First Night

ユーゴ×モブ

*R18*


「……延期? またですか?」
 と、あからさまに不機嫌な声で聞き返す俺に、電話の向こうのクライアントは冷淡だった。「今夜の仕事は延期になった。明朝まで待機するように」という一点張り。そして、その理由は説明できないとのことだった。
 ここのところこういったことが頻発していた。もしかしたら舐められているのかもしれないな、と俺は思う。あるいは、試されているのかもしれない。口は固いのか。不測の事態に対応できるか。常に冷静な判断を下せる人間かどうか。
 確かに、俺は経験がまだ浅い。だが、一度だってヘマをしたことはないのにこんな扱いをされるのは不当だと、思わず舌打ちしそうになる。とはいえ、まさかそんなことをするわけにもいかず、思い切り深く息を吸い込んだ後に、
「分かりました」
 とだけ答えて俺は電話を切った。
 夜の間に仕事を片付けて、さっさと立ち去るはずだった街。その薄汚れたネオンの光だけが茫茫と明るい道を、当てもなく歩く。手持ちの金はあまり残っていない。どこか適当な場所に泊まるにしても心もとない金額だ。できれば、何かあった時のためにとって置きたい。いくら余分な金は持たないようにしているとはいえ、もう少し持っておくべきだったかとも思ったが、今更考えたところで仕方のないことではあった。
 しかし、歩くのは嫌いじゃないと俺は思う。右足と左足とを交互に動かしているうちに、だんだん頭が空っぽになってゆく。通り過ぎてゆく景色を、無意識が追う。その間は何も思わなくて済むし、考えなくて済む。薄明るい夜の街は、俺を上手に隠してくれる。道行く人々の目はみな虚ろで、アルコール臭い呼気を吐き出しながら、俺と同じく行く当てなんてないように見えた。
 それでも、深まってゆく夜に閉め出され、影のように漂っていた人々の姿は疎らになり、時折上がっていた甲高い笑い声もやがて途絶えた。空を見上げれば、今にも降り出しそうな分厚い雲が垂れ込めている。
 今日はつくづくついていない。そう思いながら歩みを止めた時だった。
「ねえ、今夜行くところがないんでしょ?」
 と、見知らぬ女が声を掛けてきた。濃い化粧と、ひどく薄着の格好をしているその女は、ひと目で夜の街で働いているのだと分かった。
「もしかして、フラれた?」
 くすくすと笑いながら女が立ち去りそうもないので、
「ええ、まぁ、そんなところです」
 と、俺は仕方なく答えた。女の想像とは少し違うだろうけれど、似たようなものだしどうだっていいだろうと、やや投げやりになったその返答に、女はますます可笑しそうに笑った。そして、
「じゃあ、家においでよ。泊めてあげる」
 と言い、俺の手を引っ張った。ふいに近づいた女の身体からは、嗅いだことのないようなひどく甘ったるい香りがした。

 何故その女に付いて行こうと思ったのか、自分でも分からない。その手を振りほどくことは簡単にできたはずなのに、俺はそうしなかった。
 女のヒールがカツカツとアスファルトの地面を叩く音を聞きながら、言葉少なに部屋へと歩く道すがらに俺は尋ねた。
「どうして見ず知らずの俺を?」
「なんとなく。今日はひとりで帰りたくなかったから」
「へえ」
 そういうものか、と俺は思う。実際に「そういうものか」と口に出してみれば、
「そういうものなのよ」
 と女が前方を見つめたままで言う。どうしてあんな場所をほっつき歩いていたのかと、女は尋ねなかった。それきり閉ざされてしまった赤い唇は、少しだけ微笑んでいるようにも見えた。
 女性の部屋というものが、一般的にどういうものなのかをよくは知らない。けれど、女に促されて入った部屋は、家具も装飾品もあまりなく、少し殺風景に思えた。そのくせ窓辺に一輪挿しの花が飾ってあることがいじらしく、かなしかった。
「飲む?」
 と女が尋ねたのは、無論アルコールのことだと分かったが、
「ああ、水を」
 と俺が答えたので、女はつまらなそうな顔をした。
 それでも、「そこらへんにあるもの、なんでも食べていいから」と言い残してシャワーを浴びに行った彼女はやさしい人なのかもしれない、とテーブルの上に無造作に置かれていた固いパンを齧りながらぼんやりと思う。窓の外ではどうやら雨が降り出したらしく、彼女の立てるシャワーの水音に混じってガラスを叩く雨音が聞こえた。
「あなたも来れば? シャワー浴びるでしょ?」
「ありがとう、でも俺は後でいいから」
「えー、つまんなーい!」
 と、しかし楽しげな彼女の声が、小さな部屋に響く。
 喉を潤すつめたい水。腹を満たすパン。雨を凌ぐことのできる部屋。温かいシャワー。少なくとも、今夜の俺には充分なやさしさだと思う。そして、彼女が俺をここに連れて来たのは、つまりはそういうことなんだろう、と。
 結局、シャワーには彼女と入れ替わりで入った。狭いシャワールームには女のあの甘ったるい香りが充満していて、少し落ち着かないような気がしたが、文句を言えるような立場ではない。熱い湯を頭から浴びながら、俺は自分の身体のコンディションを確認した。長時間歩いたにしては体力を消耗していない。空腹でもない。強い眠気を感じていないし、痛む箇所もない。オール・グリーンだ。
 まだ試してみたことはないけれど、彼女が望んている“そういうこと”を、俺はきっとできると思う。上手い下手にしても、要は身体の使い方の問題なのだと想像できる。運動神経は良い方だから、そう悪い結果にはならないだろうと思う。
 だから、少し迷った後で、腰にバスタオルを巻いただけの姿でシャワールームを出た。ベッドに腰掛け、アルコールを飲みながら俺を待っていたらしい彼女は驚いた様子もなく、俺の身体を検分するような眼差しを向けた。その鳶色の瞳がうなじのタトゥーを目ざとく見つける前に、俺は彼女の唇──もう赤い口紅を引いていない。それでも、ほんのりと色づいている唇──にキスを落としながら、ふたりの身体をゆっくりとベッドへと沈めた。
「そういうつもりだったんだろ?」
「どうかな」
「ダメだった?」
「ダメじゃないわ」
 そう言いながらも、彼女は躊躇っているようだった。「でもあなた、まだ子供じゃないの?」と訊ねる彼女の声は、本当に俺を心配しているようにも聞こえた。
「……子供じゃないよ」
 と、だから俺は答えた。
「アジア系だから年齢よりも幼く見えるかもしれないけど」
 心外だな、というように口の端を軽く持ち上げてみせる。
「俺は、子供じゃない」
「そう、それならいいの」
 彼女は言った。
「OK、それならいいのよ。愉しみましょう?」
 そして彼女の深い口づけを受け止めながら、形勢逆転と言わんばかりに俺を組み敷こうとする彼女の、されるがままになった。
 
 それは、思っていたよりもあっけなかった。
 俺の身体を“愉しんでいる”女を見上げながら、「こんなものか」と思わずにはいられなかった。そのくせ、俺の身体は女の身体に強く反応を示していた。時には意図せず身体が跳ね、思わずうめき声が漏れた。
 女の下に、上に、と激しく縺れ合いながら、身体の感覚と思考もまたぐちゃぐちゃに絡まっていくような気がした。
「気持ちいい?」
 と尋ねられ、
「ああ、」
 と、俺は荒い息で答えた。
 しかし俺は、よく分からなかった。これは果たして気持ち良いのだろうか。俺は愉しんでいるのだろうか。分からなかった。女の嬌声が、よくしなる身体が、信じられないくらい近くにあるのに、どうしようもなく遠かった。
 女が動く度、粗末なベッドがギッ、ギッ、と嫌な音を立てた。いつの間に降り止んだのか、雨音はもう聞こえなかった。
 すべてが終わった後で、彼女は言った。
「あなた、体温が高いのね」
「そうか?」
「あったかくて、安心する」
「ああ」
 と答えながら、俺は自分が少しも安心なんてしていないことをひどい裏切りのように思った。そんなことは露とも知らず、彼女は俺に尋ねた。
「名前はなんていうの?」
「名前?」
「そう、あなたの名前」
「……ユーゴ」
「ユーゴ。綺麗な名前ね」
 ありがとう、と言ったけれど、彼女には聞こえていなかったかもしれない。身元の不確かな男の隣で、彼女はすうすうと安らかな寝息をたてて眠っているのだった。
 疲れているはずなのに、俺はどうしても眠ることができなかった。こんな風に誰かのいる部屋で夜を過ごすのは随分と久しぶりだと思った。こんな夜は孤児院にいた頃以来だろうかと考えてみたが、その頃だって異性とは別の部屋で眠っていたことをやがて思い出した。そして俺は隣で眠る女のぬくもりを感じながら、しかしそれを不快だと思っている自分を発見し、何もかもがどうでもいいような気持ちになった。
 俺はひとり醒めたまま、カーテンとは名ばかりの薄布の向こうで空がゆっくりと白んでゆくのを見ていた。昨日の続きのような今日が始まってゆくその様を見つめながら、「こんなものか」と馬鹿みたいにくり返しくり返し思っていた。
 女が眠っている間に、俺はその部屋を出た。衣服を身にまとい、顔を洗い、靴を履き終えた頃には、そろそろかかってくるであろう仕事の電話のことばかりを考えていた。なるべく音を立てないようにドアを閉めながら、もう二度と会わないであろう女のくれたやさしさを、俺はきっと忘れてしまうと思った。