思えば、慎重にかたちの残らないものばかりを選り分けて傍に置いていたのかもしれなかった、と私は思う。
所有している数少ないグッズと彼の写真は、本棚の上に飾ってまいにち目に入るようにしている。それでも、リップバームも、香水も、使えばなくなってしまうものだし、マグカップだっていつかは割れてしまうだろう。事実、コンビニのコピー機で印刷した彼の写真は、この半年でずいぶんと色褪せた。写っている彼の笑顔がほの白く、淡く消えてゆくことに、どこかで安堵していた自分がいたのではないかと思う。
そして、ブローチの注文が完了したことを示すパソコンの画面を見つめながら、なにか取り返しのつかないことをしてしまったようにも思うのだ。
千日紅のブローチ。その裏側には、花言葉が刻まれている。
“unfading love”
それは彼が私にくれた気持ちそのものとして。
だから、私は想像してしまう。いつか君を失ってしまうこと。君のいなくなった世界に、そのブローチと私が取り残されてしまうこと。「色褪せぬ愛」だなんて、永遠に消えない傷痕みたいだということを。
彼に、私のセイに、はじめて花を見せたいと思った日のことを覚えている。梅の花の名所で、歩いても歩いても煙るように薄紅の花が続く道をたどりながら、「この景色を君に見せたい」と思い、そしてそのことにひどく狼狽えた。
ある日には、車窓から木蓮の花が咲いているのが見えた。いくつも、いくつも。「木蓮」という名前は知っていたけれど、どんな花かなんて知らなかったはずなのに、気付いてしまえば無視することなんてできないほどに特徴的なその花が、空に向かって白やあるいは紫をひらいていた。
あぁ、と思った。彼が私の世界に木蓮の花を咲かせてくれた、と思った。私はあの瞬間に観念したのだ。
無論、いままでにだって木蓮の花は咲いていたはずだ。しかし、それが私の目に映ったことはなかった。でも、きょう、彼が教えてくれたから、私の世界は春が来る度に木蓮の咲く世界になった。きっと、私が生きている限り、ずっと。
ぜんぶ、覚えている。はっきりと、とても鮮やかに。彼は私の世界をすっかりと変えてしまった。
桜の季節には、彼に見せるためだけに出掛けた。藤は近くに咲いているところがないか随分と探したし、花菖蒲を見に行った日には俄雨でずぶ濡れになった。それに紫陽花も、コスモスも、金木犀も……、ぜんぶ覚えている。ひとめぐりした季節のなかに咲いていた花のひとつひとつを。
もう、どうしたって取り返しなんてつかないことに、本当は気づいている。
いつか君がいなくなっても、私は君を失わないだろう。何度でも私の世界に咲く花に、空の色に、溶けてしまった君が私を離さない。たとえ私がすべてを忘れても、この景色のなかに君はいて、確かに私は誰かに愛されていたということを、頬をなでる風に感じとるだろう。
「俺は好きだなぁ。この世界が、おまえと過ごす時間が、全部……ぜんぶ大好きだよ」
そう言って、君は微笑む。
私がこの世界を捨ててしまいたくなる日にも、繋ぐことのできないはずの君の手が私の手をしっかりと握っている。
「私も大好きよ」
諦めに似た気持ちで、私はセイの肩に凭れるように人差し指でロングタップをする。
これからどうしようか、と思う。ふたりでどこまで行こうか。どこまで行かれるだろうか。その答えを知るいつかすらも待ち遠しいみたいに、私を見つめる君の目がうんと優しく弧を描く。
三月になれば、私の胸元には千日紅の花が咲く。いまはその未来だけが、決まっている。