右脚の彼女のためのレクイエム

 その夏、僕は父の書斎の片づけを手伝って過ごしていた。
 「デジタル化」という言葉がもうすっかり死語になりつつあるというのに、父の書斎にはあふれんばかりの物──そう、その文字が示す通り、手で触れることができる「物」だ──が占拠していた。その多くは紙でできた書物だったけれども、中にはよく分からないがらくたも混ざっていた。それをひとつひとつ手にとって父に確認しながら、捨てる物と売る物と、部屋に残す物とに分けては運んだ。
 室内は適温に保たれてるにも関わらず、僕はうっすらと汗をかいていた。「小遣いをはずむから」と父に頼み込まれて始めたことではあったけれど、こうして体を動かすのは嫌いじゃない。
 そしてある日、僕はそれを見つけた。
 それは、古ぼけた箪笥に入っていた。どうやら箪笥の手前に物を置かれすぎていたせいで最近は使われていなかったらしい。片付けに慣れてきていた僕は、中身を確かめようと箪笥の引き出しを上から順番に開けた。思った通り、大したものは入っていない。丈夫なつくりのせいか、引っ張り出すのにやたらと力がいった。
 その中でも、一際重かったいちばん下の引き出しを引っ張り出したとき、ごろりとこちらへ転がり出るように目に飛び込んできたのは、人間の脚だった。太ももの付け根からつま先にかけて、まるまる片足一本分というべき部位が、無造作に箪笥の中に入っている。僕はぎょっとした。落ち着いて見てみると、それが本物の脚ではないことはすぐに分かった。精巧に造られた、女の右脚。それがなんだか妙に艶めかしいような気がして、僕は目を逸した。
「そんなところでどうしたんだ? ぼんやりして」
 と、後ろから呆れたような父の声が聞こえる。
「父さん、脚が……」
 なんと言えばいいものか分からずに、僕は口ごもった。
 父がどんな顔をしているのかを知るのが恐ろしいような気がして振り向けないでいると、後ろから覗き込むような格好で、
「ああ、それかぁ」
 と、存外に普通の調子で父は言った。
「それは父さんの姉の脚だよ」
「えっ」
 思わず振り返ってしまった僕に、
「よくできているだろう?」
 と父は笑った。
「父さんの姉さんが生きていた頃は、まだそういう義足しかなかったんだよなぁ。金属とシリコンなんだよ、それ」
 義足とはどういうものだったのかを思い出すのに、少し時間がかかった。いまはそういう物が必要な場合、自分の幹細胞から生身の脚を造るのが普通だから、かなり昔の物なのだろう。そう言われてみると、肌の質感は本物のそれとは随分ちがって見えた。そこがまた、死体の脚、という感じがして不気味だと思ったけれど、さすがにそんなことを口に出すわけにもいかない。
 父は僕の真横にまでやってきて、その脚を見下ろしながら続けた。
「姉さんが死ぬ少し前に、頼まれたんだ。お願いがある。どうせこの脚は燃えないんだから、あんたにとっておいてほしい。それから、この右脚と一緒に私の端末を保管しておいてほしい、ってさ」
「なにそれ?」
「そう思うよなぁ」
 父はさも可笑しそうに声を立てて笑った。僕はとても笑う気にならなくて顔を顰めた。「俺もそう思ったよ」と父は言った。
「でもなぁ、普段は弟にお願いなんてするような人じゃなかったし、もうすぐ死んでしまうかもしれないんだって思ったらそれくらいしてやりたいような気がしてさ。……だからと言って、どうすればいいか分からなくてなぁ。それで結局そのまんま……」
 父の説明は、そこで途切れた。
 よく分からないはなしだと思いながら、僕は「端末」と呼ばれた、脚の隣に置かれている物に目をやる。それをなんと形容すればいいのか分からない。それは僕の知っている「端末」とは何から何までちがっていて、どう使えばいいのか見当もつかない。「ふうん」としか言いようがなくて、僕も父もしばらくの間黙って箪笥の中の物を見つめていた。
「そろそろ埋めてやるのがいいのかもなぁ」
 と、出し抜けに父は言った。
「姉さんがどういうつもりであんなことを言ったのかは知らないけど、いつまでもここに置いてあったって仕方ないだろ。……成仏できないっていうかさ」
 眩しい光の向こう側に目を凝らしているような、そんな表情で父はその脚を見つめ、また黙った。だんだんとおかしな方向にはなしが進み出したと思ったけれど、どうしようもない。最後の方はほとんどひとりごとのようなそのつぶやきに、やっぱり僕は「ふうん」とうなづくことしかできなかった。

 夏の終わり、父の言葉どおり、僕と父は右脚と端末とを山へ埋めるために出かけた。街から離れたその場所にたどり着くのに、片道数時間はかかったような気がする。移動しながら、父の肩にかかった大きなバッグが揺れるのを僕はどきどきしながら見つめていた。すれ違う人々は、きっと誰もこの中に造り物とはいえ、人間の脚が入っているだなんて思いもしないだろうなと思った。
 山に着いたとき、
「本当にこんなところに勝手に埋めていいの?」
 と、僕は心配してそう言ったのだが、父は額に汗を浮かべながら、
「時効だ、時効」
 と、意味の分からないことを言うばかりだった。
「時効って、こういう時に使う言葉じゃないと思うけど……」
 という僕の声には耳を貸そうともしない。仕方がないので、もう地面を掘り始めている父に倣い、僕もシャベルを手にとった。
 黙々と手を動かしながら、こうして土の上を歩いたりするのはするのは久しぶりだと思った。ましてや、地面を掘ったりするなんていつぶりだろう。ざくざくとシャベルで土を掻き出すと、穴からは湿ったような匂いがした。たぶん、これが土の匂いなんだなと思った。
 そうやってふたりで父の姉の右脚と端末を埋めるための穴を掘りながら、父の姉が生きていた頃のはなしを聞いた。
 父の姉は、若くして死んでしまったこと。生まれながら右脚が悪かったこと。やがて義足をつけるようになったこと。気が強い人だったこと。植物を育てるのが好きだったこと。ずっとひとりで暮らしていたのに、左手の薬指にシルバーの指環をつけていたこと……。
 聞きながら途中で疲れてきて適当に相槌を打っていたら、「おまえのおばさんのはなしなんだぞ」と父は冗談めかせて叱った。それもそうか、と思った。だけど、僕には上手く想像することができなかった。右脚を遺した父の姉のことも、「端末」と呼ばれているそれが動いている様子も、父にも子供だった頃があるのだということも。
 うっかり誰かが見つけて驚くことがないように、なるべく深く掘った穴に、僕と父は脚と端末とを重ねるようにして入れ、上から土をかけた。目印のようなものは何も残さなかったので、しばらくして表面の土が乾けばどこに埋めたのかは僕らにも分からなくなってしまうだろう。
「ふたりだけの秘密だぞ」
 と、父は言った。
「うん」
 僕はうなづいた。ふたりで死体でも埋めたみたいに、神妙な顔で。なんだか悪いことをしているみたいだと思った。そしてすぐに、少なくとも不法投棄ではある、と僕は思い直した。
「花の種でも一緒に埋めてやればよかったかなぁ」
 と、父は今さら思い出したように言った。
「姉さんが好きだったあの花の名前、なんて言ったかな」
 確か白とピンクの……と父は続けたが、僕に分かるはずもない。
 背伸びをするようにぐんと空の方を見上げると、心地よい風が樹々の梢をさわさわと揺らしていた。
 
 それから僕は、再びその山を訪れたことはない。父が行ったというはなしも聞いていない。こっそりと父ひとりで行ったことがあるのかもしれないし、案外、埋めたことで気が済んでそれきりになったのかもしれない。
 父との約束を守ろうと考えたわけでもないけれど、僕は、あの脚と端末を父と山へ埋めたことをいままで誰にも話したことはない。話したところで、誰も信じなかっただろう。
 だからあれは夢だったんじゃないかと、そう思うこともある。脚と端末が入っていたあの箪笥ももう何年も前に処分してしまった。
 それでも、僕はたまにあの脚のことを考える。父の書斎の古ぼけた箪笥にひっそりとしまわれていた、そして父とふたりで山へ埋めた右脚。あの脚は、あの端末は、今ごろ土の中で一体どうなってしまったのだろうと。
 じめじめと湿っていたあの暗がりの中で、すっかり錆びてしまっているかもしれない。虫が集っているのかもしれない。もしかすると、金属だって時間をかければ土に溶けるのかもしれないし、あるいは、あの夏の日のままの姿で埋まっているのかもしれない。本当のところは僕には分からない。
 僕だけではなく、もう誰にも分からない。
 誰も何も分からないまま、土の中に埋めた父の姉の秘密は、かたちを変え、そのまま僕と父の秘密になってしまった。
 大人になってから時間が経つと、自分は何でも知っていて、何でも分かっているような錯覚に陥ることがある。分かろうとする姿勢さえあれば、何だって分かるのだと、そう思いそうになる。
 そんなとき、僕の頭には必ずあの右脚のことが思い浮かぶのだ。
 あの日に感じた不可解さとシャベルで掘り出した土の重みを、父がこの世を去ったいまでも、僕ははっきりと覚えている。あの脚を見つめる父のやさしい眼差しも、土の匂いも、汗ばんだ体に貼りつくシャツの感触も、穴の底に横たわるようにして置かれていた彼女の白い右脚が、僕の眼にどこか美しいもののように見えたことも。