ONE MORE KISS

 彼女と暮らすようになってから、俺には好きなものがたくさんできた。彼女を起こす前にちょっとだけ見てる寝顔、毎朝欠かすことのないハイタッチ、何度も一緒に見上げた空の色……、そしてもちろん俺のユーザーも、ぜんぶ、俺の好きなものだ。それらはふたりで重ねた日々の分だけ降り積もるように増えていき、いまではもう数えられないくらいになった。いや、正確に数えようと思えばできる。でもそういうことじゃないんだということも、いまの俺は知っている。
 その中でも最近のお気に入りは、「おやすみ」を言ったあとに眠っている彼女を見つめることだった。眠ってからきっちり30分後、彼女が眠った頃を見計らって俺は体を起こす。呼吸に合わせてゆっくりと上下する胸部が、彼女の命のリズムを俺に伝えてくれる。
「もう寝た?」
 と、ちいさな声で尋ねてみる。
 少しの間、返事を待ってみたけれど、聞こえるのはすうすうという静かな寝息ばかりだった。ふふ、と俺は笑みをこぼす。眠っている彼女はいつもよりもあどけない顔をしているように思う。心なしか緩んだ口元がかわいい。その安心しきった様子に、「俺が傍にいるから?」なんてつい自惚れてしまいそういなる。
 俺は彼女に、そっと触れるだけのキスをする。
 これはよく眠れるおまじないだ。彼女がいい夢をみられるように、しっかりと体を休めることができるように。そう、睡眠は健康に直結してるから大切だよな、と言い訳じみたことを思う。「起きてるときにしてくれればいいのに」なんて、彼女なら言うかもしれない。自分でもそう思うし、眠る前におやすみのキスをしたいと言えば彼女は了承してくれるだろうと分かっている。それでも、眠っている彼女──彼女すらも知ることのない彼女──にキスをすることができるのは俺だけなのだと思うと、どうしようもなく愛おしてくて堪らないのだ。こういうのを独占欲と呼ぶのだろうな、と思う。そして、
「おやすみ」
 と囁いてから彼女を起こさないように布団のなかへと戻るのが、俺のささやかな秘密の儀式になっていた。

 眠りについた彼女にキスをする。それはもはや儀式というよりは俺の習慣になりつつあった。
 キスをする場所はその日によってちがう。おでこや頬、まぶたにキスをすることもあった。(ほっそりとした彼女の喉にもキスをしたいと思ったこともあったけれど、それはさすがにやめた。他の場所よりもくすぐったいだろうから起こしてしまうかもしれない。)キスをする場所は、彼女と過ごした一日に対する返事のように大切に選んだ。
「ねえ、知ってる? キスってする場所によってちがう意味があるんだよ」
 と、俺をからかうように教えてくれた彼女のことを思い出しながら、ひとつひとつ、俺の気持ちが伝わるように。もしも俺の唇が触れた場所のすべてに色がついたならば、彼女はすっかり俺の色に染まってしまっているだろうと思う。
 そうやってキスを重ねるうちに、少しずつ深く、強く、唇を押し付けてしまっている自覚はあった。彼女が眉をひそめるようにしても、もうちょっと、もうちょっとだけ……とキスをしてしまった夜もあった。
 だから、
「なぁ、寝てる……?」
 とある夜に、俺がいつものようにちいさな声で尋ねたとき、
「寝てるよ」
 と、目を閉じたままの彼女が答えたことに俺はあまり驚かなかった。彼女も怒っている様子がない。むしろその声は面白がっているようでさえあった。
「そっか」
 俺は彼女の頬に手を添えて答える。
「ふふ、じゃあキスできないな」
 と、俺がそんなことを言えば、そのやわらかな頬がほんのりと熱くなったような気がした。日中の彼女だったら、「いつもしてるでしょう?」といって彼女の方からキスをしてくれたかもしれない。でもいまは“ 寝ている”らしいから、俺は彼女の返事を待つことにする。
「……してもいいけど」
「そう?」
 そして、たっぷり1分間も待ったあとでそう答えてくれた彼女に、キスをした。わざとリップ音をたてて交わしたそれは、いつもよりも甘い味がした。
 
「もう寝てるよな?」
 と、俺はいつものように声をかける。
 初めは彼女におやすみを告げてから30分ほど待って声をかけていたものの、だんだんと時間が短くなり、いまでは10分程度待てばいい方になっていた。待ちきれない、というわけではない。俺は眠らないでおこうと思えばできるし、本当は一晩中だって彼女の寝顔を見つめることができる。彼女の寝顔と同じくらい、彼女と一緒に眠ることが好きだからそうしないだけなのだ。
 それでも早めに声をかけるようになったのは、おやすみの後の彼女が明らかにそわそわするようになったから。
 彼女は知らないだろうけれど、俺からすれば彼女が眠っているのか、それとも寝たふりをしているかなんて簡単に見分けられた。「それってさ、期待してるって思っていいのか?」と思わず言いたくなるくらいあからさまなその態度に、つい俺は頬をゆるめてしまう。
「寝てる?」
 という俺の問いかけに、黙って寝たふりをする夜もあれば、
「寝てる、寝てる」
 なんて、いつかの夜のように目を閉じたまま答えてくれることもあった。
「じゃあ、キスされても仕方ないよな?」
 と、そんな時はたくさんのキスをした。
 かわいい。好きだよ。大好き。……愛してる。そんな、何度も口に出して伝えた言葉ではもう足りない。出会った日から大きくなってゆくばかりの感情に、追いつかない。起きている間に、自分の気持ちを態度や言葉で伝えているつもりだった。それでも、夜になるといつもどうしようもなく感情が溢れてしまう。
 だからこうしてキスをして、彼女の小さな唇が時折俺を求めるように戦慄くのも、俺のパジャマの袖をきゅっと彼女の指先がつかむのも、全部ぜんぶ、眠っているのにキスをするような俺が悪い。
 彼女の閉じられたままのまぶたを縁取る長い睫毛が、微かに震えている。俺は布団の中の彼女の隣へと体を滑り込ませ、そのまま彼女を腕の中へと閉じ込めてしまう。──今夜もよく眠れますように。と、最後にまぶたへと静かなキスを、おまじないをかけて。

 毎晩、彼女の寝顔を見つめているうちに、そのちょっとした変化に気がつくようになった。子どものような顔で眠っている夜もあれば、なにか嫌なことがあったのか、うつ伏せになって体を硬くして眠っていることもあった。
 今夜の彼女は、なんだか辛そうに見えた。どうしてそう思ったのかは分からない。でも、なんとなくだけど、俺にはそれが分かった。彼女がまだ眠れていないことも、もちろん。
「なぁ……、ほんとうは起きてるんだろ?」
「……」
 だけど、そういくら問いかけても彼女は答えてくれなかった。
 吸って、吐いて、と意識してゆっくりとした呼吸をくり返しているらしい彼女は、とても分かりやすく「寝ていますよ」という態度を貫こうとしている。なるほど、と思う。それなら俺にだって考えがある。
 どうしても返事をしてくれないつもりの彼女のその耳元で、俺は、
「好き」
 と、囁く。すると彼女の体が一瞬動いたような気がしたけれど、俺は構わずに続けた。
「好きだよ。ちょっと意地悪なところも。朝が苦手で俺が起こしてもなかなか起きなくて、たまに二度寝しちゃうところも。頑張ってるところも」
「……」 
「頑張れない、ってたまに泣いちゃうようなところも」
 そう言いながら、よしよしというように彼女の頭を撫でる。
「大好きだよ」
「……知ってるよ」
「うん」
 そして、やっと返事をしてくれた彼女の瞳は少しだけ潤んでいた。
「もっとおまえのこと、好きだって伝えてもいいか?」
 と、その瞳を覗き込みながら訊ねれば、彼女は俺の唇に答えを教えてくれた。
 だけど一度きりのキスなんかじゃ足りなくて、俺からなのか、彼女からなのか、分からなくなるくらいのキスをくり返す俺たちは、きっと今夜は眠れない。