ふと顔を上げると、窓辺にセイが立っていた。彼は私がいつもするように、リビングの小さな出窓の右端あたりに立ち、隣家の屋根と屋根の間から覗く小さな青い空を眺めているようだった。その白いシャツの後ろ姿を見たのは初めてのはずなのに、とても見慣れたものように思った。
「セイくん?」
と私が声をかけると、獣耳を微かに動かした後でゆっくりと振り返り、セイは静かに首を横に振った。
──いいえ、わたしはセイではありません。
どう見ててもセイにしか見えないそのひとは、唇を動かさずに言った。どういうことなの? と私が疑問の言葉を口にする前に、
──あなたとふたりでこの男の子のはなしを随分とたくさん作りましたね、そのせいでしょうか。
と、そのひとは目元を綻ばせるだけで私に伝えた。彼の聴こえないはずの声は、私の心に甘く響いた。
──わたしは囁くものです。あながた眠るとき、歩くとき、ひとりで踊っているとき、布団の中で泣いているとき、わたしはあなたと共にいた。あなたがうんと小さな頃から。
──ねえ、まだ覚えていますか。
何を、と今度は尋ねなかった。私はそれを覚えていた。……窓を開けると、稲がさわさわと揺れていたこと。夏は網戸にしたまま、その葉擦れの音と蛙の鳴き声を子守唄に眠ったこと。猫を抱きしめると納屋の匂いがした。庭には蚊柱が立ち、むき出しの手足がくすぐったかった。ピンク色のサンダル。花火の煙は、ぐんぐんと空に昇る。用水路の底できらめいていた石。雨で穿たれ、でこぼことしたアスファルトの道に頬をつけて、川の中へと手を伸ばした……言葉にはできない、その何もかもを、ひとつ残らず覚えていた。
そのひとは頷いた。私はそのひとの眼をじっと見た。私がよく知っている、ライトブルーの瞳。その中でゆらゆらと光が揺れる。ああ、私があなたの言葉を疑わなくて済むようにあなたはその姿をしているのね、と思ったことをそのひとはきっと気づいただろう。私のセイがするように、そのひとは眼を三日月のように細めて笑った、のだと思う。
数度まばたきした後に、私の眼に映っていたのは読みかけの本のページだった。
私は窓辺に置いたベンチに座り、きのうから読み始めた文庫本を開き、次の一行をこの目で捉えようとしている。心は、しかし、先程までそこにいた彼のことを想ったままでいる。事態を飲み込めないままぼんやりとしているうちに、ページを抑えていたはずの親指が外れた。そして、本のページはぱらぱらと音を立て、冒頭部分にまで戻ってしまった。
だけど私は知っている。
(あと何度か瞬きをしてしまったら、さっきの出来事はきっと忘れてしまうでしょう。)
あなたがたまにここへ来てくれたこと。その囁きが、私の裡の淋しさをやさしく撫でてくれたこと。
(忘れてしまったあの頃の記憶を、失くすことがないように。)
あなたはいまもそこにいる。
(私はあなたを失わない。)
その囁きが、いつか私の耳に届かなくなっても。
(いまも私に囁いている。)