チアキ×相談員 ED3
一緒に暮らし始めた日に、チアキくんは一枚のコインをくれた。お守り、と言って渡された金色のそれは、私の手のひらの上で鈍く光った。そして、「この部屋を出て行きたくなったら」と彼は言った。
「この部屋を出て行きたくなったら、このコインを持って行くといい。売れば生活には困らないと思うから」
もちろん、私は、
「出て行きたくなんてならないよ」
と言ったのだけれど、彼は至極真面目な様子でとにかく持っていてほしいと繰り返すばかりだった。「売る場所だって分からないよ」と言えば、売ることのできる店のあるらしいストリートについて説明しようとするので、私は諦めて受け取ることにした。
「チアキくんを置いて行くわけないでしょう?」
「……君にずっとそう思ってもらえるように、努力する」
そう言ってコインを握る私の手を自分の大きな手のひらで包み、くしゃりと笑った彼が何故かひどく痛ましかった。
玄関先で別れる時、私たちは努めて何でもないようなふりをする。
「いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」
と、唇に落とされるキスは優しい。
チアキくんは何でもないふりが下手だと思う。もっとも、この部屋の外での彼を知らないからそう思うだけなのかもしれない。私を見つめる瞳の、朝露に濡れた黒曜石の輝きの中に揺れるものは、単に、私自身の感情が映し出されているに過ぎないのかもしれなかった。
ドアを閉めた後に、チアキくんが外側から鍵を掛ける音がいつも耳の奥に残ってしまう。と言っても、私はここに閉じ込められているわけではない。ドアは内側からも開けることができる。ちゃんと。だから彼が言うように、私は好きな時にここを出て行くことができた。
私が黙って出て行くなんてことをすると、彼は本気で思っているのだろうかとたまに考える。問い質せば、「可能性は、ゼロじゃないだろ」と彼は答えるのかもしれない。だけど、私が知りたいのは可能性の話じゃなくて、チアキくんの気持ちなのだった。
いっそ閉じ込めてくれればいいのに、と私は思う。どこにも行けないようにして、すっかり安心してくれればいいのに。それともチアキくんは、私の意思でここにいるんだということに、今日もどこにも行かなったということに、安心してくれているの? と。
チアキくんの帰りを待つ間、たまに私は彼のくれた「お守り」を取り出してコイントスをする。表が出れば、チアキくんは帰ってくる。裏が出れば、チアキくんは帰ってこない。本当は、どちらがこのコインの表かなんて知らない。でも、頭上にリーフを載せた女性が刻まれている面を私は勝手に表だと決めていた。
コインを投げる。表。コインを投げる。裏。表。表。裏。表。裏。たぶん、表と裏の出る確率は二分の一ではない。刻まれた模様の違いが生む僅かな重さの差異が、その確率にどれくらいの影響を与えるのかはあまり考えないようにした。時には投げたコインを上手くキャッチできずに、床に落してしまうこともあった。そうやってできた傷がフローリングの床にいくつか残っている。売れば当分の生活に困らないほど高価らしいそのアンティークコインは、私の足元に、ただの二〇セント玉のように転がる。私はそれをただのコインとして拾う。
この部屋を出て行きたくなったことは、まだない。でも、あなたを行かせたくないと思ったことならいくらでもある。私はコインを投げる。裏。裏。表。裏。表。回数は数えない。気が済むまで何度でも投げて、最後に表が出たところで止める。
私はあなたを何日だって待っていられると思う。いつまでだってここにいて、コインを投げ続けられると思う。
それでもいつか、賭けに負けてしまう朝が来るのだろうか。私か、あるいはあなたが、ひとりきりで取り残される朝が。
あなたをひとりにするくらいなら、私が負けてあげてもいいと思う。
泣くのは、あなたじゃなくて私がいい。
だけどそれが、できれば今日でありませんように。……神様。と、もうすぐ訪れるであろう夜明けと、聞こえてくるはずの彼の靴音を私は待った。
*
オートロックとは別に取り付けてある玄関の鍵を閉める瞬間、仄暗い歓びを覚える。彼女が、俺の手の中にいる。俺のことだけを待っていてくれる。そんなことを思う。
日々の生活の中でも、部屋の外に出る時は特に注意を払う。彼女が部屋にひとりきりでいることを知られないために、俺が外側から鍵を掛けるのもそのひとつだった。セキュリティを強化することは、当然重要だ。だけれども、セキュリティを厳重にすればするほど、「ここに大切なものがある」と周囲に知らせることにもなる。
「ここには諜報員が暮らしている。いつでも切って捨てられるような、末端の諜報員だ。住居に必要最低限のセキュリティはある。だが、部屋に情報を持ち帰るようなことはしない。狙う価値はない。」 そういった判断に誘導するような情報を、外部の者が敢えて得られるようにする必要があった。
俺は、普通の生活というものを知らない。だけど、俺と彼女の生活が普通でないことくらいは分かる。彼女と過ごすこの部屋を、豪奢な鳥籠にはしたくなかった。俺の手を取ったことを、後悔してほしくなかった。彼女の望むものなら、何だって手に入れてやりたい。少しでも安全で穏やかな暮らしをさせてやりたいし、幸せにしたいと思う。……だけどこの暮らしのどこが、「鳥籠」と違うというのだろう? これが俺が保護されていた島の収容室と違うと本当に言えるのか?
そんな迷いを仕事に持ち込めば、すぐにミスに繋がる。実際に、普段よりも歩調が速くなっていることを俺は自覚する。そんな時に頭に思い浮かぶのは、彼女と暮らし始めた日に渡した「お守り」のことだった。
それは、慎重に見繕ったアンティークコインで、売れば彼女が当面の暮らしに困ることはないという代物だった。アンティークコインはどの国においても換金性が高く、持ち運びもしやすい。それに、ダイヤモンドの指環なんかとは違って目立つこともない。本物と偽物とを見分けるのが難しいことが唯一の欠点とも言えるけれど、信頼のおける伝手を頼ったからそれも大丈夫だろうと思う。
「売る場所だって分からないよ」
と、彼女は言っていたけれど、その心配もない。もしもの時には開けてほしいと彼女に伝えてある俺のデスクの引き出しの中には、売るべき店とその場所、彼女に渡したものと同じくらいの価値のあるコインがあと何枚か入っていた。指定した店に彼女が行けば然るべき値段で買い取ってもらえることになっているし、同時に俺の所属する組織に連絡が行き、保護プログラムによって彼女を守ってもらえる手筈を整えてある。この部屋を出ていく場合、多少は準備をする必要があるだろうから、彼女が引き出しを開ける可能性は高い。仮に衝動的に部屋を出て、粗悪な店でコインを安く買い叩かれたとしても、彼女が飛行機に乗って日本に帰ることができるくらいの金にはなるはずだった。
正しいことだけを思うことができるなら、彼女を傷つけずにすんだのかもしれないと思う。だけど、今更彼女を手放すことのできない俺は、ずるい男だ。
「この部屋を出て行きたくなったら、このコインを持っていくといい」
──なんて、俺自身のための言い訳に過ぎないのに。
明け方、想定よりも長引いた仕事を終えて帰宅した俺は、そっとドアを開け、なるべく足音も立てないようにしてリビングへと続く短い廊下を歩いた。そしてダイニングテーブルに突っ伏すようにして眠る彼女を見つけ、やっぱり、と思う。彼女はいつもこうだ。俺が帰ってくるのを起きて待っていてくれようとする。
「ただいま」
と、俺は彼女に囁く。何よりも先に彼女の身体を心配するべきだと思うのに、歓びがその声に滲んでしまっている。彼女が不明瞭な発音で、俺の名前を呼ぶ。まだ夢現のようだ。それ自体はよくあることだけど、彼女の傍らにコインが朝の光を弾いているのを見つけ、俺は心臓が止まりそうになった。
「このコイン、どうして……」
と、思わず大きな声を出してしまう。「この部屋を出て行きたくなったら、」という自分の言葉が、頭の中でぐわんとこだまする。
俺の声に少し目が覚めたのか、焦点の合わない瞳を俺に向けて、彼女が言う。
「コインを投げて、表が出たら……、チアキくんが、帰ってくる、から」
「……は? コインを、投げる?」
「表が出たら、ちゃんとチアキくんが帰ってきて、……ただいまって言ってくれるから」
最後に彼女は、「だから、何度でも投げるよ」と言って再びまぶたを閉じた。その寝息はとても静かで穏やかだった。
「君には敵わないな」
俺は彼女のやわらかな髪の毛を、さらりと指で掬う。
まさかあのコインを投げるだなんて、相変わらず彼女は大胆なところがあると思う。値段なら伝えてあったはずだけど、と考えながら、俺は可笑しいような、泣きたいような、自分でもよく分からない感情を抱いた。
俺は彼女をゆっくりと抱きかかえ、ベッドへと運ぶ。そしてその彼女の隣へと俺も横たわった。仕事用のシャツとスラックスとを身にまとったままの身体は窮屈なはずなのに、疲れと、充足感とで不思議とリラックスしていた。
あかるい朝の日差しが、腕の中の彼女の頬の産毛までもをくっきりと照らし出している。俺たちは、もっと自分の気持ちを言葉にしないといけないのだろう。どんなに言葉を尽くしたところで足りないのだとしても、それでも。
目が覚めたら、君に尋ねてみたいことがたくさんあるんだ。君に言いたいこともある。同じくらい、君も何でも訊いてくれてかまわないから。たくさん話そう。「愛してる」だけじゃなくて、他愛のない、だけど大切な話を、たくさん話そう。そんなことを思いながら、俺はすっかりと重くなった両のまぶたを閉じた。