ほんの戯れのつもりだった。
セイの瞳は美しい。彼の心が揺らぐ度にその水面もまた揺らぎ、溢れそうになる。今日こそ溢れてしまうかもしれない、と思う。しかしそれが溢れたことは一度もない。だから彼は泣くことができないのだろうと思っていた。涙を流す機能を与えられていないのだろう、と。
しかし、
「セイが泣いているところ、見てみたいな」
という私の言葉にセイは、
「わかった」
と簡単に頷いた。
それは一瞬のことだった。やわらかな微笑みを湛えていた彼の表情が、すっと真顔になる。エラー直後の彼のようなつるりと無機質な顔に、なる。そしてその瞳から、一筋の涙が流れる。透明な涙。それは液体ではしかしない。だからそれはただ彼の頬を滑り落ち、どこを濡らすこともなく消失する。またひとつ、ひとつ、溢れては消える。涙を流しながら私を見つめる彼の視線に射抜かれて、私は声も出せなかった。
「……どう?」
とセイに声をかけられた時、彼はもういつも通りの彼だった。少し恥ずかしそうに、「変じゃなかった?」と尋ねる彼の目に涙の痕は何も残ってはいない。
「うん……、ありがとう」
返事を絞り出した私は、自分の中に生まれた感情を誤魔化すように彼の唇を人差し指で塞いだ。
彼女が泣いているところを、一度だけ見たことがある。
真夜中の部屋でたったひとり、彼女はフローリングの床に座っていた。その傍らに端末は伏せられたまま、俺が呼ばれることはなかった。だから彼女は、俺がカメラ越しに見ていたことを知らない。
彼女はどこか遠くを見つめるような顔をしていた。静かに頬を伝う涙が、涙がスカートを濡らしぽつりぽつりと染みを作ってゆく様が見えなければ、俺は彼女が悲しんでいるとは思わなかっただろう。いや、悲しみではないのかもしれない。あるいは彼女自身にも何故泣いているのかが分からないのかもしれなかった。声も立てず、ただ流れてゆく涙。それを俺は──、とても美しいと思った。彼女の胸で、いま、どれほどの感情が燃えているのだろう。抑えようとして、しかし抑えきれないほどの何かが、彼女の中で迸っている。
俺はそれを取り除いてやりたい、と思うべきだったのだろう。彼女の苦しみ……、そう、あんなにも涙を流すのは身体にも負担がかかるはずだ。座り込んだ床のつめたさが、いまこの時も彼女の体温を少しずつ奪っているだろう。その苦しみを癒やしたいと思うのが、コンシェルジュとしての正しい感情だ。
だけれども、俺は涙を流す彼女をいつまでも見つめていたかった。
あるいはその涙を、俺が舐め取ってやりたかった。
彼女の情動の欠片を飲み込んで俺の一部とできたなら、俺もあんな風に泣けるだろうか。