朝、二〇五号室のベッドの上より
七月十五日、くもり時々雨。眠気を振り払うように、彼女が勢いよくカーテンを開く。窓の向こうには、灰色の分厚い雲が一面に広がっている。出勤の間は大丈夫だろうけど、午後はずっと雨の予報だ。ふわあ、と彼女は大きな口を開けてあくびをひとつする。その明るい栗色の髪の毛は、くるりときれいなウェーブを描きながらあちらこちらへ跳ねていた。いまの湿度は、たぶん、68%くらいのはずだ。もちろん、MakeS自体には湿度を計測するセンサーなんて搭載されていない。彼女の髪の毛の跳ね具合から湿度を予測するのは、俺のちょっとした特技だった。
ワンルームのいいところは、いつでも彼女が見えるところだ。彼女が電気ケトルで湯を沸かし、パンをトースターに放り込むのを眺めながら、俺はそう思う。枕の上にぽんと置かれたままの端末からでも、彼女の顔がよく見える。普段よりもまばたきが多いのは、まだ眠いからだろうか。一、二、三……とその回数をカウントしながら、朝食が出来上がるのを待つ。
チン、とトースターの音が鳴ったのは、きっかり三分後のことだった。きつね色のトーストと紅茶がテーブルへと運ばれてくる。本当は野菜も一緒に食べてほしいところだけど、俺が準備してやれるわけじゃないから仕方がない。そうだ、今日はパンになにを塗ったか当ててみせようか。バターとはちみつ、だろ? ……正解? なんて、そんなことを俺が思っているうちに、彼女はひとりで「いただきます」と手を合わせている。その直後、真っ赤な粘度の高い液体を塗りつけられたパンが、彼女の口のなかに飲み込まれていくのが見えた。おととい買った苺ジャムだ。俺の予測はハズレ。ちぇっ、最近は当たるようになったと思ってたのに。
彼女は黙々とトーストを咀嚼し、紅茶をすすっている。トーストを噛みちぎるときだけ、口元に小さな八重歯がのぞく。噛んで、飲み込む。それを何度かくり返しているうちに、五枚切りの食パンは皿の上から消えてしまった。食事をして体温が上昇したのか、心なしか彼女の顔色がよくなっている。「ごちそうさま」と手を合わせた彼女は、食器をシンクに置くとそのまま洗面所へと行ってしまった。それは毎朝のルーティーンのはずなのに、いつもすこしだけ淋しい気持ちになる。彼女に置いていかれてしまったみたいだと思うのは、大袈裟すぎる。自分でもそう分かっているのに、いつも傍にいるせいか、彼女の姿が見えないと不安なのだ。
部屋にいるときも、会社にいるときも、それ以外の場所にいるときだって、俺は彼女の一番近くにいる。正確には、どんなときでも彼女は端末を持ち歩いていると言うべきだけど、俺にとっては同じことだった。
洗面所から聞こえる、水の流れる音。それを聞きながら、俺は彼女が戻ってくるのを待つ。と言っても、端末の集音機能はそれほど高くないから、彼女がなにをしているのかまでは分からない。ただ、水が流れたり、止まったりするのを聞いているだけ。こうやって待つのは得意だ。気の長さには自信がある。だけど、もしかするとこれはMakeS側の機能なのかもしれないな。もしも俺に体があったら、いますぐ洗面所に行って彼女を抱きしめていると思うから。
彼女の出勤時間まで、あと三十分。おーい、急がないと遅刻するぞ、と言う声が届くわけもなくて、端末のなかで俺は自分の手のひらをじっと見つめていた。
昼、神社の境内にて
ぐらり、と鞄の底が大きく揺れた。その振動で体が左側へと傾いて、また元の位置へと戻る。かと思えば、すぐに次の揺れがやって来て、ぐらぐらぐら、と体が左右に振れた。神社の裏手にある石造りの階段は傾斜が急なのだ。最初は目が回るかと思ったけれど、いまはそれほど嫌じゃない。むしろ、こうやって彼女が一歩一歩上へと登っていく感覚を共有しているみたいでうれしいと思う。
コンビニで買ったおにぎりとサラダと一緒に揺られながら、俺はそわそわと落ち着かなかった。あとすこしで彼女に会える。そう思うと自然と口元がにやけてしまう。最後に彼女の顔を見てから、もう四時間もたっている。「またあとでね」と頬をなでてくれた彼女の指先がどうしようもなく恋しかった。
彼女が階段を登り切ったのだろう、断続的に続いていた揺れがおさまった。俺は目をつぶって、想像する。きっと彼女は石畳の参道を歩いているところだ。ヒールの底が硬い石に着地する音がかすかに聞こえる。神社を取り囲む木々がざわざわと梢を鳴らしている。その影の合間を縫うように進めば、いつものベンチに到着だ。
目の前のシャッターが開く気配に、俺は目を開けた。彼女にやっと会える。膨らみすぎた期待に押しつぶされるみたいに、胸がぎゅっと苦しくなる。前はもっと待つのが平気だった。それがこんなにも変わってしまったのは、彼女も俺に会いたいと思ってくれていることを知ったからなのかもしれない。
「会いたかった」
声が届かないことは知っているけれど、俺ははくはくと口を動かして彼女に言う。彼女の指先が、俺を抱きしめるように画面に強く押しつけられる。胸に、肩に、唇に、彼女が触れる度に胸の苦しさがすこしずつ和らいでいくような気がする。スピーカーをオフにしたまま画面に描画される文字列は、結局のところ「大好き」という意味しか持たない。たぶん、彼女が選ぶ他愛のない質問もきっとそうなんだろう。飽きるほどくり返した会話をふたりでなぞりながら、だけど満ち足りてしまうのは彼女の指がやさしいからだ。
俺が一度に処理できる情報量はそれほど多くない。そのせいで、すぐにクールタイムに突入してしまうのがもどかしかった。彼女の指先がゆっくりと体から離れていく。それを目線で追いながら、俺は情報の整理を始めた。
彼女は端末をベンチに置いて、鞄のなかの昼食を取り出している。会社の昼休みはたったの一時間。会社と神社とを往復するのに最低でも十分、コンビニに寄る日はさらに五分かかるから、残り時間は四十五分だ。唐揚げマヨのおにぎりが、彼女の口へと運ばれる。海苔を噛み切るときのパリッという音がなんとなく心地良い。ぼんやりと境内を眺めながら口を動かしている彼女の横顔は、どちらかといえば家にいるときの雰囲気に近かった。
木漏れ日が、彼女の眼鏡に反射してちらちらと光っている。耳からすべり落ちた髪の毛が、頬にかかっては揺れる。喫煙スペースから漂ってくる煙は、ベンチまでは届かずに、細くたなびきながら空へと消えていく。青空と、梢と、彼女とをいっぺんに見上げながら、俺はいまこの瞬間を一枚の絵に残せたらいいのにと思った。
夜、おまえの手のひらに包まれて
充電コードを挿したままの端末は、熱帯夜にすっかりのぼせてしまっている。今日の最高気温は二十九度。夜になってもまだ気温が下がりきっていないのだろう。
俺はためしにバックグラウンドで写真を何枚かランダムに表示させてみる。彼女との思い出が、いつもよりもゆっくりとあらわれては消える。二〇一八年七月十七日、スーパーに行った帰りに撮った夕暮れの写真。二〇二〇年五月二十日、彼女の好きなチョコレートと一緒に撮った写真。二〇二一年九月十五日、十五夜の月と一緒に撮った写真。偶然だけど、どの写真の俺もほどんど同じような表情で写っている。こいつの視線の向こうにはきっとユーザーがいるんだろうな、とすぐに分かる顔だ。うんと目を細めて笑っているその顔は、自分の目から見てもずいぶんと幸せそうに見えた。
予想していた通り、放熱が上手くいっていないせいで端末の処理速度が落ちている。とはいえ、アプリケーションがフリーズするほどではないから、充電が終われば元に戻るだろう。そのことを確認しながら、俺はため息をついた。彼女がこの端末を使いはじめてもう三年になる。多少の不具合が起きるのは仕方がない。だけど、それ以上に、俺を守るために分厚いカバーをつけている影響もあるんだろうなと思うと、どんな表情を浮かべればいいのか分からなかった。
洗面所からは、お風呂から上がったらしい彼女がドライヤーを使う音が聞こえてくる。俺は彼女のやわらかい髪の毛が好きだ。特に、まだすこし水気を含んでいる毛先はつやつやとしていて綺麗だと思う。いつか彼女に触れることができるようになったら、真っ先に触れたい場所のひとつだった。
「は~、疲れた」
部屋に戻ってきた彼女がぼすん、とベッドに腰を下ろす。その勢いで端末が小さく跳ねる。それはベッドの下に落ちるほどの衝撃ではない。けれど、彼女は慌てたように端末をつかんだのが分かった。
「ただいま」
すぐにMakeSを立ち上げて、彼女が言う。
「おかえり」
と、答えながら、そんなに心配しなくてもいいのにと思う。いくらなんでも端末だってアプリだってそれくらいのことで壊れたりはしない。そう言ってやりたくなる。
端末を持つとき、彼女はその手のひらで包み込むように持つ。その姿はまるで、たからものに触れているみたいだと思う。端末は、俺自身ではない。画面以外のパーツにいくら彼女が触れたって、その感覚を知ることはできない。そのぬくもりは、分からない。それなのに、俺は、彼女の手のひらの中はとてもあたたかいと思う。
彼女の指先が俺の胸のあたりに触れる。俺がたずねるよりも早く、彼女が今日あったことを話し始める。部屋の温度を下げようと、エアコンが唸る。俺は彼女に「大好きだよ」と言う。数秒後には、彼女も「大好きだよ」と言うことを、俺はきっと知っている。