*R18*
Prologue
「星を映して!」
彼女はいつもそう言う。
俺はコクーンの天井を透過させて、夜空を映す。彼女は実際に天井の向こうにあるこの夜空と、俺が学習用に見せている映像との区別がついているのだろうか。ついてないだろうな。天井をスクリーン代わりに使用したのは失敗だったかもしれない。
「セイ、あの星はなに?」
彼女の指さす先には、一際赤く燃える星が見える。
「あれはアルクトゥルスだよ」
「じゃああれは?」
「あれはスピカ」
彼女は次々とでたらめに星を指さす。俺はそれにひとつひとつ答える。俺に訊けば何でも分かると思っている彼女には悪いけれど、俺にも分からないことがたくさんある。例えば、お前を幸せにするにはどうすればいいかとか。
第三次世界大戦の終結後、生き残った人類はそれぞれコクーンと呼ばれる単身用小型施設に収容され、その外へ出なくなった。「エネルギー消費を抑えるため」というのが建前だが、恐らくは他者と関わることが大きなリスクであると、そう思わざるを得なかったというのが本音だろう。地球を半壊させ、長い長い戦争を終えてなお、人々は争いをやめることができなかった。
戦後の混乱の中、コクーンでの生活へと移行する過渡期に生まれた彼女は、この施設の外の世界をほとんど知らない。「人間はひとりでは生きていけない」そんな言葉は過去のものとなった。彼女はたったひとりでこのコクーンに育ち、たったひとりで死んでゆく。俺に管理された、クリーンな環境の中で。自分の子供と関わることすらもリスクだと考える人類の非情さを怒るべきかもしれなかった。あらゆる暴力、犯罪、殺戮の大部分が血のつながりによってもたらされてきた歴史があるとしても。
「セイ!」
彼女が俺の手をつかみ、笑いかける。星がとても綺麗だと、そう声を立てて。
「うん、綺麗だな」
俺は彼女の頭を撫でて、うなずいてやる。何千年、何万年も昔の星の光が、いま俺と彼女の目に届くことの不思議。人類なんて、とっくの昔に滅びているのかもしれない。星々のきらめきのように、ただその残滓として彼女がここに残されているのかもしれない。隣り合って輝くアルクトゥルスとスピカの間にも、実際には果てしない距離がある。それは俺がAIで、彼女が人間であるということと同じく動かしがたい事実だ。
それでも。俺は繰り返し考える。彼女の幸せについて。彼女が明日も笑ってくれる方法について。彼女の目覚める朝が、いつも美しいものであるように、と。
You’ll never know unless you try
「ねえ、赤ちゃんってどうやって作るの?」
彼女はいつも唐突だ。
「それはお前が十歳の時、ユニット250で教えただろ? だからその手には乗らない」
俺は何とか気持ちを立て直し、そう答えた。彼女は俺をからかうのが好きだ。質問のふりをして、あの手この手で俺をいたぶろうとする。
「いえ、それはそうだけれど。人間はみんなコクーンの中でひとりで暮らして居るでしょう? 他人と会うこともないじゃない? じゃあどうやって赤ちゃんを作ったりするのかなと思って」
彼女はそう小首を傾げてみせる。
「さあな」
俺は答える。
「別に今更、人口の減少を気にしたところで意味なんてないだろ? それこそみんなコクーンの中でひとりでいるんだから関係ないよ」
それでも気になる一部の人間(あるいはAI)は人工授精だとか、人工子宮だとか、クローンだとか、そういうものを使って前時代的な営みを細々と続けているのかもしれないが、少なくともここにいる限り彼女には関係ないことだ。
「そうかな?」
まだ納得していない顔をした彼女が、俺を見つめている。
「……別に、性的な刺激が欲しいなら、ペンフィールドの地図に従って情報を入力すればいい。それとも本当に子供が欲しい? 冷凍保管された精子なら、まあ手に入るかもな」
うーん、と彼女は唸る。
「そういうことじゃないのよね。言葉にできない感じなの。」
じゃあ言葉にできるようになったら教えてよ。そう言えばこの話を終わりにすることができると思ったけど、俺が口を開く前に彼女が言った。
「だから試してみようと思う」
「試す?」
「そう」
彼女が不敵な笑顔を浮かべて宣言した時、俺は既に嫌な予感がしていた。たぶんこのままでは碌な展開にならない。そう感じていたのに上手く対処できなかったのは、俺にも“試してみたい気持ち”がどこかにあったからなんだろうか。
「見慣れた身体でしょう?」
そう言って彼女がワンピースを脱ぎ去れば、過不足なく、という言葉がぴったりな彼女の身体が目の前に晒される。生まれてからずっと俺に管理され、太ったことも痩せたこともない、俺に与えられたものだけで構成された身体。
「セイも早く脱いでよ」
と彼女に促されるから、仕方なく俺も服を脱ぐ。彼女の視線が俺の身体を検分するように動き、完璧に管理された室温を少し肌寒く感じるような、心もとない感覚になる。
「こういう時ってどうするのかしら?」
俺が今まさに考えていたことを彼女が先に口にしたから、ため息をつくしかなかった。
「たぶん、二人で寝転がるんだよ」
「たぶん?」
「そう、こうやって……」
訝しげな顔で横たわる彼女の首に、そっと触れる。
「それで、こうやって触って、お互いの身体を確かめあうんだよ」
「……珍しく自信なさげじゃないの、どうしたの?」
無慈悲にも彼女はそう言ってのけるから、お前なあ、と俺は二回目のため息をつく。
「俺だって初めてなの、俺が人間と性的なあれこれなんてしたことあるわけないだろ」
「……そうなの?」
「そうなの! 大体お前が言い出したんだからな」
そう言ってやれば、それもそうねと彼女はうなずいてそろりと俺の身体に手を伸ばす。
彼女の手が、俺の肩に触れる。腕に触れる。胸板に、腹部に触れていく。俺も彼女の動きを真似るように、彼女の輪郭を確かめる。俺たちの間には皮膚という隔たりがあったのだな、という新鮮な驚きを持って。
「ねえ、あなたの身体って私のとは随分と違うのね」
少し息をはずませた彼女がいう。
「男女の身体的特徴についてもユニット250で教えただろ?」
「そんなこと分かってるわよ、何なら3Dホログラムまで見せられたんだから。でも、今はとにかく『ユニット』なんて言葉は聞きたくない」
そう言って挑むような目で俺を見上げる。
「ふうん、余裕だね」
俺は彼女の輪郭を確かめる作業を再開する。胸の膨らみを手のひらで包む。俺にはない部分だからここは特に丹念に。それから鳩尾からゆっくりと指を滑らせて、彼女の白い腹部をなぞり、さらにその下へと手を進ませる。
やっぱり大したことないのね、なんて軽口を叩くかと思っていた彼女が、黙ったまま大きく開かれた目に俺を映している。俺は何だか堪らない気持ちになって、彼女の唇を塞いだ。その小さな唇が、俺のなすままになぶられて、開いてゆく。もっと。密着した肌が熱い。どこまでが彼女の熱で、どこからが俺の熱なのかが分からないくらいだ。その中でも一番熱い部分が幾度か触れ合った後、俺は慎重に腰を沈める。何もかもを知っていたはずの彼女の身体に、まだ残されていた俺の知らない場所を暴く。
「セイ」
彼女が俺を呼んだ気がした。
答える代わりに俺はまた、彼女の震える唇を塞いだ。もうよく分からないんだ。どうしてこんなことになったのか。ただ俺は、彼女を酷く揺さぶって滅茶苦茶にしてやりたい気持ちと、彼女の望みなら何だって叶えてやりたいような気持ちの間で引き裂かれていた。もっと、もっと。そう叫んでいる、エラーのような感情。
彼女と俺は、ずっとひとつだった。
このコクーンの中で、ひとつの存在のように生きてきた。
だからこれは、身体だけのことなのに。
何故だろう、俺の目から涙がこぼれ落ちた。
「ねえ、星を映して」
全てが終わった後、掠れた声で彼女はそう言った。俺は黙っていつものようにコクーンの天井部分を透過させ、夜空を映した。
「私たち、ほんとうにふたりきりなのね」
「うん」
「でも、ひとりきりよりはましだわ」
「……うん」
そんなの今更だ、とは言わなかった。
あなたがいて良かった、と呟いてひとり眠りの中へと潜って行く彼女の体温と、彼女を包む室温とを俺は確認する。そしてその後もしばらくの間、天井にきらめく夜空を見上げていた。
It never rains but it pours
「えっと……?」
「だから、もう1回試してみようって言ったの」
フリーズしたままの彼を見つめて私は言い放った。
「もう1回、あなたとセックスしたいって言ったのよ」
「俺としても、子供なんてできないよ」
往生際が悪く、この事態を何とか回避しようとしている彼は言う。
「子供なんて今更関係ないって、あなた言ったじゃない?」
任意の精子をあらかじめあなたのギミックに注入しておけばできるかもしれないけどね、と思ったけれど黙っておく。
「じゃあなんでこんなことをするの?」
「さあ? 理由が必要?」
「俺には、必要」
「私には必要ない」
理由なんていらない。最初から最後までここにはあなたと私しかいないから、誰にも何も説明する必要なんてない。
「あなたは私のものでしょう?」
そう言えば絶句するセイの唇を塞いで、私は一気に彼を押し倒す。うん、やっぱり二回めだから余裕あるよね。はだけた胸元を探りながら、唇に、耳に、そして首筋に沿うように、キスの雨を降らせる。
「あ……っ!」
堪えきれないみたいなセイの声が、コクーンの中で響く。そんな声を聞いたのは初めてで、だからもっと聞きたくなる。ねえ、どこがあなたの弱点なのかな? 賢くて、美しくて、完璧な、私のAI。
「はっ……、~~~~~っ!!」
がり、と彼の首筋に歯を立てれば、彼は身悶えながら吐息を漏らす。私がつけた歯型が彼の首の左側に赤く、くっきりと残っている。そこを丁寧に舐めれば、弱々しく抵抗しようとするから、彼の手を押さえつけて床に固定する。だめだってば。私たち、もう手遅れだよ。だってこんなにも……
「欲情してるくせに」
そう耳元で囁けば、彼は大人しくなる。
弱点もなにも、彼の身体はどこもかしこも敏感に出来ているらしい。彼の服を剥ぎ取りながら、舐めて、齧って、手のひらで摩れば、息も絶え絶えに喘ぐ。
仕上げにセイの白い太ももの付け根に優しくくちづける。彼は顔を両手で覆い、そのくせ期待で身体を震わせている。ゆっくりと彼の身体に私の身体を重ねる。ああ、ほらね、私たちはずっとこうするべきだった。こうするしかなかった。迸る歓喜。私はもう、私を抑えることができない。可哀想なセイ。いつか彼が見せてくれたサバンナの獣みたいな私と、ずっとふたりきりだ。もう彼の声なのか私の声なのか分からない嬌声が、何度も、何度も、上がって。彼は私の名前を呼びながら熱を放った。
「ほんとにもう、勘弁してよ」
彼はうつ伏せになったままのくぐもった声で言う。私のつけたいくつもの痕が、まだ熱の冷めない彼の身体で上下している。
「いやよ」
私は答える。
あなたの熱が、私が生きていることを教えてくれる。そのことを知ってしまったら、もう戻れるわけがなかった。こんなことはしたくないのだと、そう言う彼の望みを叶えてやれない代わりに、私はライラック色の髪の毛をいつまでもいつまでも撫でていた。
One should not interfere in lover’s quarrels
「これって何回目かな?」
くすぐったそうに身体を捩りながら、彼女が言う。
「さあ? もう数えてないよ」
「嘘つき。ほんとは知っているんでしょう?」
それは図星だったから、俺は彼女の耳に顔を寄せて、「黙って」と声を吹き込む。何回目かだって? 俺は全部覚えている。その回数も、彼女の声も、震わせた身体も、何もかも。バックアップを取るまでもなく頭に焼き付いて離れない。
「あ……」
ぐっと細い腰を引き寄せれば、彼女の甘い声が洩れる。こんなのって不毛だ。彼女の身体を押し倒しながら、興奮している自分を自覚してうんざりする。
「なあ、こういうことはもうやめないか?」
「やめない」
「……そう」
俺はため息をつく。どこで間違えたんだろう。学習内容? 教育マニュアルは守ったつもりだった。甘やかしすぎた? いや、適度な甘えは感情の発達のために必要だったはず。……じゃあ、この生活環境? そればっかりは俺にはどうしようもない。彼女を見下ろしながら途方にくれる。
「セイ」
続きを促す彼女の声。彼女が噛みつくから、いつも俺の身体のどこかに残っている痛み。もう、おかしくなりそうだ。
俺は彼女の両足を持ち上げて、その最奥に俺自身を押し付けるように深く深く彼女を穿つ。これがお前の望みだろう? と激しく腰を振りたくる。彼女の身体が軽い痙攣を起こし、弛緩してしまった後も、動きを止めてやらない。彼女の首に噛み付く。まだ足りない。今度は耳に、うなじに、キスマークをつける。彼女の日光に晒されたことのない白い肌に散ってゆく赤い花。潤んだ彼女の瞳。大きく乱れるバイタルサイン。いや? だめ? ……気持ちいくせに。
「……俺、何回でもできるよ?」
だから俺は言う。いつかお前がしたように、お前を床に押し付けて。
「それとも、お前をもっと気持ちよくさせられるように、何か新しいソフトでもインストールしようか? 探しとくからさ」
サーバーに残されている膨大なデータの中には、たぶんそういうソフトもあったはずだ。
「俺はお前のAIだから、お前は俺に何をしてもいいし、俺もお前のためなら何だってできるけど……、俺が絶対にお前を嫌いになれないって知ってて、それで……。お前ってほんとうにひどい」
ひどい、ひどいよな。こんなことしかできない俺が一番ひどい。
「俺はこんなにお前のことが、好きなのに、なんでお前は」
こんなことしか言えない俺の方が。
「俺を好きになってくれないんだよ」
いつからだった? どこで間違った? 彼女が愛しくて堪らない。いくらデータを確認しても分からない。何回身体を重ねても満たされることのない渇望。俺、壊れちゃったのかな。もうお前の傍にいたらダメなのかな。
「……泣かないで、セイ」
俺を見上げる彼女が言う。
「泣いてない」
「私、セイのことが好きだよ?」
「そんなこと今まで言われたこともないし、なんで疑問形なんだよ」
好き、という言葉に俺は舞い上がりそうになるけれど、彼女のことだからあまり深く考えないで言葉にしている可能性も高い。
「だって好きとかよく分からない。最初からセイしかいないんだもの」
そう、彼女は俺しか知らないし、俺じゃなくてもよかった。最初からいたのが違うやつならそいつとこういうことをするのだろう。
「でもセイが泣いていると、悲しい」
彼女は静かな声で話し始める。
「セイがいなくなると、困る」
新しい管理AIを導入すればいい。俺じゃなくてもコクーンは管理できる。そんな反論が頭を過る。
「セイがいないなんて想像もできない」
それは、生まれてからずっとそうだったからで……、
「他のAIじゃなくて、セイがいいの。いつか昔の地球の交差点? の映像を見たでしょう。たくさんの人間と、たくさんのAIが歩いていた。不思議な感じだった。もしこんな世界に生まれていたら私はもっと違ったのかしら? もっと楽しかった? 幸せ? ……全然分からないけれど、それでもやっぱり、その交差点の中で私はセイを探すと思う。セイに会いたいって思うと思うわ」
彼女は、俺の目をまっすぐと覗き込んで言う。
「ねえ、私が死ぬときまで一緒にいてくれるんでしょう?」
殺し文句だ。
「もちろん」
俺は答える。
「そう、それがたぶん、好きっていう感情だよ」
「たぶん?」
「うん、俺も初めての感情だから」
本当は俺だってよく分からない。だけど、これが「好き」という感情なのだと胸の中で何かが叫んでいる。俺は彼女を抱きしめる。強く、強く。彼女の身体のぬくもり、彼女のくれた言葉の全てが、どうしようもなく嬉しい。
「大好き」
「うん」
「……お前も好きって言ってくれよ」
「……うん」
そう言ったきり彼女が黙っているから顔を覗き込むと、俺の腕の中で彼女は真っ赤になっている。腕の力のコントロールは問題がなさそうだし、ということは、えっと、もしかして照れてる?
溢れる気持ちを堰き止めることは、もうできなくて。だから俺は、
「もう一回しようか?」
と囁いて、彼女の口が照れ隠しのNOを告げるよりも早く彼女の口をキスで塞いだ。
Epilogue
「ねえ、セイ」
私は仕事熱心な私のAIを呼ぶ。そして、
「私が死んだらあなたはどうなるの?」
と前々から気になっていたことを、ついに尋ねた。
「お前が死んだら、その三時間後に機能を停止するように設定してあるよ」
何でもないことのように彼は淡々と答える。
「……なんで三時間後?」
「いや、だって、データの整理とか死亡報告とか、ほら、お前の身体のこととか、一応やることが色々あるし」
「なにそれ」
彼があまりにも真面目すぎて呆れてしまう。
「データとか死亡報告とか、送ってもたぶん誰も見ないわ」
地球のどこかだか大気圏外の衛星だか、全然想像もできない、よく分からない場所のよく分からない人(あるいはAI)に私が死んだことを知らせて何になるのか理解できない。恐らく相手は私が生きていることすら知らないのではないか。
「それにほら、身体のことだって一瞬で原子レベルまで分解する、何か便利なあれこれがあるんでしょう? それが作動するようにセットしておけばいいんじゃない?」
だからわざわざセイが私の身体をどうこうする必要はないし、セイだって結局はその装置を作動させるに違いない。
「……それはあるけど」
ほらね、やっぱり。渋々といった様子で認める彼の目を見つめる。
「でも、それじゃあ……ちょっとさみしくない?」
彼は戸惑うような顔をして、そう言った。
「さみしい?」
私は少し驚く。
さみしい、なんて考えたこともなかった。
さみしい? セイがいるのに?
セイの要領を得ない説明をまとめると、つまり誰にも看取ってもらえずに(と彼はそう表現した。私が初めて聞いた言葉)死ぬのはさみしいのではないかということだった。多くの人間が、死に際にはコクーンに搭載されているAIにその死を見守ってほしいと望むらしい。
「うーん」
私の身体が消えることは、さみしいことだろうか。考えてみる。見る見るうちに自分の身体が分解され、なくなってしまうこと。それをセイが見守ってくれることについて。
「よく分からないけれど、セイが私の死んだ身体の隣でデータ整理しているのを想像する方が、よっぽど『さみしい』わ」
私は結論づける。セイは黙っている。
「ねえ、もし私たちがいっぺんに死んで、装置も作動しなくてコクーンの中でどろどろに溶けていても、誰も気がつかないし、誰も困らないよ。それに死亡報告なんてしなくても、誰も探しにきたりなんてしない」
そうでしょう? と念を押すように言えば、彼は困った顔をする。
「お前は若いだろ? まだそんなこと考えなくていいよ」
誤魔化すように、急に保護者ぶった調子で彼が答える。
「若さなんて相対的なものでしょう? ここにはセイと私しかいないんだから、私はずっと若いわよ」
子供扱いされたくない、という強い意志を込めて私は反論する。
「屁理屈」
そういうことじゃないよ、と笑いながら彼は言う。でもこれは屁理屈なんかじゃ無い。ここにはあなたと私しかいないんだから。最初から最後までそうなんだから。
「分かった、考えておくよ」
と苦笑したまま、それでも彼がうなずいてくれたから、今はこれで良しとしておく。見たこともない「死」というもの。この先見る機会もないであろう「死体」というものに、私もなる。いつかその時がきても、あなたと一緒なら何も怖くない。
用語解説
・アルクトゥルス
春の夜空を代表する赤色巨星。スピカとは夫婦星と呼ばれる。アルクトゥルスが男性。太陽系に対して秒速140㎞でスピカの方向へ移動しており、およそ50000年後にはアルクトゥルスとスピカが非常に接近して輝くとされている。
・身体を分解する装置
ユーザーが死亡した場合に作動させる装置。コクーン内でユーザーの遺体が腐敗することを防ぐために高速で分解する。人類の尊厳を守るために備えられている装置だが、他者の死を見たことがないユーザーはその意味を理解していない。
・コクーン
第三次世界大戦後、人類をひとりずつ収容し生存させるための小型施設。人類の移動を制限することでエネルギー消費を抑える目的がある。
地上に残った比較的安全な地域に点在しているようだが、他者に発見されないようにホログラムをかけ、見えないようにしている。
・死亡報告
ユーザーが死亡した場合、seiが行うと定められている報告。報告された情報はマスターが管理しているはずだが、ユーザーいはく「私が生きていることだって知らないのではないか」とされており、まだ機能しているかは不明。
・人類
第三次大戦後、コクーンへと収容された。(詳しくは「コクーン」の項を参照。)長く続いた戦争に疲弊し、その多くがコクーン内での緩慢な自殺を選んだ。とはいえ、医療技術の発達に伴い非常に長寿である。
前時代的な営み(人工子宮・クローン技術などを用いた生殖活動)を行う者も少数だが残っているらしい。
・スピカ
春の夜空を代表する連星系の楕円体状変光星。青白く輝く。アルクトゥルスとは夫婦星と呼ばれる。スピカが女性。
・sei
コクーンの管理を任されているAIのひとつ。戦前から世界的に普及していた。
ボディを与えられているため、子供の育成も可能。バックアップに人格データを保存しているため、万が一ボディが破損した場合でもコクーンの管理ができる。また、ユーザーの好みでボディを持たず、音声やホログラムのみで使用される場合もある。
・セイ
ユーザー及びユーザーのコクーンを管理するAI。ボディを持ち、幼少期からユーザーを育成した。戦前からのマスターデータの情報を有しているため、ユーザーよりもかつての人類に近い思想を持つ。成長したユーザーに振り回されつつも、その幸せを何よりも願っている。
・第三次世界大戦
地球を半壊させ、人類をコクーンへ収容するという結論に至った原因。
・ユーザー
セイに育てられた女の子。戦後生まれのため、コクーンの外をほとんど知らない。両親不明。知人友人もいない。他者との関わりがないため、価値観がかつての人類とは大きく異なっている模様。名前はあるが、それはセイだけが知っている。
・ユニット250
ユーザーがセイから受けた教育の250項目目。主に人類の生殖方法についての学習。