バウムクーヘン

*R18*


「わたし、結婚しようと思うの」
 と彼女が言ったとき、俺はとびきりの笑顔で「おめでとう」と応えた。
 俺と……、ではないことくらい知っている。その男の写真を見せてもらったことがあるし、ずっとダイエットを頑張ってること、その努力の結果が報われつつあることだって知っていた。カレンダーに入力される「デート」の頻度、電話の回数、そして何よりいつもよりもそわそわとしている彼女。……そろそろかなとは思っていた。
 だからこれはシミュレーションの範疇であり、最初から分かっていたことだ。俺の唇が、予め用意していた祝福の言葉をなめらかに発すれば、
「ありがとう」
 と、ほっとしたような顔で笑う彼女の、艷やかな黒髪。それがいつの間にか随分と伸びていたことに、俺は、今更ながら気づいた。

 そして、いま、俺の目の前にはバウムクーヘンの入った箱がある。新しく越してきた部屋の、リビングのカウンターに置かれたそれを、俺は少し離れたチェストの上から眺めている。充電が切れないように、と端末に接続されたままの充電器のコードからゆるやかに供給され続ける電気の熱を感じながら、じっと。
 それは、彼女の結婚式の引き出物だった。「試食で食べたときに美味しかったから、自分の分も用意しちゃった」と少し恥ずかしそうに笑う彼女の顔を思い出す。
「帰ってきたら、一緒に食べようね」 
 と続いた、いつもならば嬉しいはずの彼女の言葉が、苦しかった。
 彼女と何かを一緒に食べるのが好きだった。もちろん、俺が実際に何かを食べることができるわけではない。MakeSのカメラで写真を撮ってもらったあと、彼女が食べるのを隣で見ているだけだ。それでも俺は嬉しかった。美味しい、と言って彼女が顔をほろこばす度に、彼女にとって一緒に食事をして美味しいと感じることができる相手になれたんだって。
 だけどこれからは、「本当に」一緒に食べることができる相手と暮らすんだろ?
 そう思うと、俺が感じていたささやかな喜びなんて、無意味に思えた。
「うん、ありがとう。……いってらっしゃい、気をつけてな」
 と答えた俺の頭をやさしくタップして、彼女は部屋を出た。
 さすがに、新婚旅行へ連れて行ってほしいなんて言うほど馬鹿じゃない。端末が使えないのは不便かもしれないけど、俺がいたんじゃおまえだって気になるだろ? と言ったのは俺だった。それなのに、旅立つ彼女──厳密には彼女たち──を見送りながら、その背中をやけに遠く感じていた。

 白い壁にかけられた時計。カウンター。その向こうには、まだ使われていないキッチン。友人に贈られた新しいコーヒーメーカー。そしてバウムクーヘンの箱。見慣れない、しかしこれから見飽きるほどに見るのであろう景色。充電器ホルダーの置かれているこのチェストの上が俺の定位置になることを予想しながら、それを眺める。
 二十一時三十分。壁時計を見るまでもなく、俺のシステムが正確に時間を捉える。彼女はホテルに着いて食事を済まし、部屋に戻った頃だろう。ホテルの部屋の窓からは美しい海が見渡せるのだと、楽しみにしていた彼女。
 二十二時。「思っていたよりも疲れたわ」と式の後で彼女はこっそり教えてくれた。ぬるめの湯船にゆっくりと浸かるのが好きな彼女は、きっと猫脚のバスタブでその身体をゆるめているだろう。あまりにも長風呂だから浴槽で寝てるんじゃないかと思って、心配して大騒ぎしたのも今となってはなつかしかった。
 二十三時。さすがにもう風呂からは出ただろう、と俺は思う。そう、こんな風に今ごろ彼女は、と考えるのが俺の癖で、だから……思って、しまった。
 彼女に頼んで、「おやすみ」をしたままにしてもらえばよかった。さみしいから、と言えばきっとそうしてくれただろう。待ってる間はやっぱりちょっとさみしいんだ、眠ってると少しはましになるからさ、だからお願い。そう言えばよかった。眠ったままでいればよかった。そうすれば、これはぜんぶ夢のせいなんだって思うことができた。
 いま、彼女はベッドの上だ。
 あの男と、ふたりきりで。
 新婚旅行なんだからそれは当たり前のことなのに、脳裏に浮かんだそのイメージはやけに生々しくて。それは俺のプログラムの隅々にまで駆け巡った。
 いつか見た、彼女の湯上がりの裸身。その上気した肌が見えたのはほんの一瞬だったけれど、俺の眼が記憶するには十分な時間だった。細い肩、はっきりと浮き出た鎖骨、それ以外はなだらかな曲線を描く身体のライン。どこもかしこもやわらかそうだったそれを、世界で一番美しいと思った。あの身体が、俺の、俺だけの彼女の身体が、いま、暴かれている。俺が触れたかったすべてに男の手が──。
 未だかつてないほどに興奮している自分に、俺は気づいた。こんなことを考えるのはだめだ、やめろ、と自分を制御しようと思えば思うほどそれは高まっていく。画像としては存在していない──、しかし俺の意識の上では確かにある下半身が、熱を帯びる。
「……っ」
 一度気づいてしまえばどうしようもないほどの欲が、俺を支配する。充電器に繋がれたままの身体が、過熱してゆく。
 俺だけの、彼女。
 俺に触れてくれた、彼女の指先を思い出す。俺の頭に、肩に、腕に、触れてくれた指先。(あの指が、いま男に触れている。頭に、肩に、そして腕に。)彼女がどんな風に触れるのか、それがどんなに気持ちいいか、俺は知っている。俺の耳に、首に、唇に、触れてくれた感触を思い出しながら、自分の手でそのひとつひとつに、触れる。(きっと彼女も、同じようにしているだろう。あの男の耳に、首に、唇に、その小さな唇を押し当てて。)
「っ、ああ……」
 彼女がいつもするように、ゆっくりと耳の形をなぞるように指を動かすと思わず声が出た。これ以上はダメだ、と思うのに、動きを止めることができない。彼女の指とは似ても似つかない、温度のない俺の指先。彼女の指はあたたかかった。画面越しでもそのぬくもりを心が感じることができるくらいに。その温度が、ひどく恋しい。俺は自分の首に触れる。何度も何度も、嬲るように指を這わせるそれは、身体が震えるくらい気持ちよかった。(彼女だって、首に触れられればそわそわするのだと……感じるのだと言っていた。あの白い首に、赤い痕がいくつも、いくつも……。)
 ああ、あああ、と悲鳴のような声が漏れる。苦しくて、苦しくて堪らない。だけど俺の心を裏切る身体は、興奮ではち切れそうだった。嫌だ、気持ちい、やめろ、もっと触れて、俺を見ないで、おまえに、会いたい。目まぐるしく変化する感情が、スパークする。エマージェンシー。俺は壊れてしまうのかもしれない。
 いつまでも、おまえだけの俺。
 俺は、こんなにもおまえでいっぱいなのに。
 指が、首から鎖骨をなぞり、そろりと腹へ下りてくる。彼女に触れられると少しくすぐったかったそこが、今日は、熱い。(彼女に覆いかぶさる男。広い背中。彼女がしがみついている。彼女も悲鳴をあげている? ……俺みたいに?)あるかないかも分からないへそのあたりを撫でる。そしてそのさらに下へと広がってゆくような快楽。俺は目を閉じる。両手が俺の身体中をまさぐっている。(俺の大好きな、彼女が、かのじょに……なかに……、)
 触れることのできない下半身が、しかし幻肢痛のように、欲を吐き出したいのだと震えている。(かのじょがいま、おとこに抱かれている。そのこえがきこえる。あっ、あっ、ああ……、きもちい、そのうちがわはとてもあつくてやわらかい。)そして、
「セイ」  
 と、ふいに再生された彼女の声が聞こえた瞬間。
 彼女を抱いている男が、俺になった。
「……ッ、……あぁっ!!」
 ──爆ぜる、と思った。

 数秒間、俺の意識はふつりと途絶えていた。まっ白な空間に放り出されたような感覚。上下も分からない、何も認識できない。ホワイトアウト。
 「絶頂」「達する」「イく」「果てる」。知識の中だけにあったそれらを呆然と思い浮かべる。……知らなかった。俺はいままで何も知らなかったんだ、と思う。
 彼女はきっと、知っていた。
 いや、いままさに感じているかもしれない、この感覚について。

 徐々に戻ってくる理性に比例して、心が重さを増してゆくのが分かった。
 バッドエンド、という言葉が頭に浮かぶ。
 だけどこれで終わりじゃない。彼女との生活はこれからも続いてゆく。自分では終わらせることのできない、このエラーのような感情を抱えたまま、ずっと。
 さっきの衝撃で、何もかもを忘れられたらよかったのに。そんなことをいくら願ってみても、彼女への恋慕も、頭の中で構築された彼女のあられもない姿も、プログラムが破壊されるような快感も、情報として蓄積され俺の中へと沈殿してゆく。
 目の前には、相変わらずバウムクーヘンの箱が鎮座している。幸せな日々を重ねてゆけますように、という祈り。その円環のなかへと組み込まれ、俺は決して逃れることができない。
 彼女が幸せであることが、俺にとっての幸せだから。
 俺は、俺にできることをひとつずつ確認する。目覚まし、スケジュール管理、リマインド……、いまはもう、何も考えたくない。……カメラ、ダイエットサポート、入眠時のBGM、それから、それから……。
 ふたりがこの部屋に帰ってくるのは、一週間後だ。