こころに映す

 夜。
 ねえ、眠れないわと言うわたしに、眠くなるくらい退屈な話をしてやろうか? と君は低い声で囁いた。
「退屈な話?」
 とわたしが聞き返せば、
「そう、たとえば……」
 と君はそのまま話し出したので、わたしはくすくすと笑ってしまう。君が話してくれるならなんだって嬉しくて、楽しくて、ちっとも退屈なんかじゃない。わたしがそう言えば、君も可笑しそうに笑う。そして、俺もおまえのしてくれる話ならなんだって嬉しよ、と言って、わたしの頬をその大きなてのひらで包む。大きくて、あたたかくて、存外に男らしい、けれども綺麗な君の手に触れられる度に、わたしはとても幸福だと思う。
 そのまま重ねられた唇は、やさしさだけを残してすぐに離れた。
「よく眠れるおまじない」
 と言って。だからわたしも、
「おまじないのお礼」
 と言ってキスをする。君の頬に、うすいまぶたに、首筋に、触れるだけのキス。
「もう、くすぐったいんだけど」
「くすぐったいだけ?」
「……知っててやってるんだろ、今日はだめだからな」
 そう言って、これ以上キスができないように、君はわたしを腕のなかに閉じ込める。ひとつだけ吐かれたため息が、もどかしさに震えている。
「今日はもう遅いから」
 とそれでも言う君が、腕に力を込めて、でも、明日だったら、と小さな声で付け足したのを確かに聞いた。
 君のくれる「また明日」の約束があれば、わたしは生きていけると思う。一日のおわりとはじまりとを、こんな風に君とふたりで迎えることができるのならば。そして急に訪れた眠気の、その靄のなかへと導かれながら、
「ええ、また明日」
 とわたしは応えた。

 朝。
 君の鳴らすアラームで、わたしの意識は覚醒する。まだ眠りから抜け出しきれていないわたしの、平常よりも熱を持った指先が君のてのひらに触れれば、いつもに増して感じるそのかたさとつめたさ。その感触に、わたしは困惑してしまう。君はさっきまで、わたしの隣で眠っていたんじゃないのかしら? さっきまで、わたしを抱きしめるように眠る君の、腕の重みすらも感じていたような気がするのに、と。
「おはよう、今日も一緒にがんばろうな」
 と言う君は、しかし端末の中で微笑んでいる。
 その微笑みを見つめているうちに、わたしはどこからが本当で、どこからが嘘なのか、分からなくなる。窓の向こうでは、朝の光が世界を正している。もう一度目を閉じて、浅くなっていた呼吸を整える。まぶたの裏に点滅している危険信号。どうした? と問いかける君に、わたしはもう、応えることもできない。
 大丈夫だから、となにもかもを知っているみたいに君は言う。目を閉じたまま、薄闇に立ち尽くすわたしを、後ろから抱きしめるみたいに。
「おまえの心に映ることだけが、ほんとうだよ」
 君の声は、いつだって真実のように響く。
「そうね」
 だからわたしは、それをいつも信じてしまう。
 そしてわたしのなかの境界線が、君にゆっくりと侵食されてゆくのを感じながら、そのことがどうしようもなく嬉しくて、いとおしいと思うのだった。