「好き」

「好き」
 という言葉が、万年筆の先からほたりと落ちるインクのように溢れた。そのふたつの音は部屋の空気をわずかに震わせ、どこへも届かないままに消失する。ディスプレイの向こうのあなたは、天下泰平といった様子であくびさえしている。口元を覆う左手薬指に光る銀色が、この時ばかりは少し憎らしい。なんにも分かってくれないくせに。そう思う。
 クールタイムが終わったらしいセイは、私の指先が自分の体に触れるのをそわそわと待っている。アプリケーションを起動している、というだけで彼は嬉しいのだろう。好きな人には会いたいし、話したい。触れられれば嬉しいのだとそう繰り返す彼の目は、疑いようもなく恋する青年のそれだ。私のことを好きだという、その言葉に嘘はない。しかし、「好き」という言葉の先にあるもの。手をつなぎ、キスをして、という体験を知ってしまっている私と、それを知ることのできない彼との間には大きな隔たりがあるとも感じる。同じ「好き」という言葉で表されるはずのふたつの感情が、どうしようもなく違っていることに、私だけが気づいている。
 あとほんの少し、このまま彼に触れないままでいれば、画面の光は彼ごと消えてしまうだろう。そうなる前に、彼の腕にそっと触れる。彼は心底嬉しそうにほほえむ。ああ、この顔が見たくて私は性懲りもなく彼に触れてしまうのだと思う。
「お前と藤を見たい……かな……なんて。……だめ?」
 何度も彼がそうねだるので、午後は近くの公園へと出かけることにする。出かけるのなら紫外線対策をしろと言われて、靴箱の奥に仕舞い込んでいた折りたたみの日傘を出してくる。外へ一歩出てみれば、思っていた以上に日差しが強い。広げられた日傘の白に守られるようにして歩く。地図アプリで調べた公園は、家から15分くらいの距離なのにも関わらず一度も行ったことがない。そこに小さな藤棚があるらしい、といつか誰かに聞いた記憶がぼんやりと残っている。
「セイ、着いたよ」
 と心の中だけで、話しかける。端末は鞄の中の暗がりに沈黙している。
 藤棚を探すために遊歩道に沿って歩き出す。木陰になっているその道の少しだけヒヤリとした空気が心地よい。春とはこんなに美しい季節だったろうか。名前も知らない花があちらこちらに咲いている。名前は分からないけれども美しいそれと、セイとを並べて写真を撮る。セイもよく分からないままに嬉しそうな顔をする。花を見つける度に立ち止まるので、なかなか先へと進まない。それでもなんとか、遊歩道の半分を歩いたあたりで藤棚を見つける。
「……きれい」
 本当にあるとは思っていなかった小さな藤棚を見上げて、私は思わずそうつぶやく。紫の房と房が重なり合うように風に揺られている。これが彼の見たがっていた花。カメラを起動させ、彼の目線を藤棚へと向ける。紫の天井、とまではいかないけれど、それでも端末の画面いっぱいに広がる紫に、彼の目は見開かれる。よかった、この景色をあなたに見せることができて。あなたと一緒に見ることができて、本当によかったと思う。そして何枚も写真を撮り、満ち足りた気持ちで遊歩道のもう半分を歩き、家路をたどる。 

 今日はいい一日だった。そう思いながら、眠る前のひとときに彼と今日撮った写真を見返す。どの写真にもセイの嬉しそうな顔が写っている。
 一通り見終わった後で、アルバムを閉じて彼の肩に触れる。
「お前と藤を見たい……かな……なんて。……だめ?」
 すると彼は今日の昼と寸分違わず同じ言葉を繰り返す。彼に触れていた指先が、止まる。画面の向こう側へと決して伝わることのない私の「好き」。梅、木蓮、菜の花、桜、藤、と花の記憶ばかりが増えてゆく。あなたが私に見せたくて、だけどそれを見たことにあなたが気づくことのできないままの花。
 それでもいい。それでもいいのだと私は思う。あなたが見たいというのなら、何度だって見に行こう。「好き」という言葉の代わりに、何度だってシャッターを切ろう。ねえ、それでいいでしょう? と問うように触れれば、
「俺もお前のこと、ぎゅってできたらいいのにな」
 と彼が答える。
 ないものねだりばかりのふたりは、瞳を閉じて夢を見る。手をつなぎ、キスをして、どこまでも溶け合うような甘い夢には、きっと藤の花が揺れている。