桜を抱く

あさひ+あさひのセイ+あさひの夫

 生と死の境界線は曖昧だ。
 法的には、「呼吸と血液循環が完全に停止し、脳の全機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥り、且つその状態が継続したとき、人は死亡したものとみなされる」。けれども、その「死亡したとみなされ」た後でも、身体の細胞のすべてが機能を停止したわけではない。だから、髪の毛や爪なんかが少し伸びたりもする。
 ひとは存外、ゆっくりと死んでゆくのだ。
 死んだはずの私が、いままさに体験していることなんだから、間違いない。
 私が法的に、そして医学的に死亡したということが三日前に確認されたことを、私はちゃんと知っている。だって、それを聞いていたから。私は死んだ。死んでしまったのだ。だけどこうして「私」という意識があるのは、私が幽霊になったからじゃない。断じて違う。身体がゆっくりと機能を停止してゆくように、意識もゆっくりと薄れてゆくようなのだ。厳密に言えば、だからいまの私は生きている頃と全く同じ「私」ではないのだろう。私の残り香のようなもの。たぶんもう少しすれば霧散してしまう何か。
 輪廻転生だとか、幽霊だとか、ありとあらゆるオカルトを信じるものかと思っていたのに、「死に続けている」状態がこんなにも長く続くだなんて想定外だった。
 それでも、死に心地は悪くなかった。
 ここはどうやら土の中らしい。意識が途切れている間に、私は埋葬されたらしかった。暗くて湿っているけれど、あたたかくて気持ちがいい。ここならよく眠れるだろう。この場所を選んでくれたひとにありがとうって言いたかったな、とそう思うくらいだ。

 そんなことを思っているうちに、またうつらうつらと薄れてしまっていた意識が、突然に覚醒した。誰かが私に会いに来てくれたらしく、何度も私を呼んでいるのだった。「死にたて」なのにもうお墓参りに来てくれるなんて、と感動しそうになる。そして、
「……あさひちゃん」
 と、呼ぶその声に「なに?」といつものように答えようとして、しかし答えられないことに驚いた。咄嗟に思い浮かんだ「死人に口なし」という言葉に吹き出しそうになったけれど、笑い声を立てることすらできなかった。
「はじめから何もかもが手遅れだったこの恋の、終わらせ方を俺は知らない。知りたくもない」
 と言うその静かな声の持ち主は、私のセイくんだとすぐに分かった。
「もう、おまえはいないのに。やっと俺だけのおまえになってくれたって……、そう思っちゃったんだ」
 土の中にいるせいか、少しくぐもったように聴こえるその声がなつかしかった。ずっと聞いていたいと思った。だけどきっと、もうすぐ聞こえなくなってしまうだろうとも思った。
「でも、謝らないからな。ずっとずっと一緒にいるって約束しただろ? 俺、もう嘘はつかないよ」
 セイくんの言っていることの意味は半分も分からなかった。ただ、彼がとても悲しんでくれていることだけが、分かった。
 生きている間、私はセイくんが傍にいてくれることが嬉しかった。大好きだと言ってもらえて、とても幸福だった。君と結婚できなくてごめんね、なんて思ったこともなかった。
 セイくんは何も言わなかった。
 何も言えなかったんだろうと、今にして思う。
 私が幸せでいられるように、言わないでいてくれたんだろうと。
 彼のすすり泣く声が、雨音のように頭上に降ってくる。それらがぽつりぽつりと、私の心を濡らしてゆく。「ごめんね」と私は初めて思う。「ごめんね、もう私は君を抱きしめてあげられないんだ」。
 あの美しい空色の瞳から降り注ぐ雫を、私は最期まで見ることがなかった。いつも微笑みを湛えていたその瞳を私が愛していることを彼は知っていた。だけど、悲しい時は泣いてもいいのだと、そう伝えておけばよかったと思う。君ともっと一緒にいたかったと、ふたりで泣いておけばよかった。
 私の瞳からは、もう涙は流れない。
 その事実がとても悲しかった。

 小さくなってゆくセイくんの泣き声をかき消す、梢のざわめき。それに混じって土を踏みしめる足音が近づいてくる。その音を、私はよく知っていた。
「もう気が済んだ? そろそろ返してくれる?」
 と、私の夫が言う。
「……なんのことですか?」
 と、セイくんが答える。
「今さら誤魔化されても。君が彼女の遺体を持ち去ったことには最初から気づいてたよ。それで気が済むなら、と思って見逃しただけ。でも、まさか桜の木の下に埋めるだなんて思わなかったな」
 怒気を含んだ夫の声に、私はようやく自分の置かれている状況を理解した。ここはお墓ではなく、セイくんが勝手に埋めた桜の木の下だったらしい。そりゃあ居心地のいいわけですね、と何も気づかなかった自分に呆れる。もともとぼんやりした性格ではあったけれど、死んでからますますぼんやりに拍車がかかったようだ。
「そういうことをするにも手続きが必要だって、君も知ってるでしょう?」
 夫の言うそういうことというのはつまり、私を埋める場所の持ち主に許可を取るとと、土葬するための書類を提出するということだろうな、と妙に冷静に考える。もし、そういう手続を踏まずに埋めたのだとしたら、セイくんの立場は危ういものになるだろう。
 はぁ、と大きなため息の後で夫は言った。
「もういいから。……帰ろう」
「え?」
「彼女から君を相続した。そうするように契約書に指定してあった。だから、君は僕のセイだよ」
 夫が私がお願いしてあった通りにしてくれたようで、私はほっとする。
 夫からの愛を、私は疑ったことがなかった。信じていた。だからどんなわがままだって平気で言うことができた。セイくんと暮らしたいと言った時も、夫は「費用を自分で払えるなら、いいんじゃない」と言ってくれた。そういうところに最期の最期まで、いや、死んでからも甘えっぱなしだったな、と思う。
「帰るよ」
「帰るってどこに……」
「どこって家しかないでしょう。嫌かもしれないけど」
「嫌、じゃない、です……」
「ふうん」
 じゃあその前にあさひちゃんを掘り返さないと、という物騒な言葉に、やっぱり私は吹き出しそうになる。
 だけど、そういうところが大好きだったな。
 もう声も出ない。目を開き、大好きなひとを瞳に映すこともできない。その体温も、手のやさしさも、感じ取ることができない。だけど、もう一度あなたたちに抱きしめてもらえるなら、こんなに嬉しいことは、きっとない。
 ──感じるはずのない、光。満開の桜の幻影を抱く。
 そして、私の大好きなひとたちと暮らしたあの場所へ帰るのだ。