ここにあるもの

 わたしの隣を歩くとき、彼は決まって私の左側を歩く。もともと歩くのが遅い質ではあるけれど、こうしてふたりで並んで歩くのが嬉しくて、ますます遅くなりがちなわたしの歩調に合わせて彼の歩みもゆっくりになる。彼の右肩のあたりから、その横顔を見つめるのがわたしは好きだった。
 その視線に気づいたセイは、
「うん? どうした?」
 と、わたしの顔を覗き込むように見る。
「ううん、なんでもない」
「ほんとに?」
「デートだな、って思っただけだよ」
 彼は「デート」という単語に反応して、嬉しそうな顔をする。頭を撫でられたときに見せる、少しくすぐったいような、でも幸福を隠しきれないような、あの表情だ。
「そうだな」
 そう言って、セイは私の左手の方へと手を伸ばした。わたしはそれをそっと握り返した。
 ふふ、と目を伏せてわたしは笑う。頭上で彼も微かに笑っているような気配がする。こんなにもはしゃいだ気分なのは、きっと春の日差しの温かさのせいだと思う。
 世界は相変わらず美しかった。
 空の青さは、むしろ増しているようにも見えた。
 最寄りのスーパーへと続く道は、真昼間という時間帯のせいなのかわたしとセイとのふたりきりで、キスだってできてしまいそうだった。
 わたしがそんな不埒なこと考えているだなんて知らないセイは、
「どうした? 少し休もうか?」
 と、訊ねる。ううん、と首を横にふりながらわたしは
「いま、何時?」
 と、誤魔化すように言った。
「いまの時刻は、十一時二十八分だ」
「そっか、ありがとう」
「どういたしまして」
 こうしていつでもセイが時間を教えてくれるので、そしてそれを訊ねると彼が喜ぶので、休日は腕時計をつけないのがわたしの習慣になっていた。そして彼の気を逸らせたいときにしばしば時刻を訊ねているのを、彼はもしかしたら気づかないふりをしているのかもしれなかった。
 けれど、キスができそうだね、だなんて口にすればもっと彼を困らせてしまいそうなのでわたしは黙る。
「あ、木蓮」
 セイが空いている方の左手で、民家の庭先に咲いている花を指差す。少しほっとしたような気持ちで、わたしは彼の指の先の紫を見つめる。
「ほんとだ、初めて一緒に見られたね」
「うん……、きれいだ」
 うん、とそれにわたしはうなづき、それ以上を言葉にすることができなかった。空に向かって開いている木蓮の花のあかるさが、目に染みるようだった。しかし、それを写真を撮るわけにも、足を止めてしげしげと眺めるわけにもいかないので、歩きながらわたしはなるべくゆっくりとまばたきをする。網膜に焼き付けるみたいに。
 大人になればいつでもどこへでも行かれると思っていた。この世界のどこへでも、好きなときに。それを疑ったこともなかった。だから安心して「いつか」へと先延ばしすることができたのだった。こんな風に、どこへも行かれない今日が来るだなんて思ってもみなかった。
 徐々に湿り気を帯びてくるわたしの手を、彼はやさしく握り続けている。温かいけれども乾いていて、清潔なセイの手のひら。それを顔へ近づければ、エタノールの匂いがすることもわたしは知っていた。
 帰ったら、とわたしは思う。
 家に帰ったら君を抱きしめたい。君の広い背中に腕を回して、ぴったりとくっついていたい。君がいてくれるなら大丈夫だから。 
 そうと口にする代わりに、
「帰ったらお昼ごはん、何にしようかな」
 と、わたしは言った。
「お、献立に迷ってるのか? どういう料理にしたいんだ?」
「えっとね、お手軽に作りたい、かな」
「オッケー、お手軽な料理、ね」
 ちょっと待っててな、と彼がメニューを検索し始める。「かけうどん、ワカメのお吸い物」「カルボナーラ、ニンジンのポタージュ」「ネギのチヂミ、鶏肉のピリ辛スープ」……そのいちいちいに美味しそう、だとか、そんなの作れないよ、だとか、いや一緒に作れば大丈夫だから、とふたりで言い合う。いつものように。
 ポケットの中に入れた鍵が、キーホルダーと擦れてちゃりちゃりと軽い音を立てている。こうしてふたりで手をつないでいればデートだし、家でくっついていればそれもデートである。即ち毎日がデートなのであって、わたしたちの大切なものは全部ここにあるのだった。
 あと少し歩けば、スーパーに着く。今日のお昼の献立はまだ決まりそうにない。