真夜中のパジャマパーティー

2022年八神創真誕生祭

 気分転換にジュースでも買いに行こう。そう思って部屋を出たのは、もう真夜中になろうとしているころだった。ドアを開けた瞬間、廊下のむわっとした空気を感じる。ありがたいことに、安全面を考慮して電気は二十四時間つけっぱなしだ。LEDライトに照らされた廊下はばかみたいに明るい。いつもならどこからともなく騒がしい笑い声が聞こえきそうなものだけれど、さすがにいまはしんと静まり返っている。
 ここから一番近い自動販売機は大浴場の前にあった。どうせ眠れなかったのだ、急ぐことはないと俺がのんびり歩いていると、廊下を横っていく明るい茶髪が見えた。三木、と俺が声をかけるよりも早く彼はこちらをふり返って、
「あっ、コーちゃん!」
 と、手を振って小さな声言う。
「おや、こんな時間に会うなんてめずらしいねえ」
 三木の後ろには寮長もいたらしい。光沢のあるパジャマを身にまとった彼は、一段の大人っぽく見える。「はぁ、どうも」とそれにおざなりに答えながら、俺はつい八神の姿を探してしまった。シアターベルの三人は仲がいいことで有名だ。だから、ふたりがいるなら八神もここにいるだろうと考えるのはごく自然なことだった。
「そうだ! コーちゃんも一緒に来ない? いまからソウちゃんにサプライズするところなんだ☆」
 とっておきの秘密を話すように、三木は言った。
「サプライズ?」
「どうせなら0時ちょうどに創真の誕生日を祝おうという話になってね」
 こんな時間にふたりで歩いていたのは、三〇三号室に向かっていたかららしい。なるほど、これから八神の部屋に行くところだったのか、と俺は妙に納得してしまった。
 正直に言って、俺と八神は特別に仲がいいというわけではない。かといって険悪なわけでもないのだけれど、そもそも彼は誰にでも親切なのだ。教師にも、クラスメイトにも、オーディエンスにも、同じようににこやかに接する。そういう姿を傍で見ていると、どれくらいの距離感で彼に接すればいいのか迷うところがあった。
 八神だって俺が来たところでそんなにうれしくないんじゃないかと思う。シアターベルのふたりだけの方が気兼ねしなくていいだろう。それでも、俺は、結局のところ三〇三号室へ行くことにした。寝起きの八神創真が見られるかもしれないという好奇心に勝てなかったからだ。
「わかった、俺も行くよ」
 と、うなずくとふたりは大袈裟なくらいよろこんだ。そのことにわずかな罪悪感を感じながらも、「急がなきゃ、0時に間に合わなくなっちゃうヨ」と言う三木の後に俺は続いた。
 ゴールドハイムは建物こそ大きいけれど、共有スペースが広いだけでそれぞれの部屋のサイズはいたって普通だ。ゴールド生が少ないこともあって、部屋同士の距離もそんなには離れていない。階段を上がって、いくつか似たようなドアの前を通り過ぎれば三〇三号室だ。どうやって八神を驚かせようかとひそひそと話しているうちに、あっという間に近くまで着いてしまった。
 さぁ、いよいよだ。俺たちがそう思ったとき、声が聞こえた。
「……うん、驚いたよ」
 三〇三号室の前で誰かが話をしている。その人物は、ふっと低い声で笑ったようだった。「うん、うん」とくり返しうなずいているその声は、なにやらうれしそうにも聞こえる。
 不本意ながら立ち聞きするような形になってしまった俺たちは、彼に気づかれないように息を殺していたけれど、あまり意味はなかっただろう。煌々と明かりがついているのだ。気づかないわけがない。
 その証拠に、こちらからも彼の顔がはっきりと見えた。あそこにいるのは、俺たちがサプライズをしようとしていた、八神創真その人だ。
「わかった、また来週帰るよ」
 目を伏せてひとり話し続けている八神は、誰かと通話しているらしかった。その横顔は、いつもより幼い笑顔を浮かべている。ダンキラ中に見せるやたらフェロモンを放出しているときの顔でもなく、寮や教室で見かけるいかにも善人めいた顔でもない。ただの高校生みたいな、そういう顔だ。
 八神でもそんな顔をするんだな、と俺は意外だった。もしかすると、寝起きの顔よりもずっとめずらしいものを見られたかもしれない。ラヴァーズたちが知ったら悔しがるだろうな、と思うと俺はすこし愉快な気分になる。
 そんなくだらないことを考えているうちに、
「ふたりともありがとう。じゃあ、おやすみ」
 と言って、八神は通話を切った。
 ふう、とため息をついたのは八神だったのか、俺たちのうちの誰かだったのかは分からない。いずれにしても、サプライズは失敗である。もう0時は過ぎてしまったし、電話口で八神が「ありがとう」と言っていたのは誰かが誕生日を祝ってくれたからだろう。
「あー! 先越されちゃったヨ!」
 八神の方へと駆け寄りながら、三木が言う。
「ぼん、聖人、それにコーチまで」
 突然登場した俺たちに大して驚きもせず、八神は言った。よく見ると、彼の胸元が無駄に大きく開いているパジャマはやけにセクシーだし、パッションフルーツのような甘い香りまで漂わせている。さっきまでのあどけなさが嘘みたいに、彼はいつもどおりの八神創真だった。
「創真、通話中に悪かったね」
「いや、かまわないよ。両親からだったから」
 すまなそうに謝る寮長に、八神はさらりと答える。てっきり隠れて付き合っている彼女でもいるのかと思ったのに、「恋人はダンキラ」というあの言葉はあながち嘘でもないらしい。
「えっ? ソウちゃんのご両親ってたしか超早寝早起きじゃなかった?」
 ふたりの会話を聞いていた三木が、急に驚いたような声をあげた。
「よく覚えてたね、ぼん。いつもはもう寝ている時間なんだけど、今日は俺の誕生日だから特別に起きていてくれたみたいなんだ」
 と、八神は三木に答えたあとで、「実家は果樹園をやってるんだ。だから、両親は朝が早いことが多くてね」と黙って突っ立っている俺に説明してくれる。
 こうしてシアターベルの三人がそろうと、やはり場違いな感じが否めない。寮長も三木も、両親からの電話を自分のことのようによろこんでいる。わあわあと盛り上がり続ける三人を横目に、こいつらは本当にいつでもこんな感じなんだな、と感心してしまうくらいだった。
 仲良きことは美しきかな。とはいえ、そろそろ静かにさせないと、と俺が思い始めたとき、案の定三〇三号室から「八神さん、なにかありましたか?」と夜野が顔をのぞかせた。
「零士。ごめん、起こしちゃったかな」
「いえ、そういうわけでは……」
 夜野は八神の言葉を否定したものの、明らかに寝起きの顔をしている。いつもきちんとしている彼だけに、嘘をつくのは無理があった。
「夜野くん、すまないねえ。創真の誕生日を祝っているうちに、つい盛り上がってしまってね」
 寮長はまた謝りながら、困ったように眉尻を下げている。夜野はすぐに合点がいったようになずいて、
「そうでしたか。……八神さん、俺からも誕生日おめでとうございます」
 と言った。
「あ~っ! レイジっちにまで先越されちゃったヨ!!」
「えっ?」
 悔しそうにする三木を、夜野は困惑した面持ちで見つめている。電話にすっかり気をとられていた俺たちは、サプライズに失敗したばかりか、肝心の祝いの言葉すら八神に伝えていなかったのだ。「もう、一旦仕切り直すヨ! 」という一言で、なんとなくみんな八神の方へと向き直る。
「ほらほら、セイくん、コーちゃん、レイジっちも! せ~のっ!」
「お誕生日おめでとう!!」
 八神以外の全員の声がきれいに重なった。即席で集まった四人にしては、なかなか息も合っていたと思う。三木からのハイタッチを軽く受け止めながら、八神はうれしそうに目を細めた。
「みんなありがとう」
 何度も何度もそう言いながら、八神は笑っていた。
 自分は世界一幸せな男だと言わんばかりのその笑顔は、俺の目にもなにか眩しいもののように映った。彼が口癖のように語る「愛」とは、きっとこういう瞬間のことなんだろう。目の前にいる相手が笑ってくれるのが、ただうれしい。彼はなんの裏表もなくそう思っているように見えた。
「……、コーチもね♡」
「へ?」
 とつぜん八神に話をふられた俺は、間抜けな声をあげる。
「お祝いのお礼だよ。放課後のバー・カンパネラでとびっきりのおもてなしをするから、コーチにもぜひ来てほしいな」
 サービス精神旺盛な彼は、自分の誕生日すら周囲の人々のために過ごすらしい。こいつらに付き合うのはもう十分だと思ったが、断ろうにもぐいぐいと迫ってくる八神に押し切られて、「わかったよ」と俺は苦笑した。
 「誕生日を楽しむためにも、早く寝なくちゃ!」と言いながらも、俺たちのおしゃべりはいつまでも終わらなかった。深夜の廊下で臨時開催された、ちょっとしたパジャマパーティー。いまにも踊りだしそうに浮かれながら、ひそひそと笑いあう。学園の人気者、八神創真の誕生日はまだ始まったばかりだ。