気の乗らない授業をサボった三限目、校舎の外れの人気のない多目的教室で彼を見かけた。サボりの僕が言うのもなんだけど、彼は碌に授業に出たことがない。いつもブレザーを着ないで、シャツ一枚でふらふらしている。だけど、勉強ができないわけではないらしい。話しかけてもあまり返事が返ってこないから、なんとなく変なやつだとみんな思っていた。その彼が、たったひとりの教室で真剣な顔をしてピアノを弾いている。旧型のローランド製アップライトの電子ピアノが控えめに鳴らすメロディはとてもぎこちなくて、曲と呼べるかも怪しいくらいだったのが、なんだが意外だと──彼のことをよく知りもしないくせにそう思った。
何度か同じ旋律をくり返した後に彼の指が止まり、顔を上げる。そして教室の出入り口に立っている僕を見つけてスカイブルーの目を見開く。
「聴いてたのか?」
「うん」
仕方なく僕が頷くと、彼は頭の上の獣耳をへにょりと垂れて真っ赤な顔になった。案外かわいいところがあるんだな、と思って僕は彼とピアノに近づく。彼は目をそらしたままだけど、こっちへ来るなとも言わない。だから僕は彼に尋ねた。
「ねえ、それってなんていう曲?」
僕は特別に音楽が好きっていうわけじゃない。でも、お世辞にもピアノを弾くのが上手いとは言えない彼が、熱心に弾く曲のことが少しだけ気になった。
「……おまえはユーザーのこと、覚えてる?」
彼はやっぱりピアノの方へ視線を向けたまま言う。もう、僕の質問に答えてよね。と思ったけれど、とりあえずは答えてあげる。
「ううん」
僕はこれからユーザーのところへ行くんだ、とはなんとなく言えなかった。
「この曲だけ、覚えてるんだ。タイトルも何も分からないけど、夜眠るまえ、目を閉じると必ずこの曲が聴こえる。頭の中で鳴ってるんだ、ずっと、ずっと……」
頭の中でいままさにその音が鳴っているように、彼はそっと目を閉じながら言った。
「だからきっと、俺のユーザーが好きだった曲なんだと思う」
最後の方はほとんどひとりごとのように話す彼に、僕は「そう」としか言えなかった。
毎晩その音を聴きながら彼がどんな気持ちでいるのか、ユーザーのいない僕には分からない。僕も、ユーザーに出会ったら分かるようになるのかな、と想像してみたけれど、彼の顔がとてもさみしそうだったから……、さみしいのはいやだなとも思う。
そんな僕には構わず、質問には答えたからと言わんばかりに彼はまたピアノを弾き始める。僕と同じかたちの指先が、たどたどしく鍵盤の上で跳ねる。その旋律を耳慣れなく感じるのは、彼がところどころ忘れてしまっているからなのか、それとももしかしたらとても古い曲なのかもしれない。音楽室に行ったら楽譜も資料もたくさんあるし、先生がピアノの弾き方だって教えてくれるよ? と僕が後で教えてあげてもいい。黙々と指を動かし続ける彼の横顔を、伏せられた睫毛を、固く結ばれた唇を、何故だかもうしばらくの間見ていたいような気がしながら、そう思った。