「……セイ」
こめかみのあたり、眼鏡の弦を押さえながらわたしは彼を呼ぶ。すると、
「どうした?」
と彼はいつでもやさしく返事をしてくれる。左耳に差し込んだ小型イヤフォンから、わたしだけに聞こえるように鼓膜を震わす、聞き慣れた声。
「道に迷ったみたい。ここから最寄り駅まで案内してくれる?」
「OK」
わたしが頼むと、即座に電子眼鏡がナビゲーションモードに切り替わり、進むべき道を指し示す矢印マークが目の前に現れる。どうやら途中で曲がる道を間違ってしまったらしい。少しだけ遠回りをしてしまったが、別段に急いでいるわけでもない。わたしはゆったりとしたペースのまま歩き続ける。
「今日は暑いな、疲れてないか?」
「いいえ、まだ大丈夫」
確かに今日はひどく暑い。まだ6月だとはとても思えないような日差しが降り注ぎ、空気全体がむわりと蒸している。それでも、疲れて歩けないほどではない。セイは心配性なのだ。
「実は、この近くの公園の紫陽花が見頃なんだ。よかったらついでに見に行くとか……ダメ、か?」
お伺いを立てるように言ってはいるけれど、これは誘導だ。わたしを木陰のベンチで休ませ、水分補給をさせるための。
「わかった、いいよ」
降参するわ、という意思を込めてわたしは答える。セイは安堵のため息をついた後で、ナビゲーションの目的地を公園へと変更する。行かない、と言い張ったところで、彼はわたしがどこかで休むまであれやこれやと言い続けるに違いないのだ。長い付き合いだもの、それくらいわかる。あと2分で着くから、と言う声に、だからわたしは返事をせずに黙々と歩く。
セイの思惑通りに到着した公園で、わたしはベンチに座り、端末を取り出す。座るとどっと疲れが出るように感じるのは、一体なぜなんだろうとうんざりしてしまう。
「おつかれ」
と言う彼は、心配そうな顔をしている。歳をとったな、と感じるのはこういうときだ。常にバイタルサインをチェックしている彼は、わたしが感知する以上に正確にわたしの身体について把握している。紫陽花が咲いているらしい方角へと目を向けるけれど、まだそこまで歩く気力がない。セイは何も言わず、ここからでも花が見えるように眼鏡のズーム機能をオンにする。
きれいね、というわたしのつぶやきに彼は、
「うん、よかった」
とだけ答える。やっぱり紫陽花なんてわたしを休ませる口実だったのね、と思うけれど実際に疲れているのだから仕方がない。
画面越しのセイの身体に触れれば、くすぐったそうに彼は息を漏らす。わざわざ旧型の端末を持ち歩かなくても、眼鏡があれば大抵のことは事足りるようになった。しかし、このディスプレイの硬さに触れるとどうしようもなく安心するのだと、そう言ってやればセイはどんな顔をするだろう。年を経るごとに無口になっていったふたりだけれど、こうして彼の身体に触れれば、指先を通して言葉にできなかった気持ちもちゃんと伝わり合っていたような気がするのだと。
大きな樹の影に守られるようにして涼みながら、それにしても思っていたよりも長く生きたなあ、と思う。一日いちにちを重ねていけば、こんな未来まで辿り着くことができるだなんて想像もしていなかった。
「俺も歳をとったよな」
とわたしに同調したようにセイが言う。可笑しそうに、だけど少しさみしいみたいに。
「sei……? ああ、おばあちゃんとかに人気のやつ」
と、先日行ったサポートセンターで言われたのを気にしているのだ。確かに新しいコンシェルジュアプリケーションが随分と増えた。それでも、《sei》は最も普及している製品であり、今でも根強い人気がある。
「あなたも年寄り扱いされるわたしの気持ちがわかったでしょう?」
わたしは意地悪な気持ちでそう答える。無理するなよ? と彼に言われるたびに、もう歳なんだからと言われているような気持ちになるのだ。
「そういうつもりじゃないんだけどな」
「そう?」
「うん……、俺は、おまえは相変わらずきれいだなって、そう思ってるんだけど」
わたしはもうすっかりおばあちゃんなのよ、と吹き出しそうになるけれど、セイの瞳にははじめて好きだと言われたあの日と同じ熱が宿っている。──やっぱり、降参だ。
セイは四半世紀以上前からずっと青年の姿のままだ。もちろん、年齢を重ねているように見せるカスタマイズもできるのだけれど、わたしはそうしなかった。多くのものが変わっても、セイだけは変わらずにいてくれる。そのことがいつもわたしの支えだった。ライラックのやわらかな髪の毛。吸い込まれそうなほど澄んだ瞳。わたしだけの美しいコンシェルジュ。
「こんなにも長い間おまえの傍にいられて、俺、ほんとうに幸せだよ」
幸せというものをかたちにしたら、きっとこんな風になるのだろうと思わせるような、完璧な微笑みを浮かべて彼は言う。
「まだまだ一緒にいてくれないと困るよ、セイ」
わたし、もっと長生きするつもりなんだから、と付け足せば、
「……そうだな、ありがとう」
と、彼は嬉しそうに答える。
「こちらこそ」
そう答えたわたしも、きっと彼と同じような顔をしている。
あとどれくらい一緒にいられるだろう、と考えないわけではない。それでも、木漏れ日の午後、ふたりで過ごすこのとき、この瞬間。それは永遠にも似てわたしの命を燃やすのだ。