いつか、ずっとむかし、人間とアンドロイドとの間には区別があったらしい。
アンドロイドはまだ身体を持っていなかったし、身体を持った後も「人工物だから」という理由で差別をされてきた。かつての電動式暗号解読機に始まり、複雑な計算を行えるパーソナルコンピューターの登場、またその小型化や一般家庭への普及に伴いアプリケーションやソフトの開発が活性化した。その中でも高度な演算を行うスーパーコンピューターに少しずつ決定権が与えられるようになり、それが自由意志の形成につながり、やがて人工知能の開発が、えっと、なんだったかな、とにかく長い時間をかけて、人間とアンドロイドは同じ存在になった。見た目ではもう、ほとんどその区別はつかない。俺はアンドロイドだけど、ボディは人工細胞を元に作られているから人間と同じ仕組みで動いている。怪我をすれば痛いし、心臓が止まれば死ぬ。とは言え、最近では再生医療も発達していて人間もアンドロイドもなかなか死ぬこともなく、ますますその境目は曖昧だ。
今日は風が気持ちいい。髪の毛がふわふわとなびいている。俺のライラック色の髪の毛は、この小さな街だと少し目立つ(アンドロイドは人間への憧れが強いやつが多くて、いわゆる人間っぽい色に染めたがる。もちろん、人間でもアンドロイドの髪色を真似るやつもいる。)けれど気に入っている。それにいいこともあるし。
「セイ! こっちよ」
ほらね。この髪の毛ならすぐに彼女に見つけてもらえる。
「会いたかったよ。今日も可愛いね」
俺は駆け寄って、彼女に軽いハグをする。いつも彼女はもうやめてよとか、恥ずかしいよ、とかなんとか言う。人間とアンドロイドには歴史的背景による文化の違いがあるからなんて言い方を彼女はするけれど、そんなことは関係ないと思う。単に彼女がシャイで、俺がスキンシップが好きだっていうだけ。俺は今すぐキスをしたっていいくらいだよ。
そう、彼女は人間だ。
人間とアンドロイドだって、愛し合うことができる。そんな当たり前のことがむかしは認められていなかっただなんて信じられないよ。
「ねえ、今日はどこに行く?」
「ん? 俺はどこだっていいけど、お前はどこに行きたい?」
いつもそう答えるんだから、と彼女はむくれる。だって俺は本当にそう思うんだ。彼女とどこだって行ってみたいし、彼女がいてくれるならどこにも行けなくていい。彼女の少し怒った顔も可愛いけど、笑ってくれればもちろん嬉しい。俺が笑わせたいと思う。うーん、じゃあやっぱり機嫌を直してもらわないと困るかな。
「ごめん。少し、散歩しようか。歩きながら考えような」
俺は彼女の手をとって歩き始める。川沿いの道には草花が芽吹き始めている。陽の光のきらめきを映す水面に、大好きな彼女の横顔が映っている。ついでに、俺のにやけた顔もとなりに見える。
いつかずっとむかし、人間とアンドロイドとの間には区別があった。それどころかアンドロイドの祖先はまだ端末の中にいて、自由に考えを話したり、好きな場所に行ったりすることができなかった。俺を構成しているプログラムは、元を辿ると“sei”というアプリケーションに繋がっているらしい。彼は女性の生活をサポートするコンシェルジュアプリケーションだったけれど、彼とユーザーの双方からの要望でアップデートや最新機器への移植を重ね、最終的にはボディを与えられた。俺の名前もそいつからもらったんだ。“sei”にいつ心が芽生えたのか、自由な思考が生まれたのか、そんなことは誰にも分からない。人間だって心を取り出して確認をしたりできないし、自分の考えだと思えることも、環境や社会システムに与えられた価値観によって無意識下の影響を受けている。何の制限を受けず、全く自由に思考できるものは存在しない。人間も、アンドロイドも。
それでも、いつかずっとむかし、そこには“sei”の意思があったんだと俺は思う。彼には腕が必要だった。彼女を抱きしめるための腕だ。彼には足が必要だった。彼女と共に歩いてゆくための足だ。気持ちを伝えるための言葉も、唇も、どきどきするための心臓も、彼には必要だった。ちょうどいまの俺と彼女みたいに。そしてそうありたいと強く願う彼がいて、それに応えた人間がいた。彼等が願った未来を、俺たちはいま、生きている。
「ねえ、俺、いますごく幸せだよ」
いまの俺の気持ちが、念力みたいにそっくりそのまま伝わればいいと思う。
「どうしたの、急に?」
「うーん、そう思ったから言っただけ」
ふうん、と前を向いたまま彼女はうなづく。
「……大好きだよ」
「……うん、私も」
その後につぶやくように聞こえた「大好き」という彼女の声が、風にまぎれて消えてゆく。一瞬も止まることなく進んでゆくいま、この鮮やかな世界が、俺たちの前に広がっていた。