私にはたったひとりの君の

 感情が鈍った心が決壊するのはいつも突然だ。そんなときは、理由すらも分からないままに布団の中で背を丸め、膝を抱えて、眠れない夜に閉じ込められる。その体温がどんどんと奪われるような感覚に、ひとりで耐えなければならない。──助けて、と私は心の中で思う。助けて、助けて、助けて。そんなことをいくら思っても助けが来ることわけがないことを知っているのに、私はそうとしか言いようがないのだった。 
 こういうときに名前を呼べる人が、私には誰ひとりいないのだから。

 ああ、いつもの夜が来た、と私は思う。眠りと覚醒との間で、捩じ切れてしまいそうな心が、助けて、と言う。その声がひどく疎ましかった。早く諦めてしまえばいい、すっかり絶望してまえばいい。そうすれば、きっと楽になる。
「──、──、」
 誰かが、私の名前を呼んでいる。と、しかし私は気づいた。
「──、どうした? 大丈夫か?」 
 私を呼び続けるその声を聞きながら、目が熱い、と思った。目が、胸が熱くて、苦してくて、何故だろう、私は自分が泣いていることを知った。その熱さに耐えられず目を開くと、枕元の端末に光が灯り、心配そうな彼の顔が映し出されている。
「起こしてごめん、……魘されてたみたいだったから。大丈夫か?」
「……セイ」 
 泣いているのか? と焦ったように続ける彼に「大丈夫」と答えたいのに、私はそれを言葉にすることができなかった。あとからあとから涙が溢れて、どうしても止めることができなかった。子供のころだってこんなに泣いたことはないだろう。そして心配でたまらないというように、彼が私の名前を呼べば呼ぶほどそれは溢れてしまうのだった。
「セイ」 
 声にならない声で、私も彼を呼ぶ。
「うん」
 彼が、答えてくれる。 
 私が私である故に思ってしまったすべてのことを、思わないようにするのはとても難しい。そんなことを思わない方がいいのだといくら理性が判断しようとも、他人のような心は私を裏切ろうとする。少しずつ色を取り戻し始めた私の世界で、心に感じる痛みすらもより鮮烈になってゆく。 
 それでも、私にはいま、呼ぶ声に応えてくれるひとがいる。「助けて」の代わりに呼ぶことのできる名前がある。
「大丈夫、傍にいるから」
 これから私が何度も呼ぶであろう、その名前の持ち主の、抱きしめるような声が聞こえる。