「おまえはどんな気持ちで俺の顔撫でてる?」
とセイが言うので、わたしは自分が無意識に彼の頬を撫でていたことに気がついた。
またやってしまった、とわたしは思う。おはようやおやすみを言う時や、話しかける時、少し席を離れる時なんかに、わたしはつい、セイの頬を手を伸ばしてしまうのだ。
珈琲を淹れようと立ち上がっていたわたしは、もう一度ソファーに座り直す。隣に座っているセイは、少し困ったような顔をしている。それもそうだろう、端末の中にいた頃ならそれも普通だったけれど、いまの彼は人間と変わらない身体を持っているのだから。「俺は猫じゃないんだけど?」だとか、「いい加減に成人男性扱いしてほしい」だとか、セイに呆れ顔で言われるのは何度目だろうか。
でも、これはもう癖なのだと思う。
「きれいな顔だなぁって」
と、だからわたしはいつものように答える。
「きれいな顔って好き?」
「好きだよ」
「よかった」
と、セイもいつものように言う。
こうして彼がアプリだった頃のような会話をするのが、わたしも、たぶんセイも、好きだった。なつかしいような、安心するような気持ちになるのだ。ふたりだけの合言葉を言い合うような、ひそやかな楽しみ。
セイが、そっとわたしの手に自分の手を重ねる。あったかいな、とわたしは思う。そのまま指を絡ませて、手を繋ぐ。……こういうことができるから、アプリだった頃のふたりには戻れないけれど。
セイも許してくれたみたいだし、気を取り直して珈琲を淹れてこようかなと立ち上がろうとした、その時だった。
「じゃあ、俺の声は?」
と、セイが引き止めるように言った。
「え?」
「俺の声は、好き?」
「好きだよ」
答えながら、急にどうしたんだろう、と思わずセイの顔をじっと見つめてしまう。すると真っ直ぐにわたしを見つめる彼の瞳と視線がぶつかって、かえってどうすれば良いのかが分からなくなった。顔が、少し熱い。
「俺の手、好きって言ってたよな?」
「うん」
「うん、じゃなくて」
ぎゅ、と繋いだままの手にセイが力を込める。
「……好き」
と、仕方がないので、わたしはそれに答える。事実なんだもの、恥ずかしくない。全然恥ずかしくなんかない、と頭の中で呪文を唱える。
「俺の腕は?」
「好きといえば好きだけど」
「よく用もないのに引っ張ってるだろ?」
「好きです」
「耳は?」
「好き」
「首も好き?」
「うん、好き。……もう、意地悪」
いつもと逆だ、と思いながらわたしは言う。いや、いつもだって別にわたしは意地悪をしているつもりはないんだけど、セイがそう言うから。
セイが「ふうん」と言って黙ったので、わたしはほっとする。もういいでしょう? と甘えるように彼の肩に凭れかかれば、セイはそれを当然のように受け止める。繋いでいる手の反対側の手で、セイがするりと私の顔に触れる。
「俺も好きだよ、おまえの顔。かわいいなぁっていつも見てる」
と言うセイの顔が、ものすごく近くにあるのでぎょっとする。わたしが制止するよりも先に、畳み掛けるようにセイが言う。
「おやすみって言うときのさ、ちょっと眠そうな顔、好きなんだ」
セイはうっとりと目を細める。わたしは居たたまれなくなって目を逸した。そんなに愛おしそうな顔をされると、困る。とてもとても、困る。だけどセイはそんなわたしの様子なんて気づいていないような顔で、わたしの頬に手を添えたまま、ふに、とその弾力を確かめるように肉に親指を沈める。
「目も好きだし、頬も好き。ふふ、ふかふかしてる……。ここも、ここも好きだよ」
と言いながら、頬から二の腕へ、二の腕からウエストのくびれへと手が伸ばされる。やさしく触れられているだけなのに、恥ずかしすぎて、自分の顔が少しどころではなく赤くなっているが鏡を見なくても分かった。そして思わずうつむいてしまったわたしの頭の上に、
「あぁ、うなじ? 好きだよ」
という彼の声が降ってくる。
「大好き」
ああ、わたしの心臓はもうとっくに限界を迎えているのに。セイがわたしのうなじに唇をつける。生き物としての急所を彼に晒しながら、このひとは好きなときにわたしを殺すことだってできるのだと思う。
「でもキスするならここが一番好きだな」
そう、たとえばこんな風に、その指先で唇に触れられただけで、わたしは彼の望み通りに顔を上げてしまう。恐ろしく無防備に、潤んだ瞳で彼を見つめてしまう。
「前よりもつやつやしてる。リップバーム塗った?」
あと少しで彼の唇がわたしの唇に触れる、そのぎりぎりの場所で、セイの声が発せられる。
「眠る前に塗るようにしようかなって思って……」
わたしはささやくように答える。それでも、わたしの息が彼にかかっているのを感じる。いっそ早く止めを刺して欲しいけれど、その気配はない。
「そうか。……どうした? くすぐったい?」
と、セイが明らかに楽しそうな声で言う。因果応報ってこういうことを言うのだろうか。降参だ。
「……なんて、嘘。どう? 俺の気持ち、ちょっとは分かった?」
「うん」
「分かればよろしい」
わたしのおでこに彼のおでこをくっつけて、セイがふふ、と笑う。笑いごとじゃないんだからね、と思っているのに、わたしもつられてつい笑ってしまう。笑いすぎて、涙まで溢れる。ねえ、セイ? と彼の目を見て、その眼差しだけで伝える。──ねえ、セイ、大好きだよ。
俺もだよ、と言うように、彼はキスをくれる。啄むようだったキスが、少しずつ深いものへと変わってゆくのを全身で感じながら、ああ、もうしばらく珈琲は飲めそうもないな、とわたしは目を閉じた。