息もできないくらいに

創真×女コーチ

 
 いま思えば、「コーチ」と呼び止める声に振り返ってしまったのは、その声がどうしようもなく懐かしかったからなのだろう。
「コーチ、久しぶり」
 そこには、八神創真が立っていた。
 まるできのう教室で別れたばかりのような気安さで、「元気?」とかつてのクラスメイトは手を振る。もうコーチじゃないんだけどな、なんて彼に言うことはとてもできなくて、「うん、元気だよ」とわたしは答えた。
「そう、よかった」
 八神くんは安心したように笑う。目元だけでそんなにも笑ってみせることができるんだ、と思わず見とれてしまうほど眩しい笑顔。それを見て、相変わらずだなと思う。
「八神くんも元気だった?」
「お陰さまでね」
 そう、と今度はわたしがうなずく番だった。すぐに会話が詰まってしまったのは当然のことではあった。ダンキラと紅鶴学園の話題を避けようとすると、わたしたちの間にはほとんど話すべき事柄が残されていないのだから。
 実家に帰る途中らしい八神くんは、遠征に使うようなすこし大きめのバッグを肩にかけていた。紅鶴学園のゴールド生であることがひと目で分かる制服。よく磨かれた革靴。果物と恐らくは彼自身の体臭とが混じり合った甘い匂い。ほんの少し前までは毎日眺めていたはずの、その横顔。
「コーチもいま帰るところ?」
「うん、郵便局に行った帰り」
「じゃあ、そこまで送るよ」
 なんでもないことのように、彼は言う。わたしの家と駅は反対方向なのは分かっているはずなのに。
「ありがとう」
 と言いながら、わたしは八神くんが乗りそこねてしまった電車のことばかりを考えていた。
 そのまま八神くんとわたしは、一定の距離を保ったまま歩き始めた。その距離は、彼の優しさでもあり、ふたりの心の距離そのもののようにも思えた。八神くんは、寡黙な男では決してない。それでも、考えなしに無神経なことを言う人でもないこともまた、よく知っていた。
 あと少し、あの角まで、あのカーブミラーのところまで、と別れを先延ばしにしながら歩いた。うつむぎがちの視線がアスファルトのひび割れを追う。八神くんは、何も言わない。もしかするとわたしが何も言わなければ、このままずっと一緒に歩いてくれるつもりなのかもしれなかった。
 八神くん、とだからわたしは言った。
「もうこのへんでいいよ、送ってくれてありがとう」
 わずかに見上げるような角度で、彼の顔を見つめる。その眼差しを受け止めるように一、二回ゆっくりとまばたきをしたあとで、「そろそろ暗くなるから、家まで送るよ」と八神くんは言ったけれど、わたしはそれを丁重に断った。そんなことをされたらきっと──、とマスクの下に隠された口元が歪む。そんなことをされたら、わたしは玄関をくぐる度に彼のことを思い出してしまうだろう。できればそんな事態は避けたかった。
 もしかすると、強情だと思われたのかもしれない。少し困ったように眉を下げて笑いながら、「分かったよ」と彼は言った。
「そうだ、コーチ。君に見てほしいものがあるんだ」
 と、八神くんはジャケットの右ポケットからスマホを取り出した。
「動画?」
「そう、なんの動画かは見てからのお楽しみだよ」
 ぱちん、と彼の指先が小さく鳴る。往来だからだろうか、いつもよりもやや控えめなその音に、わたしはその日はじめて笑った。ふ、と漏れた息が不織布を熱く湿らす。
「わかった、帰ったら見てみる」
 そう答えると、八神くんは「じゃあ」と再会したそのときと同じように手をひらりと振って背を向けた。オレンジ色の光に向かって歩き始めたその姿を三秒間だけ見つめることを自分に許す。今にも彼が振り返るんじゃないかとどこかで期待をしてしまいながらも、そうならないことはよく分かっていた。
 紅鶴学園を辞めてからもうすぐ半年が経つ。それは、この気持ちに整理をつけるには十分な時間だった。わたしはもう、変なタイミングで涙を流したり、衝動的な怒りに支配されたり、あるいは無気力に苛まれることはない。感情を揺らすこと自体を諦めてしまったように凪いだ心は、平板な日常によく馴染んだ。
 こうして外の空気を吸うことすらも、ずいぶんと久しぶりのことだった。少し苦しくなってきた胸を労るために歩調をゆるめる。大きく息を吸う、吐く、吸う。滑稽なほど両肩が上下し、心拍数は徐々に落ち着きを取り戻していった。
 そもそもわたしがコーチ科に進むことになったのも、この持病のせいだった。普段の生活にそう支障があるわけではない。運動だって全くできないわけではないし、勉強だって、部活だって、なんだって他の人と同じようにできる。もちろん、踊ることだって。
 ただ、ダンサーに必要とされる練習量をこなせるほど、わたしの体は丈夫ではなかった。
 この日本で育ったなら、ダンキラに憧れを抱かない子どもなんていない。自分もいつか、あんな風に踊れるようになるはず。みんなそう信じて、成長する。だけど、わたしはそうじゃなかった。ダンキラには、ありとあらゆるダンスの要素が組み込まれている。それらを踊りこなすには、通常のダンス競技よりもハードな練習が必要とされるのだ。ダンキラ以外のダンスなら、と主治医は言った。「ダンキラ以外のダンスならいいでしょう。体力もつきますし、子どもには好きなことをやらせるのが一番いい。あくまでも、趣味の範囲でですが」。
 そう告げられたとき、言葉では言い表せないほど悔しかった。どうしてわたしだけが、と思った。生まれつき努力する権利すらも取り上げられているだなんて、ひどいと思った。悔しくて、恨めしくて、……だけど、すぐにコーチになればいいんだと思い直した。
 “コーチになって、チームと一緒に理想のダンキラをつくりあげる。”それが、わたしの新しい夢。
 だけど、それもすぐにだめになった。
 世界中で疫病が蔓延し、わたしは外出すらままならなくなった。いつまで経っても収束の見通しは立たず、専門家ですらどう対処すればいいのか分からないようだった。そして、心配性の両親がわたしに転校を勧めるまでにそう時間はかからなかった。二度目の挫折を前に、わたしはもう悔しいとは思わなかった。ダンキラの神様に選ばれなかった。そんな言葉が頭に浮かんだ。
 ぼんやりと歩いているうちに、あっという間に家へとたどり着いた。八神くんと一緒だった間は、あんなにも長く感じたのに。玄関の扉を開けると「おかえり」と母の声がする。それに「ただいま」とだけ返して、洗面所で手洗いうがいを済ませると、わたしはすぐに階段を上って自室に逃げ込んだ。
 ばたん、と部屋のドアを閉めると思わずため息が出た。ちょっと歩いただけなのに、前よりも疲れている気がする。部屋で過ごす時間が増えた分、体力が落ちているのかもしれない。
 壁に貼ってあったダンサーのポスターも、応援していたチームのステッカーも、本棚に並べていたダンキラの専門書も、少し前に箱に詰めてクローゼットにしまってしまった。そのせいで殺風景になった部屋で、わたしは膝を抱える。紅鶴に通っていた頃はいつもレッスンで忙しくて、自室で過ごす時間は短かった。そのせいか、未だにこの部屋で一体何をすればいいのかよく分からないのだ。
 わたしは八神くんが教えてくれた動画を見ることにした。もしかするとダンキラの試合動画かもしれない、と一瞬だけ思ったが、それならそれでいいとも思った。わたしはダンキラから離れたが、ダンキラがこの世界から消えたわけではない。その事実にいずれ慣れなければいけない。八神くんが引導を渡してくれるというのなら、わたしはそれを受け入れたい。
 そんな大仰な決意に反して、スマホの画面に映し出されたのはピアノの前に座る八神くんだった。彼は今日みたいにマスクをつけた制服姿で、一瞬だけこちらに視線を向けて微笑んでみせる。カメラを構えている誰かに合図をしたのかもしれない。白い鍵盤の上に載せられた長い指。やがてそれがなめらかに動き、メロディを奏ではじめた。
「あっ、」
 わたしは思わず息を呑んだ。
 地を這うような低い音から、一気に駆け上がってきらめく音たち。華やかで、きれいで、だけど力強くて。クラシックのことなんて、なにも知らない。この曲の作者も、背景も、どうして八神くんがこの曲を選んだのかも分からない。それでも、英雄ポロネーズと題されたこの曲をわたしはとても美しいと思った。
「みんなに少しでも元気になってほしい。そんな思いを込めて演奏しました」
 演奏が終わった後、八神くんは言った。
 それは八神くんらしい言葉だった。まるでダンキラを終えた直後みたいに、彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 気がつくと、わたしは涙を流していた。なんの涙かは分からなかった。わたしの意思も、感情も、なにもかも置き去りにしたまま、それはだらだらと流れ続けた。スマホの画面がみるみる間に見えなくなっていき、それでもわたしは十分ほどの動画を何度も再生させた。八神くんは何度でもピアノを弾いてくれた。やがて嗚咽を漏らしはじめたわたしは、すぐに呼吸が苦しくなった。ピアノの音に混じる、肺と気管支があげる悲鳴。それらを聞きながら、わたしは認めざるを得なかった。
 わたしは八神創真が、ダンキラが、息もできないくらいに好きだった、と。