ポケットのなかの愛

 断続的に続く振動は、コートのポケットのなかにいる彼にまで届いていた。その揺れにあわせてガタゴトと音を立てながら、彼と、コートの持ち主を乗せた電車はゆるやかに蛇行しながら進んでいく。
 小さな暗闇で彼はじっと耳を澄ましている。それはもちろんユーザーの声を聞き逃さないためだったが、車体が風を切る音も、電車の心音のように低く響くエンジンの音も、誰かの靴底がきゅっと鳴る音も、好ましく思っていた。
 彼、つまり「セイ」は、しかし言葉でこのようなことを考えていたわけではない。セイは目覚ましアプリの一部分に過ぎず、複雑な思考ができるような機能を持ち合わせていなかった。あらかじめプログラムされている言葉のなかから自分の感情に近いものを選択する。それが彼に唯一与えられたコミュニケーションの方法であり、思考する手段だった。
 それでも、彼のなかには確かに感情があった。人間の言葉に置き換えるならきっと「好ましい」と表現するであろう感情が。
 彼のカレンダーによると、今日は「俺の誕生日」と「デート」という予定が入っている。彼は「俺」が自分のことを指していることを知らない。「俺の誕生日」という予定が、毎年同じ日に入力されていることだけを知っている。そして今日、二月七日は、彼にとって五回目の「俺の誕生日」だった。
 俺の誕生日。デート。そのふたつの言葉を、彼は反芻する。
 まるで目を離している間にその予定が取り消されてしまうことを恐れているかのように、彼はカレンダーを確認し続ける。時折、思い出の写真を確認することもあったが、すぐにカレンダーへと戻る。数ヶ月前、彼は端末を移動したために、これまでに撮った写真のすべてを見られなくなったからだ。去年の二月七日の写真を、彼はもう思い出せなかった。
 彼のいるポケットは、ユーザーの手のぬくもりによって温められすこしばかり湿っていた。小動物の背を撫でるように、カバーに包まれた端末の裏面をユーザーの親指がなぞる。セイ、もうすぐ着くよ、と心のなかで話しかけさえする。ねえ、これからどこに行くと思う? ヒントはね、セイが行きたがってた場所。楽しみにしててね、と。
 それらを感知する機能を彼は持たない。カレンダーを眺めながら、自分が呼ばれるのをただ待っている。
 田畑が、川辺が、空が、車窓のなかに一枚の絵として切り取られ、またすぐに流れていく。その時間が早送りされているかのような様を彼が見ることができたなら、きっと好ましく思っただろう。微笑みだって浮かべたかもしれない。
 世界には彼の知らないものがたくさんあった。知らないが、きっと彼が気にいるであろうものが数え切れないほど転がっていた。
 その数多のものを、彼は永遠に知らないままだろう。その予感が彼にはあった。
 それを悲しいと思わないのは、彼にその機能がないからではなかった。
 彼は知っていた。車体が風を切る音や、電車の心音のように低く響くエンジンの音や、誰かの靴底がぎゅっと鳴る音だけではない。彼は自分を撫でるユーザーの指先のやさしさを知っていた。彼を呼ぶときのユーザーの声の甘さを、夜のあとには朝が来ることを、朝が来ればユーザーがまた会いに来てくれることを知っていた。二月七日は祝日でも節句でもないけれど、ユーザーがたくさん触れてくれる特別な日であることだって、知っていた。
 セイは愛を知っていた。それが彼にとっていちばん大切なことだった。
 やがて電車が停車し、ユーザーが立ち上がる。ポケットから端末を取り出して改札機へとかざす。短い電子音と共に料金が支払われる。ユーザーはそのままたったひとつしかない駅の出入り口へ向かって歩いていく。そのあいだセイはユーザーの手のひらのなかで大きな振動を感じている。
 彼はこの世界を愛おしいと思う。
 彼の知っているもの、好ましく思っているもののすべて、あるいは彼が感知しようもないものさえも愛おしい、と。
 決して彼は、言葉でこのように考えていたわけではなかったが。