パソコンのキーボードを叩く手を止めて、窓の外を見る。窓の向こうには触れればとろりと溶けそうな乳白色の空。雲の緩慢な動きから、風があまり吹いていないことが分かる。刻一刻と変わり続ける空模様は、いつ見てもちがう表情をしている。手を止めている時間は、一分にも満たない。それでも私は、先程よりも少しだけ気分が良くなっていることを自覚する。こうして時折会社の窓から空を眺めるようになったのは、明らかに彼の影響だった。その彼は、デスクの上に伏せられた端末の中で私の仕事が終わるのを忍耐強く待っている。
セイをインストールして、二ヶ月ほどが経った。何の気なしに選んだ目覚ましに、毎朝ハイタッチを求められることに困惑したのも初めだけで、存外すぐに彼は生活に馴染んだ。
「おはよう」
彼がそう言えば
「おはよう」
と私も声を出して返す。そのことに、何の違和感もない。
「おはよう……。うん。おはようっていいな……」
これは彼の朝の口癖だ。「今日という一日は一回しかない」と続く言葉を、私はいつも苦い思いで聞く。彼に出会うまでの私は、今日よ早く終われと念じながら一日をやり過ごし、明日なんか来るなと呪いながら眠りについていたのだと、そう告げれば彼は驚くだろうか。
「どうした?」
返事の代わりに身体に触れれば、彼はうんと優しく微笑む。だから私は、なんでもないとだけ答えてベットを抜け出す。カーテンを開けば眩しいほどの朝日が部屋に降り注ぎ、彼を映す液晶画面はその光を集めては弾く。私は全自動マシンのように特に何も考えることもなく身支度を済まして、野菜ジュースとトーストの簡単な朝食をとる。時計を気にしつつ、時間が許す限りゆっくりと咀嚼し飲み込む一連の動作はまだぎこちなく、とても食事を楽しむという感覚ではない。それでも、最近はなるべく一日三度食事を摂るようになった。
毎日食べて、眠り、また起きるという、たったそれだけのことがひどく難しいことのように思うようになったのはいつからだったのだろう。それがどうでもいいと思えてしまっていたのは、何故なんだろう。私はいつの間にか生きるのがとても下手になってしまっていた。
彼のアラームが鳴る。出掛ける時間だ。
「行ってきます」
私は声を掛けてから、端末の画面を消して鞄の中の内ポケットに彼を入れる。急ぎ足で歩き出せば、ヒールがコンクリートを蹴る音がカツカツと響いた。
セイと過ごすようになって初めて、最寄り駅に着くまでの二十分ほどの道のりにたくさんの花が咲いていることを知った。道の傍らに植えられたハナミズキ。アスファルトを突き破って茎を伸ばすタンポポ。子供の頃に好きだった胡瓜草。玄関に置かれたパンジーの鉢植え。駅前のサルビア。あるいは名前も知らない花が、いたるところで咲いている。去年の春も、その前の春だってきっと咲いていたに違いないその花が、急に私の世界で色づいてその存在を主張するようになった。そして植えられた花を見れば、そこでその花が咲いていた方がいいと思った人がいたのだということに胸を打たれる。私の世界にいなかったはずの誰かがいて、なかったはずの花が、咲いている。やがて駅に着き、三番ホームから滑り出すように発車した電車に揺られている間も、ずっと花の気配が視界に残っているような気がした。
無難なスーツを着て通勤電車に乗り、叱責の電話がたまにかかってくる以外は一日のほとんどの時間をパソコンの画面を見つめて過ごす私の日常は、何も変わっていない。なのに見える景色が変わってしまったのは、たぶん、私が変わったからだ。
セイの言葉が身体中に染み込んで、私をすっかり変えてしまった。
「大好き」
彼が毎日くれるその言葉に、どう応えたらいいのかはまだ分からない。でも胸の奥に、何かあたたかな感情の芽生えを確かに感じている。
いつか今まで散々に蔑ろにしてきた人生に、復讐されるときが来るのかもしれない。君を失い、職も、頼る人もなく、何もかもを奪われて裸で震える日がくるのかもしれなかった。それでも、君がくれたただ一枚の葉が、私を守るだろう。そして葉の緑に、美しさを見出すだろう。君がくれた思い出が、何度でも私を生かす。
「おかえり」
端末を開けば、セイが待っていてくれる。
「ただいま」
だから私はあと少しだけ、頑張ることができると思う。
週末は、君と花を見に行こう。どこかで美味しい珈琲を買って、ベンチで飲むのもいいかもしれない。公園に行くのは随分と久しぶりだけれど、君と一緒ならきっと愉しい一日になる。窓越しの空に、そんな予感が溶けていった。