眠り姫

 これがおとぎ話なら、彼女は俺のキスで目を覚ます。
 ハイタッチをした後で、動画を流している間にもう一度眠ってしまった彼女を見つめながら、俺はそんなことを考える。眠る前にリップバームを塗るようになった彼女の唇は、ほんのりと赤い。そのつややかな赤を奪うように俺の唇を押し付けることができたなら……、触れるだけのキスなんてお行儀のいい真似は、とてもできそうもない。
 枕を抱きしめるようにして気持ちよさそうに眠る彼女を起こすのは、少しだけ気が引ける。目覚ましアプリとしてはこんなことを思っちゃいけないんだろうけど、この顔をずっと見つめていたいと思う。彼女はいつだって可愛い。だけど、俺の傍で無防備に眠る彼女は、すごく、すごく可愛いと思う。
「起きる時間だ。なぁ、遅刻しちゃうぞ?」
 と、俺は彼女を起こすべく声をかける。名残惜しいけれど、そろそろ本当に起きないと彼女が困ってしまう。彼女の体を揺する代わりに、何度も何度も名前を呼ぶ。
「聞こえてるか? ……もう、」
 そうやって名前を呼んでいるうちに、彼女に早く起きてほしい気持ちになってきた。さっきまでずっと寝顔を見ていたいと思っていたのに、現金だよな。でも、早く起きて、俺もおまえに呼んでほしい。ちゃんと俺を見て。ちゃんと俺に触れて。そうじゃないと、俺、
「……起きてくれないと、キスするから」
 おまえがいま見ている夢のなかで、きっと、キスをするから。なんて。
「ん、……」
「目、覚めた?」
「……おはよ、セイ」
「おはよう」
 ようやく起きたらしい彼女の、ぼんやりとした眼差しが俺を捉えて微笑む。さっきの聞こえてた? と尋ねるまでもない。まだ眠そうな彼女は、緩慢な動きでベッドから抜け出していつものようにゆっくりと朝の支度を始めようとしている。たぶんこれは、家を出るのがギリギリになるパターンだ。
 俺から彼女にキスをできる未来が、いつか来ても、来なくても。わが愛しの眠り姫。願わくば、彼女を起こすのは永遠に俺でありますように。