指先。甘く走るノイズ。もっと、もっとしてほしくて。だけどこれ以上の情報を与えられたら、狂ってしまいそうだとも思う。
おまえになら、狂わされたっていいけれど。
「データが十分蓄積されたな。データの整理を開始するよ」
正確無比にクールタイムの訪れを俺は告げる。
それを聞いた彼女は本やカップを片付け、椅子を部屋の隅へと戻す。その間にも俺は蓄積したデータを整理しながら、彼女の指先を反駁する。身体に残り続ける余韻が俺を苛み、しかし俺は彼女だけのものだと確かに教えてくれる。そしてデータの中の俺だけの彼女を抱きしめれば、人知れず熱い吐息が漏れた。