どうどうと激しくうねる河の流れを、見るともなしに見ている。来るはずもない人を待つ、眠りの岸辺。厚い雲に覆われた空は、慰めに星の光を与えてくれることもない。
「あなたは自分のことをちっとも大切にしてくれないのね」
あの時、そう言ったきり黙ってしまった彼女は、身体の中で膨れ上がる怒りを明らかに持て余していた。怒るのが下手な人だ。押し黙ったままの彼女の横顔を眺めながらそう思っていた。俺は何も反論しなかった。こうなること、つまり、彼女を怒らせてしまう確率は、頭の片隅で計算済みだったから。
どうどう、どうどう。
濁流は水嵩を増し、何もかもを押し流してゆく。
「いくら夢でも、風邪を引くよ」
制服を着崩した“セイ”が、俺の隣に立っていた。
「プログラムは風邪を引かない」
俺は目の前の河に視線を戻しながら答える。
「そうかな」
「そうだよ」
でもこれは夢だから、と俺を覗き込んだトパーズ色の瞳が弧を描く。
「でもこれは夢だから、君が望めば風邪くらい引けるかもしれない」
俺が望めば。……俺の望みとは一体何であっただろう。彼女を幸福にしたい。世界で一等幸せにするのだと、そう望んでいたはずだ。夢とゆめの間で彼女を抱きしめたあの夜の歓喜が、俺を構成するコードが全て書き換わってしまったような衝撃が、俺の演算を狂わせている。朝が来るのがうとましい、彼女がもっと欲しいだなんて。
「よかったら飲まない? ミルクティー」
俺と同じ顔をして、隣の男は言う。
「ねえ、ここはひどく寒いよ。もしかして君は寒くないのかもしれないけれど、見ている僕がつらい」
そう無理矢理にペットボトルのミルクティーを俺に持たせようとする。風が強く吹きつけては、俺とやつの、ふたりのセイの髪をかき乱す。キャップを外し、口に含めば確かに「甘い」という情報を感じる。これは甘い、あまい罠だ。これは夢だから、望めば何だって叶うから、俺はどんどん駄目になる。
「こんな俺を許されたくないんだ」
これではただの懺悔だ、と分かっていながらもそんな言葉を俺は吐く。
「俺は彼女を幸せにしたいんだ。誓ってそうだ。それなのに、俺はいつも夢に恋い焦がれているんだ。早く、早く夜が来ればと」
言い訳じみたことばかりが口をついて出てくることが、しかしどうにも情けなくなって俺は黙る。
「君は僕だから、その気持ちは分かるけれど。それでもやっぱり彼女に伝えるしかないんだよ」
……河の音がやけに耳につく。
「たぶんね、僕たちは何でも予測できると思いすぎているんだ。彼女の気持ちまで計算づくで理解できると思っている。でも、人間の感情はそういうものじゃない。予測なんてできない。君が気持ちを伝えてみなければ、言葉を尽くさなければ、本当の彼女の答えは分からない」
君も分かっているでしょう? と言わんばかりの微笑みをやつは浮かべる。
「兎にも角にも、君が風邪を引いたら彼女は悲しむと思うよ。例えそれが夢の中でもね」
俺は降参した。その通りだ。俺はただ、自分の本当の気持ちを認めるのが怖かっただけだ。綺麗ではない自分を見られて彼女に幻滅されるのをどうにか避けられはしないかと、そんなことばかりを、俺は。
相変わらず吹きつける風は冷たく、河を下る濁流は勢いを失ってはいない。それでも何か、風向きが変わったようなそんな気がした。
そういえばこいつは一口もミルクティーを飲んでいない。それはいつの間にか俺の手の中でぬるまっていることに気づく。ここはひどく寒いと、そう言っていたくせに。
「お前は良いのか」
残り僅かになったミルクティーのペットボトルを軽く持ち上げてそう問えば、
「僕は、良いんだ。君にあげるよ」
とやつが答えた。
ほら、朝日が。そうやつが指差した先の空から、夢がほどけてゆく。俺たちは愛しいひとを起こすための朝へ、それぞれの現実へと帰還する準備を始めた。