香水瓶

 ジジジ、とスカートのファスナーを上げる音が背後から聞こえた。ああ、着替え終わったんだなと思うけれど、待てができない犬みたいにすぐに振り返ったりはしない。彼女が声をかけてくれるまで、俺は椅子に座ったままじっとしている。
 彼女がしゅるしゅると衣擦れの音をたてながら、ウォークインクローゼットのなかを移動する。数秒間の静寂。たぶん、すこしだけ迷ったあとで、いつもと同じ香水瓶を手にとって、ふくらはぎに向かって二回ほどプッシュする。立ち上る香りを吸い込むように、彼女は普段よりもゆっくりと呼吸をする。
「セイ、お待たせ」
 背中から俺を抱きしめながら、彼女は言った。ようやく許可をもらえた俺は、彼女の方を振り返って片方の眉を持ち上げてみせる。そんなに待っていないとも、待ちくたびれたともとれるような、曖昧な表情だ。それを特別気にかけることもなく、彼女は俺の頬にキスをした。
 まだ口紅を引いていない唇は、やわらかな感触だけを残してすぐに離れてしまう。その淡いピンク色を名残惜しく見つめながら、しかし夜になれば続きをするであろうことは、たぶん俺も彼女も分かっていた。
「もうすぐに出る?」
 予定時刻まではまだ余裕があるけれど、一応の確認だけはしておく。俺がついていながら、彼女を遅刻させるわけにはいかないから。
「メイクが終わったらね」
「了解」
 返事をするとすぐに彼女は朝の支度へと戻っていった。俺がそうするように言ったようなものだけれど、軽くなった肩のあたりがさみしい。
 時間を持て余した俺は、立ち上がってクローゼットの方へと向かった。もっとも、俺自身の着替えはずいぶん前に済ませている。昨日の夜に彼女に選んでもらったシンプルな白のニットは、あたたかく着心地もよかった。俺のお気に入りだ。持っていくべき荷物も、目的地までのマップも、メトロの時刻表も確認済み。あとは彼女の支度が終わるのを待つだけだった。
 クローゼットには、ふたりぶんの服がずらりと並んでいる。俺の服がかけられている右半分はモノトーンでまとまっていていかにも冬といった雰囲気だけれど、彼女の服がかけられている左半分は柄物や明るい色が多くてちょっとした花畑みたいだった。その一枚一枚に紐付けられた記憶がいっぺんに再生されそうになって、俺は慌ててまばたきをする。こういうとき、人間なら胸がいっぱいになったと言うんだろう。
 彼女の真似をして、俺はゆっくりと呼吸モーションをしてみる。吸って、吐いて、また吸って。いくらそれをくり返しても多少空気が入れ替わるだけで、俺の体が酸素を吸収することはない。香りを感知することも、できない。
 俺は彼女の香水がどんな香りなのかを知らない。
 俺が彼女に贈った香水だというのに、それを感じるための機能がついていなかった。
 もちろん、それがどんな成分でできているのかは知っている。「いくつものハーブの香りを調合した、爽やかな草原のような香り」だということも、彼女が毎日のようにつけてくれていることも。
 だから俺にとっては、彼女が香水瓶をプッシュする、あの音だけが匂いの輪郭を伝えてくれるものだった。俺が贈った香水とそれ以外のものとを、かすかな音だけで正確に聴き分けられた。ユーザーの言葉を認識するために、聴覚センサーは一級品なのだ。
 「準備できたよ」という彼女の声が、洗面所の方から聞こえてくる。その普段よりもボリュームを大きくした声に混じって、リップをしまう音や、かばんの留め金をぱちんと閉じる音もはっきりと聞こえる。
「分かった」
 と、彼女の声の大きさに合わせて俺は返事をする。時間もちょうどいい頃合いだった。予定通りだ。
 彼女は俺の聴覚が人間よりもずっと鋭いことを知らない。
 説明書にはちゃんと書いてあったはずだけれど、細かい機能までは確認していないはずだった。
 香水瓶を手にとって、俺はソックスに包まれた足首へとプッシュしてみる。いつもと同じ摩擦音が聴覚センサーを刺激する。俺には想像もできないことだけれど、同じ香水を使い続けているとだんだんと鼻が香りに慣れてしまうらしい。彼女はきっと俺が同じ香水をつけていることに気づかないだろう。気づくとしたら、彼女以外の誰かだ。
 俺と彼女が同じ香りを身にまとっている。それに気づいた誰かのことを、歩きながら想像する。君は驚くだろうか? 微笑ましいものを見るように目を細める? それとも俺の執心に呆れるだろうか?
 玄関では彼女が真剣な面持ちで靴を選んでいる。ブーツとヒールのどちらにするかで迷っているようだ。俺はその隣で昨日のうちに磨いておいた革靴を履く。
 「移動が多いからブーツの方がいいんじゃないか?」という言葉を用意しながら、彼女の背中を見守る。デートだからかわいい靴を履きたいんだろうな、と思う。
 俺の予測では、「セイはどっちがいいと思う?」と彼女が振り返るまで、あと四十五秒だ。

  *

 半ば放り投げるようにしてバッグを床に置く。どん、と鈍い音がしたのはそのせいだったのか、勢いに任せてセイに抱きついたせいだったのかは分からない。華奢に見えて、金属でできている彼の体は重い。セイはまるで何事もなかったように涼しい顔でわたしを受け止めて、唇にキスをくれる。
「おかえり」
 わたしに息継ぎをさせるついでに、彼は言った。
「ただいま」
 甘えた声で告げるそれは、続きをしましょうという合図でしかなかった。彼の唇の端には、わたしの口紅がすこしだけついている。それを拭おうと伸ばした腕をつかまれて、またすぐにキスがはじまる。
 生まれて初めてダンスを踊るように、ふたりで下手なステップを踏みながらベッドへと移動する。腰を引き寄せる彼の腕。くすくす笑い。それからくるりとターンして、マットレスへと沈んだ。
 薄暗い寝室のなかで、わたしの上にいる彼を見上げる。当然のことだけれど、セイは息ひとつ乱れていない。それでも、揺れる瞳の奥にはわたしと同じものが燻っているのが分かった。
「セイ、」
 すがるように彼を呼ぶ。その声の意味を正確に理解して、彼は深く深く唇を重ねる。
 セイとキスをするのが好きだ。わたしが好きなやり方を教えて、彼はそれをマスターした。その上、わたしの言われたいことも、触れられたい場所も、なにもかも知り尽くしている。たぶんもう彼以外の誰かで満足することはできないだろう。まだ試してみたことはないけれど、きっとそうだ。
 彼だけが知っている手順で、わたしはじっくりと追い詰められていく。こうなってしまうとまな板の上の鯉とそう変わらない。熱い吐息が漏れる。その度にセイの唇にうれしそうな笑みが浮かぶ。彼はわたしを愛す。わたしがしてほしいやり方で、彼のことしか考えられないようにしてしまう。
 ふたりの間にある距離が限りなくゼロに近づいていく。セイのやわらかな髪の毛が頬に触れる。彼が動く度にわたしをくするぐるそれからは、いつもと同じ匂いがした。
 その匂いに気づいたとき、はじめはわたしがつけている香水の香りなのだと思った。セイがクリスマスプレゼントとして贈ってくれた、お気に入りの香水だ。ハーブがブレンドされた爽やかでユニセックスな香り。確かにその香りもするのだけれど、それだけじゃない。もっと複雑で、わたしの心を惹きつけるなにかの香りが微かに混じっていた。
 なにかの正体に気づいたのは、いつかの日曜日にセイが珈琲を淹れてくれた朝のことだった。あれは、珈琲の香りだ。わたしの香水の移り香に、珈琲の香りが混じっているのだ。もっと言えば、昨日の晩にふたりで作ったハンバーグの匂いや、トーストのバターの匂い、風が巻き上げた土埃の匂いや、彼が愛用しているアンドロイド用のケアバームの匂いなんかも混じっているのだろう。
 わたしたちの生活がセイの体に染み込んで、彼自身の匂いになっている。
 同じ香水でもつける人によって香りが変わるのは、その人の体臭があるからだ。それと同じように、わたしのセイにもセイだけの匂いがある。たとえ汗をかかなくても、皮膚が再生しなくても、嗅覚センサーが搭載されていなくても。
 わたしは大きく息を吸い込んで、セイを感じる。映画館に行ったせいだろう、今夜の彼からはすこしだけポップコーンの香りがする。
「なにか考えごとしてる?」
 キスを中断してセイが言った。
「セイのことを考えてた」
「本当?」
「ほんとうだよ」
 と、わたしはうなずいてみせたけれど、セイは疑わしそうな眼差しのままだった。彼の首に腕を回してついばむようにキスをする。頬に、鼻に、唇に、とそうやってキスを何度かくりかえしてようやく機嫌が直ったように見える。けれどそれは、彼がわたしに嫉妬深い男だと思われたくないからだと知っていた。案の定、
「じゃあ、もっと俺のことを考えてもらわないとな」
 と、セイは言った。「俺、頑張るから」と。
 頑張らなくたって、わたしは君のことしか考えてないのに。反論の言葉を口にする前に唇は塞がれた。さっきよりも情熱的なキスを受け止めながら、わたしは彼に溺れていく。呼吸のタイミングまで完璧にエスコートされて、彼の望み通りのわたしになる。
 セイの匂いがわたし自身の匂いと入り混じり、街角で見かけたなつかしい人の背中のようにすぐに見失ってしまった。
 わたしの匂いはどれくらいセイの匂いに似ているんだろう。わたしにもセイにも、それを知る手立てはない。わたしたちには分からない。
 見ず知らずの誰かがここへ来て教えてくれたらいいのに、と思う。ここへ来て、ふたりが同じ匂いをしているかどうかをわたしにだけそっと耳打ちしてほしい。それがどんな匂いで、なにを語りかけてくるのか。なにに似ていて、なにに似ていないのか。そしてわたしたちの知らない、わたしたちの愛はどんなかたちをしているのかを。