創真×零士同軸リバ
*R18*
八神創真誕生祭2023
きっと本人に言ったらすぐに否定されるだろうけれど、俺と零士はすこし似ていると思う。具体的にどこと言われると、上手く言えない。もしかすると、もともと似ていたというよりは、同じ部屋で暮らしているうちにだんだんと似てきたのかもしれない。
零士の横顔を眺めながら、たまに、弟がいたらこんな感じなんだろうかと想像する。その生真面目な表情を崩したい、と思ったりもする。もちろん、笑ってくれるのが一番うれしいけれど、怒ったり、焦ったり、拗ねてみせたり……、そんないろいろな表情を見てみたかった。
同じ部屋といっても、一緒に過ごす時間は意外とすくない。お互いにダンキラの試合やレッスン、アルバイトなんかで忙しくて、部屋には寝に帰るだけになることも多かった。
だから暗黙の了解で、寮の就寝時間が過ぎれば、相手が部屋に戻っていなくても電気を消していいことになっていた。
どうやら零士は寝付きのいい方らしい。俺が部屋に戻るのが遅くなった夜はたいていよく眠っていた。たぶん、疲れてもいるのだろう。なるべく音を立てないようにドアを開けながら、薄暗いなかから零士の寝息が聞こえてくるとほっとした。
「おやすみ、零士」
深い眠りのなかにいる零士に声をかけてから眠る。そうすると、どういうわけか俺もよく眠れた。
一緒に暮らし始めてすぐに分かったことだけれど、零士の生活はとても規則正しかった。夜更しも朝寝坊もしなかったし、部屋はいつでも整理整頓が行き渡っている。
朝、俺が目を覚ますと、いつも零士はこちらに背を向けてベッドメイキングをしている。
「おはよう、零士」
俺がその背中に声かけると、
「おはようございます」
と、必ずふり返って答えてくれる。そしてその眼鏡の奥の瞳にはもう既に理性が灯っており、眠そうな素振りを見せたことはなかった。
もしも「この紅鶴学園において最も模範的な生徒をひとり選べ」と言われたら、俺は間違いなく「夜野零士」と答えるだろう。それくらい彼は努力家で、勤勉で、合理的だった。常に最短距離を通り、最善をつかもうとする。その姿勢を見ていると俺も負けていられないと素直に思った。
きっと彼はこれからどんどん伸びていく。良いダンサーになる。零士たちが紅鶴へと編入してきたあの日、彼らにとって初めてのダンキラの対戦相手は俺たちシアターベルだった。だからこそ、零士たちの中に眠っていた才能が開花していこうとしているのが、よく分かった。零士は買いかぶり過ぎだと言うけれど、そんなことはない。まぁ、そういう謙虚なところも彼の魅力ではあるのだけれど。
その夜は、ひどく蒸し暑かったせいかもしれない。零士はめずらしく眠りにくそうにしていた。部屋の電気を消してからどれくらいの時間が経っただろう。少なくとも二十分以上は経っていたはずだ。零士はベッドの中でさっきから何度も寝返りを打っていた。
「零士、眠れないの?」
俺が声をかけると、
「すみません、八神さん。起こしてしまいましたか?」
と、案の定すぐに返事が帰ってくる。
「いや、大丈夫だよ。俺も、今夜はなんだか寝つけなくて」
「そうですか……」
暗闇のなかで、零士の声が頼りなく響いた。ベッドが部屋の壁の両端にくっつくように配置されているせいか、その声をずいぶんと遠く感じてしまう。眠れない夜は、変に心細くなるものだ。普段寝付きがいいのなら、余計にそう感じるだろう。俺はそんな零士を慰めたくて、
「そっちに行ってもいいかな?」
と、返事を待たずに自分の布団を抜け出して零士のベッドの方へ移動する。
「えっ、八神さん?!」
零士がぎょっとした声をあげた。
「添い寝してあげるよ」
「い、いや、いいですから! ひとりでちゃんと寝られます!」
「遠慮しなくていいんだよ」
「うわっ! 近いっ! 八神さん、近すぎます!」
そんな悲鳴にも近い声を聞きながら、ああ、少しだけいつもの零士に戻ったと俺はうれしくなる。そのせいで「あはは」と思わず漏れた笑い声が思ったよりも大きく響いてしまった。
「八神さん、声を落としてください」
と、零士にすぐに注意される。俺は零士のベッドに潜り込んで、「ごめん」と彼の顔のすぐ傍で謝った。ベッドはふたりで寝転ぶには狭くて、いまにもお互いの鼻がくっついてしまいそうだった。その上、零士の吐く息が顔にかかってすこしくすぐったい。だけど、そんなことよりも俺は、零士の顔がよく見えるようになったことに安心していた。
でも、零士にとってはそうではなかったらしい。眼鏡をかけていない彼の顔は、無防備なまでに驚きと羞恥に染まってゆく。やがて耳まで真っ赤になった彼は、くるりと俺に背を向けてしまった。
「零士」
と、俺が呼びかけても返事もしてくれない。
「眠れるまで、なにか話をしようか?」
後ろから囁いてみても、ダメ。
「それとも、マッサージしようか?」
体がほぐれてリラックスできれば、眠りやすくなるだろう。そう思って、「ぼんや聖人には好評なんだよ」と付け加えてみてもダメだった。
「八神さん、自分のベッドに戻ってください」
硬い声で、零士は言い張る。
「つれないね」
思わずため息をついてしまったが、いまはそっとしておいてほしいのかもしれない。そう思った俺は、零士のベッドを出ようと体を起こした。
そのときに、ふいに俺の手が零士の身体に触れた。別に変なところに触ったわけではない。ただ、背中にとん、と手の甲が当たっただけだ。
「……っ!」
「零士?」
それなのに、勢いよくふり返った零士は潤んだ瞳で俺を睨んでくる。わざとじゃないと弁明するように両手を挙げてみたけれど、どうやら効果はなさそうだ。じりじりとした沈黙。零士の息が、いつもより荒い。
「苦しそうだね」
あらためて零士の方へ手を伸ばそうとすると、彼はびくりと身じろぎした。零士はなにかにじっと耐えるように、背を丸めている。その背をさすりながら、俺は、いまの零士が置かれている状況をようやく理解した。
気づかなかったふりをするべきかもしれない。そう思ったけれど、やっぱり放っておくことはできなかった。零士の望む通りに自分のベッドに戻ったところで、零士はいまのまましばらく我慢することになるだろう。目の前で彼が苦しんでいるのを見ていると、俺も苦しい気持ちになった。
「零士、」
さすっていた背中からゆっくりと、体の前の方、腹のすこし下あたりに向かって手を伸ばす。俺がなにをしようとしたのか察したのか、
「い、いやです」
と、焦ったような声で零士が言った。だけど、このままではつらいはずだ。零士はそのことを身をよじって隠そうとしたけれど、俺はかまわず続けることにした。
「俺に身を委ねて……」
「やがみさん、」
後ろから抱きかかえるような体勢のまま、零士の下半身の屹立にそっと触れる。パジャマの布の上からでも分かるほどに、そこは硬く、熱を帯びていた。すこしだけパジャマと下着をずらし、彼自身に直接手を添えれば、零士は諦めたように抵抗を示さなくなった。
「……っ」
すこし触れただけで、零士は息をつめる。一体いつから我慢していたんだろう。先端からはぬるぬるとした分泌液が溢れていた。彼のことだから、俺に気をつかってどうすることもできずにいたんだろうと思うと、早くなんとかしてあげたくなった。
全体を包むように握りながら、指先で先端をやさしく刺激する。するとすぐに指先も零士のものも濡れて滑りがよくなった。こんなふうに自分以外のものに触れるのははじめてだ。零士の背中のかすかな震え。それを感じながら、俺は、慎重に手を上下に動かしはじめた。
「ッ、……ふっ、……ぁッ」
その動きに合わせて、零士の呼吸が乱れていく。それを悟られたくないのか、零士は自分の手で口を塞いだようだった。
「我慢、しないで……」
大丈夫だよ、と安心させるように、俺は彼の耳元でささやく。だけど、どうやら逆効果だったみたいで、零士はぎゅっと身をちぢこませてしまう。あまり長引かせてもつらいだろうと、俺は手の動きを速めた。といっても、技巧的なことはなにもできない。いつも自分自身にするように動かしているだけだ。その単調な動きに、零士はあっけなく高められていく。
「……っ! ……、ッ、ぁ、……ぁっ!」
零士の手のひらから漏れ出した声に、俺自身も煽られているのを感じた。そんなつもりじゃなかったはずなのに、はじめて見る零士の表情にひどく興奮している。その手を外してもっと声をきかせてほしい。……なんて、浅ましいことを考えてしまうくらいに。
いつの間にか、俺の下半身まで零士のそれと同じように熱くなりはじめている。それが零士の体に当たってしまわないように腰を引きながら、俺は手を動かし続けた。
「……ぁ、ッ、ぁ、……ぁっ!」
すぐに零士は耐えきれなくなったように声をあげてイッた。俺は直前になって手元にティッシュがないことに気づいたけれど、その時にはもうどうしようもなくて、そのまま零士のパジャマへと飛び散る。困ったな、と思いながら広げた手には、彼の白濁がべっとりとついていた。
「嫌だって、言ったじゃないですか」
はぁはぁと肩で息をしながら、零士が言う。怒っているというよりも、むしろ泣いているみたいな顔を向けられて、俺はどきりとした。彼の言い分はもっともだ。気を利かせるにしても、俺が部屋を出るなりすればよかっただけなのに、嫌がる零士にこんなことをしてしまった。
「そうだね、……ごめんよ、零士」
そう謝りながらも、どういうわけか、俺の胸は痛いほどに高鳴り続けていた。
それを無視するように、自分の手を近くににあったタオルで適当に拭いてから、濡れタオルを用意するために部屋を出た。幸いにも、廊下では誰にも会わなかった。タオルを濡らす水の冷たさが、俺を少しだけ正気に戻してくれる。深夜の男子トイレは、LEDライトに照らされて不自然なほどに明るい。そんななか、ふと見上げた鏡に映った自分の顔は、それはひどいものだった。普段の俺がダンサーとして表現するセクシーさとはまったく別物の、歪な欲望が滲んでいる。こんな顔、とても零士には見せられない。いや、さっき見られてしまったかもしれないけれど、部屋が暗くてよく見えなかったんだと思いたかった。
部屋に戻ってからも、妙に気まずくて零士の方をまともに見られなかった。零士に濡れタオルを手渡すと、渋々といった様子で使ってくれたけど、ふたりともずっと無言のままだ。
そんな空気を変えられないまま、俺たちはそれぞれのベッドで眠りについた。といっても、俺はなかなか寝付けなかった。体の奥が熱くて、何度も何度も寝返りを打った。もしかすると、零士もそうだったかもしれない。だけど、お互いに声をかけあうようなことはもうなかった。
翌朝、俺が目を覚ますと、零士はすでに部屋を出たあとだった。俺と顔を合わせたくなかったのかもしれない。空のベッドは、いつも通りきっちりと整えられていた。
「まいったね」
そう声に出してみたけれど、本当のところは、自分が一体なににまいっているのか、よく分からないのだった。
「八神さんにだけ、ああいうことをさせるわけにはいきません」
思いつめた顔で零士がそう言い出したのは、その数日後のことだった。
就寝時間はとっくに過ぎて、部屋の電気も消したあとだった。零士は俺よりも先にベッドに入っていたはずなのに、どういうわけか、いまは俺の枕元に仁王立ちしている。それでなにを言い出すのかと思えば、「八神さんにだけ、ああいうことをさせるわけにはいきません」だ。
「ああいうことって?」
零士がなにを言いたいのかは明白だったけれど、あえて分からないふりをして俺はたずねた。別にからかっているわけではない。ただ、なにか見返りがほしくてしたわけでも、零士の負担になりたいわけでもなかったからだ。
「それはっ……」
自分から言い出したにも関わらず、零士はかわいそうなくらい真っ赤になって言いよどんでしまう。
「零士、なにを言いたいのか分からないけど、」
「とにかくっ!」
話を終わらせようとした俺の声と零士の声とが重なった。そのことに驚いた俺がきょとんとした、そのわずかな間に、
「とにかく、俺の気が済まないんです。八神さん」
と、零士は宣言する。そして、有言実行と言わんばかりにベッドに横たわる俺へと覆いかぶさった。
「うわっ」
どん、と勢いよくなにかがぶつかってきた衝撃を受けたあと、気がつくと、目の前に零士の顔があった。眼鏡の向こうから、まっすぐに俺を見つめるまなざし。一瞬だけ、このままキスをされるんじゃないかと思ったけれど、ちがった。零士の手は無遠慮にシーツをはがし、まっすぐに俺の下半身へと伸びてくる。
「れ、零士っ!」
彼を止めようと俺は声をあげる。だけど、
「ダメとは言わせませんよ」
と、言われてしまうと反論できなかった。あの夜、俺は嫌がる零士の体に触れた。そんなことをしておいて、自分はされたくないというのはフェアじゃないだろう。零士が納得できないのも無理はない。
「分かったよ」
と、俺はうなずくしかなかった。
パジャマの上からまだやわらかい状態の俺自身に、零士の指先が触れる。眼鏡の向こうにある零士の瞳はまさに真剣そのものといった様子で俺の下半身を凝視している。そのまなざしに情欲はあまり感じられない。零士の好きにさせようと決めた以上文句を言うつもりはなかったけれど、どちらかといえば、意地が彼を突き動かしているような、そんな気がした。
俺の反応を引き出そうと、零士の指先がぎこちなく動き出す。まずは形を確かめるように、根本から先端までのラインをたどる。そのあとで、やわやわと全体を刺激されて、すこしくすぐったく感じた。まだ、気持ちいいとまではいかない。だけど、あの零士にそんなところを触られているという事実に、ごくりと喉が鳴った。
「っ、はぁ……」
思わず漏れた吐息に、零士が手を止めた。
「八神さん」
「うん?」
「なんか……いつにも増して、その……」
そういうことをしているんだから当然だろうに、零士は恥ずかしそうに目をそらす。
「はは、遠慮しなくていいんだよ」
そう言って俺の手を零士の手に重ねて、すこし動かしてみせる。ほんの数秒、上下に軽く扱くように。
「ほら、零士の好きに……」
「……っ!」
たったそれだけのことで、まるで零士自身に触れられたみたいに反応する彼がかわいかった。もしかして、と彼の下半身に目をやると、想像した通り、その場所は硬くなりはじめている。
「零士、」
興奮のあまり自分の声が掠れているのを自覚しながら、俺は言った。
「ふたりで気持ちよくなれること、しようか」
戸惑っている零士にかまわずに、俺はパジャマを脱いでみせる。さらに下着にも手をかけてゆっくりと下ろしていき、
「や、八神さんっ!」
と、零士が慌てたように声をあげたのと、俺の下半身があらわになったのとは、ほぼ同時だった。すっかり立ち上がった俺自身を見て、零士が息を呑む。「やっぱりやめておきましょう」といつ言われてもおかしくない雰囲気だった。だけど、
「零士も脱がしてあげようか?」
と、やや挑発的に俺が笑ってみせると、零士はすぐに憮然とした表情になった。なにも言わずに眼鏡を外して枕元に置いたあと、パジャマも下着もまとめて足から引き抜いて、そのままベッドの下へと無造作に投げ捨てた。そんな彼らしくない仕草に、俺は、目眩がするほど欲情した。
それからは、とにかく夢中だった。
なにがなんだか分からないままもつれあって、お互いのものを握った。
「ぁっ、」
零士の手が熱くて、心地いい。俺も零士に同じものを与えたくて、彼自身をしっかりと包みこむ。さっきまではまだゆるくしか反応を示していなかったはずのそこが、いまではもう硬く濡れそぼっている。そこをやさしく手で擦ってやりながら、俺自身も痛いほど屹立しているのが分かった。
もっと気持ちよくなりたくて、俺は激しく手を動かし続ける。もっと、もっと、と求める気持ちが止まらない。それなのに、零士はためらっているのか、それとも気持ちがよくてそれどころではないのか、あまり手を動かそうとしない。それがもどかしくて、俺は零士の名前を呼んだ。
「零士、零士……、」
「っ、……ん、ッ、はぁ……っ」
零士はぎゅっと目を閉じて、苦しそうな声をあげている。
「やがみ、さん……、っぁ!」
応えるように、零士が名前を呼ぶ。その声にたまらなくなって、俺は零士の方へ身を寄せた。そして、俺の手のなかにある零士のものと俺のものを合わせて、一緒に擦りはじめる。
「ぁっ、あっ、ああっ!!」
気持ちがよくて、俺も零士も声をあげる。気持ちい、気持ちい、気持ちいい……、こんなにも気持ちいいなんて、生まれてはじめてだった。ふたり分の先走りのせいで、手を動かすたびにぐじゅぐじゅといやらしい音をたてる。それがよりいっそう興奮を煽った。
もっと、零士を気持ちよくしたい。もっと、気持ちよくなりたい。
その一心で、俺は俺自身と零士を責め立てた。いつの間にか零士に擦り付けるように腰を動かしてしまいながら、必死で手を動かす。
「っ、八神さん、……俺、もう……!」
切羽詰まった声で、零士が言った。こんなときまで律儀な彼は、俺が許可するのを待っている。
「いいよ、れいじ」
望み通り、そう耳元で甘くささやいてあげると、
「やがみさん、やがみさんっ、あ、あああっ!」
と、零士は体を大きくしならせながら吐精した。この間よりもずっと気持ちよさそうに、腰のあたりを震わせている。それに煽られるように、追って俺自身もイッた。手のなかからぐじゅりと漏れ出した精液が、シーツを汚す。それを拭くものを探すのもおっくうで、俺は下半身のあたりに手を置いたまま、荒い息を吐く。ふたりともまるでダンキラのあとみたいに汗だくで、妙な開放感があった。
「八神さんも、気持ちよかったですか?」
目を閉じたままじっと余韻に浸っていた俺に、零士がそうたずねた。「も」ということは零士はちゃんと気持ちよかったんだな、と安堵しながら、俺は、
「すごく気持ちよかったよ」
と、目を開けた。すると、普段ならありえないくらいの距離に零士の顔があった。ちょっと気の抜けた子供っぽい表情をして、俺を見つめている。俺が彼を見つめ返しても、その視線がそらされることはない。それがなんだかうれしくて、くすぐったくて。
「零士、ありがとう」
と、俺は言った。
「ありがとうは、変じゃないですか?」
「そうかな?」
「そうですよ。俺が勝手にしたことですから」
零士は頑なにそう言うけれど、それを言うなら俺だって好き勝手なことばかりしていると思う。いつだって、俺が零士にしたいと思ったことをしているだけ。多少強引にだとしても、零士はそれを受け入れてくれた。だからやっぱり、「ありがとう」以上にぴったりとくる言葉は見つからない。
「でも、俺はうれしかったよ。なによりも零士の気持ちがね」
「そう、ですか……」
俺がほほえんでみせると、零士の口元もかすかに持ち上がったように見えた。
体は重く、シーツはぐちゃぐちゃ、露出したままの下半身はなんとも情けないありさまで、どう考えても今の状態は理想の自分からはかけ離れている。なのに、そんな自分を零士に見られたことを嫌だとは不思議と思わなかった。むしろ、お互いの知らない一面を知れたことがうれしくて、たぶん俺は、浮かれていたんだと思う。
二度目の夜、零士は嫌そうな素振りを見せなかった。日常に戻ってからも気まずい雰囲気にはならなかったし、前よりも打ち解けたような気さえする。俺に対する警戒心がゆるんだのか、近づいても逃げられることも減った。たまにそういう雰囲気になったときは、高ぶった体をお互いに慰め合うこともある。それはこれまでのふたりの関係を思えば、十分すぎるほどの進歩だと言えるだろう。
だけど、俺は欲が出た。ぼんや聖人が言うところ「凝り性」が発揮されたと言ってもいい。
もっと、零士と近づきたい。もっと、零士のことを知りたい。もっと、零士を気持ちよくさせたい。
そんな抑えきれない思いが、俺を駆り立てる。自分でもなにをしようとしているのかわからないまま、気づいたときにはコンドームとローションを注文していた。
そして、いま。ひと気のない放課後の西校舎二号館の男子トイレの個室に、俺はひとりで籠もっていた。制服のスラックスと下着はもう下ろしてある。もちろん、それは排泄のためではなかった。俺は念のために誰もいないことをもう一度確認する。一秒、二秒、三秒……と耳をすませてみたけれど、近くから物音は聞こえてこない。いよいよだとすこしだけ緊張しながら、俺はうしろの穴へと指を伸ばした。
きれいに洗浄したその場所は、やさしく扱いさえすれば意外と痛みを感じない。まずは人差し指を一本、ローションを継ぎ足しながらゆっくりと時間をかけてなかへと挿れる。
「ん、……ぅ」
ぬるり、と指先が入ってくるその感覚は、どちらかといえば異物感に近い。自分の指とはいえ、内蔵に直接触れられれう不快感に俺は顔をしかめる。それでも、根気強く指を動かしていると、すこしずつ、ほんのすこしずつだけれど、ぞわりとなにかが背筋に走るようになるのを、俺はすでに経験済みだった。
「ッ、……ふ、ぅ……っ、」
すぐに予想していた通りの感覚が俺を襲う。
「ん、んんっ、ん……!」
汚れないようにたくし上げたシャツの裾をくわえながら、必死で声を抑えた。そろり、そろりと動かすたびに、指先が硬く腫れ上がったしこりに触れる。それが前立腺と呼ばれるものだと知ったのはつい最近のことだ。これまで何度かここに触れたことがあったけれど、今日は特に快感が強いようだった。
「っ、……んッ、……ッ、んん、んっ!」
気持ちがよすぎて、指が震える。そのせいで、上手く刺激できないもどかしさで気が狂いそうだった。いつの間に前も硬くなっている。そこを擦りながらでしか興奮できなかったはずなのに、いまはもう、それどころではなかった。
俺は人差し指に添えるようにして、中指も挿れる。
「……ッ、ぅ、ぁっ、」
浅く抜き差しをくり返しながら馴染ませると、すぐに気持ちよくなった。もっと激しくしたいという衝動をこらえながら、あえて前立腺を避けて穴を広げるように指を動かす。それでも快楽の方がずっと強くて、ぎゅっと指を締め付けるように力が入った瞬間、押し出されたローションがつうっと尻を伝うのを感じた。
「……っ!」
声を殺そうとするあまり、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。つらい、苦しい、早く、思いきり指を動かしたい。ふうふうと熱い息を吐きながら、俺はもうそんなことしか考えられなかった。
こうやって何度も練習した成果だろうか、はじめの頃よりも後ろがずいぶんとやわらかくなってきたような気がする。指をスムーズに入れられるようになるにつれて気持ちよさも増したのは想定外だったけれど、それも別に悪いことではないはずだ。いくら自分が気持ちがよくても、相手が痛そうにしていたらとてもそういう気分にはなれないと思うから。
零士ともっと気持ちよくなるには、たぶんこれはいいことだ。そう言い聞かせながら、俺はもう一度指を動かしはじめた。
──零士。俺は頬を染めながら喘いでいたあの夜の零士を思い出す。聞いたことのないような、切ない声で俺を呼んでいた。俺の手で感じていた。乱れていた、その姿が、目に焼きついて離れない。
「……、ッ、……ん、は……ぁっ」
いまの俺と同じように、零士のその場所もはち切れんばかりに大きくなっていた。たしかに、俺で興奮していた。そのことを考えると、俺はいてもたってもいられなくなる。
もしもあれを、俺のなかに挿れるとしたら。零士はどんな反応をするだろう。……驚く? 怖がるだろうか? それとも、気持ちいいと感じてくれる?
「んっ、ん……ぁッ、……ぁ、あッ!」
零士のことを考えると、急に体中の感覚が鋭くなった気がした。もしも零士をここに受け入れることができたら、きっと、俺はとても気持ちがいいと感じるだろう。こんな風に喘ぎ声をあげて、腰を揺らして、奥へ奥へと彼を誘い込んで。この前の夜よりもみっともないところを見せてしまうかもしれない。
それでも、俺は……、と中指と人差し指とをできるだけと奥へと進めながら、俺は目を閉じる。たしか、零士のと俺自身との大きさはそこまで変わらなかったはずだ。それをなかに挿れるとなると、ここをもっと広げておかなければならないだろう。そう思うのに、だんだんと快楽で思考がぼやけていく。
「あ、あぁっ!……っ、ぁ、あ、あッ!」
いつの間にか、指を動かすスピードも上がっていた。前立腺に触れようとしなくてもどこもかしこも気持ちがよくて、逃れようがない。
「ん、……ぁ!ッ、あ、あ、……あぁ……ッ!」
もう声も抑えることができなくて、弓なりに大きく背を反らしながら、俺は身悶えた。──零士、零士、零士。もっと、激しくして? 想像のなかの彼にそう懇願しながらも、俺は絶えず指を動かす。零士の余裕のなさそうな顔が、浮かんでは消えて。「八神さん」と俺を呼ぶ声が、俺の脳を甘く侵していく。
「あっ、あぅ、ッあ、あ、れいじ……っ!」
誰かに聞かれるかもしれないことを忘れて、俺は声をあげた。その瞬間、俺のなかがひくひくとうねり、感じたことのない感覚がせり上がってくる。
「あぁっ! ……ぐ、っ、んんんッ……!」
思わず叫びそうになりながら、俺は空いている方の手で必死に口を押さえる。気持ちい、気持ちい、零士、気持ちいい。おかしくなりそうになるほど、気持ちがよかった。目の前が真っ白になるような快感。それに悶絶しているうちに、どうやら俺はイッてしまったらしい。触れていないはずのその場所から勢いよく出された精液が、ぱたぱたとトイレの床に落ちる音がする。
「は、ぁ、……っぅ」
俺は恐る恐る指を抜き、深呼吸をくり返した。息を吸って、吐いて、また吸って。だけど、腹の奥底から湧き上がってくるような余韻はなかなか収まりそうにない。
俺は立ったままの体勢を保っていられずに、がくりと便座に腰を下ろした。脱力感がひどい。これはしばらく動けないかもしれない、と思いながら、額に張り付いた前髪をかき上げる。
ぱっと見たところ、制服は汚れていななかった。スラックスの裾も、ローファーも、大丈夫そうだ。あとで床とこの手さえどうにかすれば、誰かにバレることもないだろう。
ふう、と吐いた息には、まだ情欲がくすぶっている。──早く零士と一緒にこれを試してみたい。零士の反応を見てみたい。そう思わずにはいられなくて。一体どうやって彼を誘おうか、とそんなことばかりを考えていた。
「八神さん、眠れませんか?」
ふたりだけの秘密の合言葉のように、零士が言った。
「そうだね。こうやって零士と話せるのが楽しくて、すこし目が醒めてきちゃったかもしれないな」
と、答えながら、俺は思わず口元がにやけてしまう。
今日はいちにちオフだったから、疲れはたまっていない。すこし家庭菜園の世話をするくらいであとは部屋でのんびりと過ごしていたのだ。いまだって、別に寝苦しいということはない。本当は眠ろうと思えばいつでも眠れたけれど、ベッドに横になったまま零士に話しかけ続けたのは、もちろんそういう雰囲気にならないかなと思ってのことだった。
「そっちに行っても、いい?」
「……はい」
俺がたずねると、すこしためらいながらも零士はうなずいてくれた。
早速俺は自分のベッドを抜け出して、零士の方へと移動する。それを見た零士も壁側へと体をずらし、俺のためのスペースをあけてくれた。そこへと体を滑り込ませながら、俺は、もしかすると零士もそういうつもりでいてくれたのかもしれないと思う。たしか零士は明日がオフだったはずだから。
「あの、八神さん、」
その証拠に、零士は緊張した面持ちで俺を呼ぶ。
「どうしたの、零士? 近かった?」
「いえ、それはいつものことなので……」
「はは、それもそうだね」
と、笑いながらも、俺には零士がなにを言いたいのかは分かっている。相変わらず不器用だな、と思うけれど、生真面目な彼が自分から誘おうとしていることがうれしい。
「ねえ、零士。今夜はいつもよりもっと気持ちいいことをしようか」
耳元で俺がそうささやくと、零士がごくりとつばを飲み込むのが分かった。
まずは、零士のパジャマのボタンをひとつずつ外していく。いいよね? とアイコンタクトを送ると、彼は恥ずかしそうに目をそらした。嫌なときは嫌だとはっきり言うタイプだから、このまま脱がしても大丈夫だろう。上のパジャマを脱がせながら、俺は零士の上に馬乗りにまたがるような体勢になる。そのまま、見せつけるように俺自身のパジャマを脱ぎ捨てて、零士の体を抱きしめた。
ふたりの素肌が重なって、「はぁ、」と熱い吐息が漏れる。俺をじっと見つめる零士の瞳。それを見つめ返しながら、布越しに触れ合っているお互いの下半身がゆるく立ち上がっているのを感じていた。
早く零士と……と、焦る気持ちを抑えて、なるべくゆっくりと下のパジャマと下着を脱がす。たったそれだけで、俺も零士も痛いほどに期待が高まってしまう。
指先でその先端をあやすように撫でれば、零士が小さな呻き声をあげた。俺を見上げる潤んだ瞳は、まるで「続きをしないんですか?」と訴えているようだ。たしかに、いつもならこのままお互いに抜きあったりするところだ。
だけど、今夜はもっと特別なことを零士としたかった。
「……ここ、」
うしろへと零士自身をあてがって、俺は言う。最初から準備してあったその場所は、なかから垂れ出したローションでぐっしょりと濡れていた。
「今日はここに、零士のものを挿れたいんだ。零士も気持ちよくなれると思うけど……、ダメかな?」
「え?」
それを聞いた零士は、困惑した表情を浮かべる。意味がわからないというよりも、単純に驚いているのだろう。その証拠に、彼自身はさっきよりもぐっと硬さを増していた。俺で興奮しているのに、自分でもそうと気づいていない。そんな零士の様子がなんだかかわいくて、俺はいますぐ挿れたくなってしまったけれど、我慢した。そのかわりに、
「零士?」
と、ねだるように零士に尻の割れ目を擦りつけながら、名前を呼んだ。くち、と粘膜が擦れ合う音がする。まっすぐに俺を見つめる零士の瞳は、迷うように揺れていた。
「ダメじゃないなら、このまま……」
すこしでも俺に心が傾いているのなら、と零士を受け入れる体勢になった。あらかじめポケットに入れてあったコンドーム──さっきパジャマを脱いだ拍子にベッドに転がり出ていた──を、零士のものに被せる。零士は抵抗しなかった。それを自分のいいように受け取った俺は、念のためにもういちど中指と人差し指でなかをほぐしてから、零士を先端からゆっくりとなかへと飲みこんでいく。
「ぅ、ぁ、ッ!」
零士が苦しそうな声をあげる。もしかすると、きつかったのかもしれない。なんとかしてあげたいけれど、俺も初めてだからどうするのが正解なのかわからなかった。それでも、精一杯なかを締めつけてしまわないように深呼吸をくり返しながら、俺は腰を上下に動かした。
「ぁ、ぁぁ、……っ、あっ!」
零士のものが、俺の気持ちいいところを刺激する。指よりもずっと太いそれが、うしろを出入りするたびにその感度は高まっていって。俺はいままでにないほどに声をあげた。
「ッ、あ、ああっ、ああ、んっ、んぁっ!」
もう零士がどんな表情をしているか見る余裕もない。俺が零士をリードするはずだったのに、どんどん奥へと入ってくる彼のものにただただ翻弄されていく。
「あっ! あ、っあ、ああっ、ぅ、あ、……ッ!」
指では届かなかった場所をぬちぬちと擦られると、ひとたまりもなかった。気持ちよすぎて思ったよりももたないかもしれない。そんな危機感を抱く。だけど、足にも腰にも上手く力が入らなくて、ずるずると崩れ落ちるように零士を受け入れることしかできなかった。
「あっ、あっ、……っあ、」
あとすこし、あとすこしだからと自分に言い聞かせて、腰を下ろしていく。汗なのか涙なのかわからないものが、頬を伝う。
「……っ、ッ、あ、……、ぁ……ッ!_」
そしてとうとう、零士のすべてを俺のなかに受け入れた。
快楽のなかにほんの一握りだけ混じる痛み。それすらも心地が良くて。すこしだけ萎えてしまった俺自身の先端からは、だらだと先走りが漏れている。感じたことのない感覚。腹のなかが、ひどく熱い。
「入った、ね」
そう言いながら、滑稽なくらいに息があがっている。
「……動いても、大丈夫?」
「ッ、は、……やがみさんっ、」
眉をひそめてなにかをこらえるように、零士は言った。
「やがみさん、……八神さんは、気持ちいいですか?」
彼の言葉に、俺は呆気にとられてしまう。さっきまでの俺の痴態をさんざん見ていたはずなのに、と思わずくすりと笑ってしまったあとで、俺は愛おしさで胸がいっぱいになった。
「気持ちいいよ。やさしいね、零士は」
俺が答えると、零士は分かりやすいほど表情をゆるめた。
こういうとき、恋人同士ならきっとキスをするんだろうな、俺は思う。気持ちいいとか、やさしいとか、そういう言葉では足りない気持ちを伝えるために。
だけど、いくら体を重ねたところで、俺たちはただのルームメイトでしかないのだ。そう自分に言い聞かせながら、
「まだまだこれからが本番さ」
と、俺はセクシーな先輩を演じることしかできなかった。
本当は余裕なんてとっくになくなっている。でも、そのことを零士には気づかれたくなくて、俺は懸命に腰を上下させた。彼のものが俺のなかを擦りあげる。そのたびにあられもない声が漏れるけれど、それは零士も同じだった。
「あ、っあ、あ……ッ、ぁ」
普段の彼からは想像もできないくらい煽情的な声。それは俺をたまらなくぞくぞくさせた。零士が俺のなかで気持ちよくなっている。俺のことだけを見つめている。そのことが、俺の心と体を満たしていく。
「れいじ、」
腹のなかでくすぶり続けている熱が、苦しい。まるで自分の体が作り変えられてしまったみたいだ。こんな感覚を、俺は知らない。知らなかった。零士とこうなるまでは。
きっと無意識なのだろう、零士が突き上げるように腰を動かす。ぐっぐっと彼の先端が、俺の最奥に押しつけられるのがわかった。
「ひっ、ぁ……ッ! あ、あ、っあ……!」
そうやって何度も何度も奥まで貫かれて、俺は悲鳴をあげた。気持ちがよくて、なにも考えられない。天井の焦げ茶色のクロス。零士の額に浮いた汗。開いたままの唇。ああ、もう、イってしまう。これまでに感じたことのないような快楽の波を感じながら、俺は、──零士に手をつないでいてほしいと思った。
「あっ、あっ……! ぁッ……!」
軽い痙攣のあと、零士を思い切り締めつけながら、俺はイった。その刺激で、零士も俺とほぼ同じタイミングでイったようだった。俺のなかで零士のものがびくびくと動いている。それを感じながら、俺は深い余韻を味わっていた。
俺は転げ落ちるように零士のとなりに横たわった。いつまで経っても呼吸が元に戻らない。俺ほどではないにしても、零士も苦しそうに荒い息を吐いている。ぜいぜいと、ふたりぶんの呼吸音が部屋に響く。それがなんだかおかしくて、俺も零士も、目を合わせて笑った。
和やかな雰囲気に、俺は安堵した。思っていた以上に上手くできてよかった。零士が笑ってくれると、俺もうれしくなる。触れ合っている肩のぬくもりが心地いい。こうやって体の距離が近づくと、心の距離も近づくのかもしれなかった。
とはいえ、いつまでもこうしているわけにもいかない。寝不足は思いがけない怪我につながることもある。そう思った俺が、「そろそろ片付けようか」と重い体を起こそうとしたとき、零士がふいに真剣な顔をした。
「あの、八神さんも、俺に……」
と言いながら、もぞもぞと足を開いてみせる。コンドームをつけたまま、くたりと垂れた彼のもの。そのさらに先にある、小さな穴がすこしだけ見える。どうやら今度は俺が挿れる番だと言いたいらしい彼は、すっかり覚悟を決めた面持ちをしていた。
「それにはここをきれいにする必要があるんだ」
「そうなんですか?」
俺が説明すると、なにも知らない彼は目を見はる。
いつもの零士なら「ということは、八神さんはもともと今夜そういうことをするつもりで準備していたということですか?」とたずねるところだろう。だけど、いまの彼は恥ずかしそうな表情を浮かべるばかりで、なにも言おうとしない。それがなんだかいじらしくて、
「ちょっとだけ、触ってみようか」
と、俺は彼の会陰のあたりからうしろのあなへと指をすべらした。どちらのものかわからない精液が滑り落ちて、そのあなを濡らす。その感覚に驚いたように、零士の体はびくりと動いた。もちろん、このまま指を挿れたりはしない。固くすぼんだその場所は、まだ俺を受け入れることはとてもできないだろうけれど。
「零士は才能があるかもしれないね」
そう言って俺は笑った。そして、そんな俺のつまらない冗談に、
「嬉しくないです」
と、零士は本気で嫌そうな表情を浮かべるのだった。
そんなにむきにならなくてもいいのに、と思いながら、俺は零士にもう一度たずねる。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
零士は即答するけれど、俺は心配だった。
「さっきから大丈夫だって言ってるじゃないですか」
と、零士は声を荒げてみせたけれど、若干顔がこわばっている。彼が緊張しているのは明らかだった。それでも、自分から言い出した以上、一歩も引くつもりはないのだろう。そういうところも、俺に似ているかもしれないな、と苦笑する。
「分かったよ。じゃあ、痛かったり、無理だと思ったらすぐに言うこと」
「はい」
「言ってくれれば、すぐに止めるから……」
「分かってます、八神さん。早くしてください」
きっとにらみつけるように、零士が言う。だけど、パジャマも下着も脱ぎ、下半身があらわになった状態でそんな態度をとられても、こちらもどうしていいか分からない。
仕方がない。俺は覚悟を決めて、枕元のローションに手を伸ばした。キャップを外し、手のひらにとったローションをあたためる。それを零士の後ろのあなに塗り込めると、にちゃりと粘度の高い音がした。
「ぅっ、」
零士が小さく悲鳴をあげる。
「ごめんね、つめたかった?」
と、俺が言うと彼は無言で首を振った。まだ痛くはないはずだけど、違和感があったのかもしれない。手を止めるとまたにらまれそうだったので、入り口あたりをやさしくなでてあげた。くるくると円を描くように、あるいは、皺のひとつひとつをなぞるように。そうやってそこに触れられる感覚に慣らしていく。ちらりとのぞき見た零士自身は、当然のようになんの反応も示していない。この調子だと先は長そうだと思いながらも、俺はこの状況が楽しくなりつつあった。
「俺がしてる間、零士はこっちを触っててくれるかな?」
目線で指し示すと、零士はさっと顔を赤くした。
「……っ、それは!」
「零士には早く気持ちよくなってほしいんだ。ほら、俺は見てないから」
そううながしてみたけれど、固まったままだ。「俺が両方してもいいんだけど」と冗談めかせて言うと、渋々といった様子で零士自身を握った。
「じゃあ、続けるね」
ひと声かけてから、俺はまた指の動きに集中する。さっきよりは緊張がとけてきたのだろう、あながすこしゆるんでいる。そこへ傷つけないようにゆっくり、ゆっくりと、俺の薬指を差し込んだ。
「ぅ、あ!」
異物が侵入する感覚に、零士がうめく。
「なるべく手をとめないで」
俺に言われて、嫌そうな表情を浮かべたことは顔を見なくても分かった。
たとえはじめてでも、力を抜くことさえできれば指一本ぶんくらいは簡単に飲み込むことができる。といっても、これは俺の経験でしかないから、零士にも当てはまるとは限らないけれど、この調子なら大丈夫そうだろう。指を小刻みに動かしながら、奥へと進めていく。まだ誰も触れたことのないその場所へと俺の指が触れている。その感覚に、俺自身も熱くたぎりはじめていた。
「っ、ぁ、……ぅッ、ぐ」
俺の指を外へと押し出そうと、零士のなかが何度も収縮する。それをなだめるように粘膜をなでてやりながら、ようやく薬指のすべてが零士のなかへとおさまった。
「入ったよ、零士」
額から落ちてくる汗を腕でぬぐいながら俺が言うと、零士はすがるような目を向けた。ゆるく立ち上がったものを握ったまま、はじめての感覚に混乱している。そんな彼を安心させたくて、俺は唇にほほえみを浮かべてみせた。
「いまから、零士が気持ちよくなれるところを探すから……」
と、俺は零士のなか、腹のほうを探るように刺激する。
「えっ! あ、ぅ、あ、あッ!!」
「ここ……、かな?」
零士の表情をうかがいながら、指の位置を移動させる。
「それとも、このあたり? ……零士、手、止めちゃだめだよ」
こっちも気持ちよくなっていたほうが、前立腺の位置が分かりやすいのだ。有無を言わせず、零士の手に俺の手を重ねてすこし動かしてみる。
「こっちもちゃんと動かして……、こうやって、ね?」
「んっ、あ、あ! や、やがみさん……っ!」
そうやって一緒に上下に擦ってあげると、零士のものはすぐに大きくなった。その素直な反応に、思わずくすりとしてしまう。
「最初はちょっと変な感じがするかもしれないけど、だんだん気持ちよくなってくるから」
実際に、すこし前にはどこにあるのか分からなかった前立腺がぷっくりと膨らみはじめている。そこに押し当てるように指を曲げて動かせば、零士は身をよじりながら大きく喘いだ。
「あっ! あっ! ああぁっ!」
大きく見開かれた彼の両目から、涙がぽろぽろと流れる。
「それとも、もう気持ちよくなっちゃったかな?」
そんな俺の意地悪な言葉に言い返せないほど切羽詰まってるらしい。零士はぐずぐずに溶けきった表情で、呆然と俺を見つめている。
「いいんだよ、……もっと気持ちよくなろうか」
そう言って、俺は指の動きを再開させた。やさしく、やさしく、気持ちいいことだけを覚えさせるように、指の腹のいちばんやわらかい部分でいっぱい擦ったり、押したりしてあげる。その動きに合わせて、零士も自分のものを握った手を動かす。あんなにも恥ずかしがっていたのに、いまは必死になって自分を追い詰めている。「気持ちいい」「早くイキたい」言葉になんてしなくても、そう思っているのが伝わってくるみたいだった。
薬指を抜き、かわりに中指を挿れても気づかないくらい、零士のなかはやわらかくほぐれていた。そろそろかな、と前立腺をほんの少しだけ強く押す。すると零士は甘く甲高い声をあげる。はじめてなのに、ちゃんとここで気持ちよくなれている。そのことを褒めてあげたくて、
「いい子だね」
と、俺がささやくと、零士はひときわ切ない声をあげてイッた。
「……あ、あ、ッ、ああ、……あ、……ッ!」
ぐっ、ぐっ、と食いしめるように零士のなかがうねる。それと同時に、放出された精液が零士の腹の上にびゅっと散った。
「いっぱい出たね」
なかから指を抜きながら、俺は言う。零士は目を閉じて、まだ悶絶の表情を浮かべていた。なかを刺激されながらイクと、痺れるような快感が長く続く。その感覚は、慣れるまですこしつらいかもしれない。零士にはちょっと刺激が強すぎたかな、と思ったけれど、不思議と後悔はなかった。俺の指先には、まだ彼のなかのぬくもりがほんのりと残っている。零士のなかのやわからさも、この声も、表情も、きっと世界で俺だけしか知らない。そのことがただうれしくて、俺は、汗で湿った彼の前髪を梳いた。熱を出している子どもの頭をなでるように、何度も何度も。
そうして呼吸も落ち着いてきたころ、腹の上で乾きはじめている精液を見つめて「そういえば」と零士が言った。
「精液の味は、その人の食べたものによって変わると聞いたことがあります。八神さんのは、フルーツの味がしそうですね」
神妙な顔をしてそんなことを言うのがおかしかった。
「はは、俺の味に興味がある?」
「そうとは言っていません」
「冗談だよ」
と、笑いながらも、俺は零士は一体どんな味がするんだろうと思った。零士は特定の食べ物ばかりを食べるようなことはしないから、想像するのは難しかった。──零士の精液も、汗も、涙も、この舌で味わってみたい。なによりも、そんな欲望を抱いた自分に驚いていた。
そんな俺の妄想なんて知るよしもない零士は、信頼に満ちた表情で俺を見つめている。──あとすこし、近づいてしまったら。その唇に、キスできる。赤みの差した彼の唇を見つめながら、俺は思う。もしかすると、零士は拒まないかもしれない。俺の指をなかに受け入れてくれたように、零士は俺のキスも許してくれるのかもしれなかった。
だけど、あとすこし、ほんのすこしでも零士に近づいてしまったら。俺はきっと、なにもかもを放り出して、零士を愛したいと思ってしまうだろう。俺の愛のすべてを注ぎ込んで、零士を満たしたい。零士の愛がほしい。そう望んでしまう。
「八神さん?」
急に黙りこんだ俺を心配するように、零士が呼んだ。青みがかった彼の瞳は、夜の海の静けさをたたえて揺れている。「せっかくだしこのまま一緒に寝ようか」と誤魔化すように言いながら、俺はぼんやりとした不安をぬぐい去ることができなかった。
この間の夜、零士とそういうことがあってから、俺の胸はずっとざわついていた。体調が悪いわけではない。むしろ、ぼんが「最近のソウちゃん、なんかセクシーさが増してるんですケド!」と褒めてくれるくらい調子がよかった。聖人も「そうだね、表現の幅が広がったような気がするね」と同意してくれた。俺自身の感覚としても、毎日新しい発見があって、すこしずつ理想のダンキラに近づいていっている手応えがある。
それなのに、いつまで経っても俺の気分は晴れなかった。あの夜のことがまだ引っかかっている。それは楽しくて幸せな思い出のはずなのに、ふとした瞬間に零士と目が合うと、妙に落ち着かない気持ちにもなった。
夜野零士。俺のルームメイトであるところの彼は、まだ部屋に戻って来ていない。明後日が提出期限の課題を早めに済ませておこうと机に向かったはずなのに、零士のことが頭をちらついてまったくはかどっていなかった。
持ち主不在のベッドは、今日も皺ひとつない状態に整えられている。こうしてあらためて彼のスペースを見ていると、ブルーを基調にした整理整頓が行き届いてるその場所はいかにも子供部屋といった雰囲気で、そこであんなことをしただなんて信じられないくらいだった。
はぁ、とため息をつきながら、俺は考える。「俺の本命はダンキラ」。軽い気持ちでそう言ってきたわけではない。
いままでにクラスメイトやラヴァーズたちから告白されたことは何度もあったけれど、すべて断ってきた。告白してくれた女の子たちは、みんなきらきらと輝いていた。彼女たちを見ていると、きっと誰かに恋をすることはとても素敵なことなんだと思う。相手を想う気持ちが、その人自身を磨き、魅力的にする。そうやってお互いに高めあえるような相手といつか出会うことができたら、と思わないわけでもない。
でも、それ以上に俺は、みんなのことが大好きで、みんなに愛を届けたかった。家族も、友達も、クラスメイトたちも、世界中のまだ会ったことのない人たちさえも、みんな幸せにしたかった。そして、そんな俺の夢を笑わないで一緒に踊ってくれる聖人とぼんがいて……それだけで、俺は幸せだった。
だから、たったひとりの誰かを特別に愛することは、いまはやめよう。
ずっと、そう思っていたはずなんだ。
それなのに、俺は……、と手のなかのシャープペンシルを弄びながら、いつまでも答えを出せなかった。
「あっ、いたいた! おーい、創真!」
放課後、コーチとシアターベルのメンバーででレッスンルームに向かう途中、急に後ろから呼び止める声がした。
「……ん? ソラ?」
振り返ると、ソラを先頭にメリーパニックのメンバーがこちらへと走ってくるのが見える。制服のままそれぞれのバックを抱えているところを見ると、授業が終えてすぐに俺たちを探しに来たんだろう。
「久しぶりにオレたちとダンキラしようぜ!」
「ちょっとソラ! また勝手に……」
ずいぶん遠くから走ってきたのか、メリーパニックの三人は汗をかいている。唐突に突きつけられたダンスバトル。といっても、この紅鶴学園ではこれくらいのことは日常茶飯事だ。
「別に俺たちはかまわないよ。そうだろう、創真?」
聖人も特に驚く様子もなく、そう答える。
「もちろん、いつでも受けて立つよ」
俺が指を鳴らして不敵に微笑むと、周りにいた人々が沸き立った。ダンキラはオーディエンスの反応で勝敗が決まる。つまり、もうバトルは始まっているようなものなのだ。
「あっ、もうラヴァーズのみんなが集まって来ちゃったよ」
「どうする? まひる、零士」
「……やるからには、負けません」
まっすぐに俺を見つめて、零士が言った。
「そうこなくちゃ」
俺もそれを見つめ返して、もう一度指を鳴らした。
準備運動をしながら、横目でメリーパニックの様子をうかがう。リズム体操のような動きで全身を伸ばすソラ。入念にストレッチをするまひる。そして零士は、屈伸をしているようだった。生真面目な彼らしく、きっちりとした動きで膝を曲げ伸ばししている。彼が上体を起こしたときに、ふと零士と目が合った。赤い炎よりも青い炎の方が温度が高い。彼の瞳はそのことを感じさせる。俺はすぐに微笑んでみせたけれど、正直にいうと、ちゃんといつも通りの顔ができていた自信がない。じわりと頬が熱くなるのを感じながら、俺は顔をそむけた。
「そろそろ行こうか」
足のストレッチを終えたらしい聖人が言う。ぼんはもう、聖人のとなりに立って俺を待っていた。早く、気持ちを切り替えないと。そう思った俺は、
「しっかりしろ、八神創真」
と、自分にだけ聞こえる声でつぶやいて、ぼんと聖人の元へと駆け寄った。
その効果だろうか、聞き慣れた「HBB」が流れ出すとすぐにダンキラに集中できた。大人っぽい手の振りと、繊細なステップの組み合わせで構成されたこの曲は、シアターベルが得意とするワークスだ。俺がポーズを決めるたびに「きゃーっ!」「八神くーん!」とラヴァーズのみんなからの歓声が飛んでくる。それに応えるように不敵な微笑みを唇にのせれば、さらにオーディエンスが湧くのが分かった。俺は素早くぼんと聖人とアイコンタクトを交わす。“みんなもう、俺たちに釘付けだ。”まなざしだけでそのことを確認すると、俺たちのステップはもっと弾けた。
果たして勝利したのは、シアターベルだった。
肩で大きく息をしながらも、俺は充実感でいっぱいだった。こんなにも気持ちよく踊れたのは久しぶりだ。細胞のひとつひとつが音楽とダンスによろこんでいるみたいに、体中をどくどくと熱く駆け巡る血液を感じる。
「みんな、ありがとう!」
俺たちを取り囲んだオーディエンスに向かって、大きく手を振る。首筋をたどって胸のあたりまで流れてくる汗がTシャツを濡らす。踊る前よりも赤く染まったように見えるそれすらも、ラヴァーズたちの鑑賞の対象だ。彼女たちのまとわりつくような視線に快感を覚えながら、俺は笑顔で応えた。
「八神くん、お疲れさま」
そんな俺に、コーチがタオルを差し出した。
「コーチこそ、お疲れさま。今日勝てたのも、君が力を貸してくれたおかげだよ」
軽くウィンクをしながら、俺はタオルを受け取る。顔や首筋、腕のあたりの汗を拭きとると、ずいぶんとさっぱりした。バトルには勝利したものの、体も心もまだまだダンキラを求めている。この後のレッスンも楽しみだな、と俺は上機嫌だった。
コーチの様子がおかしい、と気づくまでに時間がかかってしまったのはそのせいだろう。なんとなく反応がぼんやりしているし、心なしか顔も青ざめて見える。
「コーチ、また寝不足かい?」
以前からコーチは無理をしすぎるきらいがあった。コーチングの勉強に熱中するうちに、いつの間にか夜が明けてしまったのだと聞いたこともある。俺もそういう経験があるから気持ちはわかるけれど、目の前でこうして具合の悪そうなコーチを見ると心配だった。
「そんな風に見えるかな?」
「うん、あまり無理はしないで」
と、俺は言った。「俺が言っても説得力がないかもしれないけど」と付け足すと、俺が過労で倒れたときのことを思い出したのだろう、コーチはやっと笑顔を浮かべてくれる。
「眠れないなら、添い寝をしてあげようか」
俺がびっきりの甘い声でささやくと、コーチは慌てて首を横に振った。
「えっ?! いや、それはその……!」
「ははは、コーチは素直だね」
これですこしは休んでくれるといいんだけど、と思いながら俺は笑った。コーチも恥ずかしそうに笑っている。顔色もさっきよりはよくなったようだった。
そんな会話をしているうちに、集まっていたオーディエンスはすっかりいなくなっていた。「じゃあ、そろそろ行くね」とコーチも荷物をまとめて、レッスンルームの方へ走っていく。ぼんと聖人を待たせると悪いな、と俺もバッグにタオルやペットボトルをしまいはじめるたとき、後ろに誰かが立っていることに気づいた。
「八神さん」
ふり返らなくても誰だか分かる。聞き慣れた声に呼ばれて、胸がどきりとする。
「零士」
努めていつも通りの先輩然とした声で、俺は言った。手を止めて、彼の方へと向き直る。零士は、うん眉を吊り上げて怒ったような表情で俺を見つめている。
「八神さんは、誰にでもああいうことをするんですか」
それは、質問というよりは詰問だった。零士がなにを伝えたいのか一瞬分からなかったけれど、すぐにさっきのコーチとの会話を思い出して合点がいく。「添い寝」という言葉から、俺と零士の秘密の行為を連想したんだろう。零士にも「添い寝しようか」と何度も言ったことがあるせいかもしれない。誰とでもああいうことをする男だと思われているのは心外だったけれど、たしかに俺にとって零士が特別だと言葉にした覚えはなかった。
「八神さん、答えてくださいっ!」
零士はいまにもつかみかかりそうな勢いで言う。だけど、彼にどう答えるべきなのか俺にもよく分からなかった。零士のことを大切だと思う。零士と深くつながれてよかった。そう思う気持ちに嘘偽りはない。俺たちは、同じゴールド生の仲間で、先輩と後輩で、ルームメイトで……、たぶんそれ以上の関係だ。ただ、それをなんと呼ぶべきなのか、俺は決めかねていた。
「零士はどう思う?」
だから、苦し紛れに俺はそう言った。それが彼にとって満足のいかない答えだったことは、すぐに分かった。「もう、いいです」と苦々しげに吐き捨てて、零士は背を向けてしまったから。引き止めるまもなく遠ざかっていくその背中は、ひどく傷ついているように見えた。
「……零士だけだよ」
もう聞こえるはずもないのに、俺はつぶやく。俺がああいうことをするのも、したいと思うのも、零士だけだ。他の人とはしようと思ったこともない。だけど、この気持ちをそのまま零士に伝えてしまったら、なにかが変わってしまいそうで、俺は怖かった。
「創真、あれでよかったのかい?」
いつの間にか近くに来ていたらしい、聖人が言った。聖人は目を細めて、遠ざかっていく零士の背中を見つめている。
「なんのことかな? 聖人」
「いや、創真が決めたことならいいんだ」
どこまで事情を察しているのかうかがい知れない、曖昧な表情を浮かべた聖人に、俺は返答につまってしまう。聖人がいつものように「悩みがあるなら、いつでもお兄さんが相談にのるよ」と言わないのは、俺が言いたくても言えないのだと分かっているからかもしれなかった。
俺は零士との秘密を、誰にも言うつもりはなかった。──そう、俺が決めたことだ。とっさのことだったとはいえ、俺は、零士よりも自分の夢を選んだ。それがきっと、俺自身の答えなんだろう。
そう結論づけながら、俺はぼんと聖人に「行こうか」と声をかけた。
それからしばらくの間、零士は口をきいてくれなかった。それどころか、なるべく俺と顔を合わせないように避けられている。朝、目が覚めると零士はもう部屋にいなかったし、夜は俺が部屋に戻るより前にベッドにもぐりこんでしまっていた。お互いの体のことを知り尽くしているはずのに、いまは声を交わすことすらできない。当然といえば当然の零士のその態度に、俺が傷つく資格なんてないのだろう。
だけど、このまま気まずい雰囲気で過ごしていると、零士の日常生活にも、ダンキラにも支障が出る。たまに教室の窓から見かける零士の姿は、遠目にもひどく消耗しているように見えた。
元通りの関係になるのは無理でも、なんとか普通のルームメイトとして暮らせる状態にまで持っていきたい。そう思った俺は、これまで通りの態度で零士に接し続けた。もちろん、零士がそれに答えてくれることはなかった。「おはよう」と言っても「おやすみ」と言っても、なにも返事は返ってこない。それでも、しつこく声をかけ続ける俺は、零士にしてみれば迷惑な存在だったにちがいない。
その夜も、だから俺は零士の返事を期待してはいなかった。
「おやすみ、零士」
「おやすみなさい」
と、返ってきた声に驚いてしまったくらいだ。思わず「零士」と叫びたくなったけれど、ここで欲を出すのはよくないだろう。俺は黙って零士のいる方向を見つめた。じっと見つめているうちに、部屋の暗さに目がなれて、だんだんと零士の輪郭がはっきりと浮びあがってくる。彼は仰向けの状態で身じろぎひとつせずに横たわっているようだった。
お互いに手を伸ばせば届くような距離にいるのに、零士がどうしようもなく遠い。心も体も、あんなにも近づいたと思っていたのに。ふたりの間には、重く苦しい沈黙が流れていた。
そんな朝まで続くかに思えた沈黙を破ったのは、意外なことに零士だった。
「八神さんのことは、苦手です」
きっぱりとした口調で、零士が言う。
「正直に言って、あなたがなにを考えているのかが分からない」
感情を抑圧した零士の固い声。それを聞いて、俺自身にも分からないことを、零士が理解できないのは仕方のないことだろうと思った。でも、それを伝えるわけにもいかなくて、俺はただ悲しい気持ちになる。
「だけど、嫌いにはなれなかった。……俺は、八神さんのダンキラに対する情熱を、尊敬しているんです」
普段ならうれしいはずの言葉が、痛かった。尊敬。それは、いまの俺には最もふさわしくない言葉だ。俺は自分勝手な理由で、零士を傷つけた。俺は彼に尊敬されるような先輩なんかじゃない。
だとしても、零士がそう思うことで気持ちの整理ができるなら、俺はそれを受け止めるより仕方なかった。せめて、今後は零士が心から尊敬できるような先輩でいられるように努力するしかない。
「グラッチェ♡」
ぱちん、と指を鳴らして俺は言った。きっといつもの八神創真ならそう言うだろうと思われる朗らかさで。
「そういうところが、苦手なんですよ」
零士は大げさにため息をついて、背を向けた。彼のたてるシーツの衣擦れすらもなつかしくて、俺は泣きたくなる。すこし怒ったような零士の声には、ただのルームメイトとしては十分な親密さが戻っていた。
金曜日の放課後、俺は実家に帰る予定だった。そのまま休日を実家で過ごして、日曜の夜に寮に戻ってくる。その予定を零士に伝えて部屋を出たのは、たしか五時半くらいのことだったと思う。
紅鶴駅に向かう途中、寮の部屋に忘れ物をしたことに気づいた俺は、慌てて道を引き返した。来月行われる合宿に参加するには、両親の同意書へのサインが必要なのだ。
俺が部屋を出てまた戻ってくるまでの、三十分にも満たない間に一体なにがあったのかは分からない。三〇三号室の扉の向こうから、零士の声がかすかに聞こえてきていた。最初は誰かと通話でもしているのかと思っていた。だけど、どうやらそういうことではないらしい。
「っ、ぅ、……、ぁ!ッあ!」
「えっ?」
ドアノブを回そうとした手が、思わず止まった。
「……ぁ、ぁっ、……ぁ、ッ!」
一応声を我慢しようとしているのだろう。けれど、そのせいでほんのすこしだけくぐもった零士の声は、かえって艶を増している。俺のいない部屋で零士がなにをしているのか、想像するのは難しくなかった。
「ぁっ……ん、んんっ、あ!っあ……!」
さすがの俺でも、このタイミングでドアを開ける勇気はなかった。零士にもそういう気分のときはあるだろうし、これ以上嫌われるような行動は避けたい。同意書の提出期限までにはまだ時間がある。今日はあきらめて、このまま駅に行こう。俺がそう思った、ちょうどそのとき、
「……八神さん、」
と、俺を呼ぶ声が聞こえた。零士は俺がここにいることを知らないはずだ。もし知っていたら、こんなことをするはずがない。だとしたら……、と考えると急に鼓動が速くなるのを感じた。
「あっ、あっ、ああっ! や、がみ、さん……ッ!」
そのあいだにも、零士の切ない声が絶え間なく聞こえてくる。ふたりで重ねてきた数え切れないくらいの夜。零士の声は、そのときからまるでなにも変わっていないみたいだった。その声をただ聞き続けることに絶えられなくなった俺は、ドアを開けた。
「零士、開けるよ」
一応声をかけてから入ったけれど、あまり意味はなかっただろう。
「や、八神さんっ!? ちょっと……!」
と、言ったきり、零士は驚きのあまり固まった。まんまるに見開かれた目は、信じられないものを見る目で俺を見つめている。あらわになった下半身は、さっきまで彼がなにをしていたかを物語っていた。
だけど、そんなことにはおかまいなしに、俺はボストンバックを乱暴に床に投げ捨てて、零士の方へ近づいていった。
「零士、いま俺のこと……、」
俺の言葉に、零士の顔が真っ赤に染まる。
「それ以上、近づかないでください!」
いまにも泣き出しそうな顔でそう叫ばれてしまったけれど、たった数歩の距離しかない部屋のなかだ。そのときにはもう、零士のベッドまで近づいたあとだった。
「そんなに怖がらないで?」
「いい加減にしてください! そういうことじゃないって、見れば分かるでしょう!?」
精一杯やさしく言ったつもりだったけれど、俺の言葉は余計に零士を怒らせただけだった。見れば分かる。そう言われて、たしかにそうかもしれないと俺は思う。まだ夕方なのにカーテンが引かれた薄暗い部屋。乱れたシーツ。眼鏡をはずしたあどけない顔。潤んだ瞳。どろどろになった手と下半身。
──そうだね、怖いというよりも恥ずかしがってるんだよね、零士。こんなところを見られて、俺を呼びながらしている声まで聞かれて。どんな顔をしたらいいのか、分からなくて。だけど、そんな君のことも、俺は愛おしくてたまらないんだ。
心のなかでは、零士への想いが溢れて止まらないのに、それらはなにひとつとして言葉にはなってくれなかった。ただ、君の傍にいられてうれしかった。君に、触れたかった。俺の気持ちを全部まるごと伝えたくて。俺は君に、キスをした。
「……っ、は」
唇と唇が一瞬だけ重なって、すぐに離れる。零士はなにをされたのか分からないみたいに、呆然と俺を見つめていた。その目に、拒絶の色は浮かんでいなかった。
「いまはなにも言わないで……、俺に身を委ねて」
まだ迷うように、零士のまつ毛が震えている。そう、いまだけでいい。いまだけでいいから、俺を呼んでいた君を、愛していたい。
離したはずの唇を、すぐに零士の唇へと押し付ける。今度は手加減したりなんかしない。彼の唇を食むように、俺の唇で愛撫する。酸素を求めるように開かれた唇に、舌をねじこむ。そのまま舌を絡ませ合いながら、彼の甘い唾液に酔ってしまいそうだった。
キスで力が抜けてしまったのか、いつの間にか零士は俺の背中にしがみつくように手をまわしている。引っ張られた制服のジャケットと、その下のシャツにぐっと皺が寄っている。もっと、零士に触れたい。零士に触れてほしい。そう思うと我慢ができなくて、焦る指先でシャツのボタンをすべて外した。
「零士、……俺に触って」
シャツの間からのぞく肌に、彼の手を添える。俺の腹筋のあたりに置かれたそのぬくもりを感じながら、俺は、彼の体の上でストリップショーでもするように服を脱いだ。俺の体なんて、寮生なら誰だって見慣れているはずだ。それでも、零士が思わず触れたくなってしまうくらいセクシーに見えていたらいいな、と思いながら、俺はシャツを、スラックスを、下着を、とひとつずつ剥ぎ取っていく。
「やがみさん」
そろり、と零士の手が動きはじめる。それを合図に、俺は零士の首筋にキスを落としながら、彼のシャツのボタンを外した。普段はきっちりとネクタイまで締めている彼の首は、顔を近づけるとすこし石鹸の香りがする。俺と抱き合ったら、すぐにフルーツの香りが移ってしまうだろうなと想像しながら、俺は、興奮を抑えられなかった。
「っ、あっ、」
俺の唇に翻弄されながらも、零士の手は俺の脇腹のあたりを撫でている。そんな場所、触られてもくすぐったいだけだと思っていたのに、頭が痺れるくらいに気持ちがいい。俺はベルトを外し、もがくようにスラックスと下着を脱ぎ捨てる。ぐちゃぐちゃになったそれを足先でベッドのはしに追いやりながら、早く零士とつながりたいとばかり考えていた。
「零士、れいじ……っ、ぁ!」
全身の素肌が触れ合う感覚が、たまらないほど心地よい。俺は夢中で名前を呼びながら、零士を抱きしめてキスをした。溶け合ってしまいそうなほど唇を合わせているのに、零士が足りなくて、苦しくて、胸が張り裂けそうなほど痛む。こんなにも身勝手な感情を、愛とは呼べないのかもしれない。そう分かっているのに、俺は、もっともっと零士がほしい。零士の全部がほしい。俺の全部を、受け入れてほしい。そう思うことを止められない。
さっきから触れ合っている下半身が、どうしようもなく熱かった。ふたりが動くたびに自然と擦れて、硬さを増していくそこが、熱くて熱くてたまらない。シーツを汚さないように自分でつけたのだろう、零士のものに被せられたコンドームの先には、透明な先走りが溜まっている。
だけど、零士はそこを弄んでいたわけではないらしい。
「ぁ、ッ、……あっ!」
零士の後ろへと指を伸ばすと、零士が喘ぎ声をあげた。想像した通り、そこはやわらかくほぐされて、誘うようにひくひくとうごめいている。
「……ここでしてたの?」
俺がたずねても、零士はなにも答えない。ただ気まずそうに目をそらすらだけだ。あんなにも切ない声で俺のことを呼んでくれていたのに、ずいぶんとつれない態度だった。
「今日だけ? それとも、いつもそうなのかな?」
そう言いながら、俺は彼のなかへと指を挿れた。思ったよりもスムーズに指を飲み込んでいく様子から察するに、たぶん何回か自分でも触ってみたのだろう。
「いつも、俺のことを考えてくれてた……?」
「あ! あっ、ああっ!」
ぐっと前立腺のあたりを押し込むように触れると、零士は甘い悲鳴をあげた。なかを人指し指でじっくりと擦りあげながら、零士の反応を探る。どうやら痛みはないようだ。どんなときでも冷静さを失わない彼が、いまは溶け切った表情で俺を見つめている。
「俺も、零士のことを考えてしてたよ」
「はっ? えっ、ッ、ぁっ……!」
零士が動揺しているすきに、俺は指を二本に増やす。枕元に置いてあったローションを借りて、なか滑りをよくしながら慎重に指を動かすと、零士の屹立がびくびくと反応するのが見えた。
「あっ……、あっ!ああっ、あっ、あっ!」
「気持ちよさそうだね」
俺の指の動きに合わせて、零士の唇から声が漏れる。このまま咥えてもいいんだけど、零士は嫌がるかもしれない。そんなことを俺が考えていたとき、零士が言った。
「やがみ、さんも……っ、気持ちよくなって、ください……」
と、俺の腕をつかんで訴えるようなまなざしを向けてくる。
「俺だけじゃなくて、やがみさんも一緒に……っ!」
そう言いながら、彼のなかは俺の指先をきつく締めつけてくる。
「零士、本当に君は……、」
言葉にしようとしたなにかは、すぐに欲望に押し流されて、消えてしまった。零士は、いつも俺の身勝手な愛を受け止めてくれた。俺のわがままを許してくれた。やさしくしたい。大切にしたい。いくらそう思っても、上手くできなくて。それなのに、君はまだ俺を求めてくれるの?──そんな思いをぶつけるように、俺は、もう一度零士にキスをした。
零士の唇から、溢れてしまった唾液がつうっと流れる。たぶんふたりぶんの唾液が混じっているそれを舐めとって、俺は枕元のコンドームへと手を伸ばした。
「借りるよ」
と、声をかけたけれど、零士の反応は鈍い。俺自身にコンドームをつけている手元をぼうっと眺めているだけだ。そのまるで見惚れているみたいな熱い視線にあてられて、俺は唇の端をちろりと舐めた。
零士のうしろに、俺自身の切っ先をあてがう。それは勢いあまってぬるりとすべってしまってしまいながらも、ゆっくり、ゆっくりと、零士のなかへ入っていった。
「あっ! あっ! ん……っ、は、ああッ!!」
全身を震わせながら、零士は大きな声をあげた。と同時に、彼の内側のわななくように軽く収縮する。それだけでもう、イッてしまいそうだった。ぐっと歯を食いしばってその衝撃に耐えながら、俺は零士が落ち着くのを待つ。
零士は俺の首にしがみついたまま、しばらくの間もだえていた。そんな彼をあやすように頬や首、俺は鎖骨のあたりにキスを落としていく。汗と唾液とで湿った彼の素肌は白くなめらかで、すこし強く吸うだけで赤い痕が残ってしまう。いっそ噛みつきたいような衝動を俺がこらえているうちに、零士の呼吸のリズムはだんだんと元に戻ってきたようだった。
「零士、動くよ」
ささやいた俺の声は、熟しすぎた果物みたいに甘ったるく響いた。零士がかすかに頭を動かして、うなずいてくれたのが見えた。それを確認したあとで、俺は腰を前後に動かしはじめた。
ダンキラにも腰をセクシーに動かす振り付けがあることにはある。そういう振りは得意な方だと思っていたけれど、そんなことはなかったのだといまさらながらに思う。特別な誰かを愛するとき、こんな風に自然といやらしく腰がうねることも。こうやって相手の動きに合わせると、とてつもなく気持ちがいいことも。気持ちがよすぎると、腰が勝手に跳ねてしまうことも。俺はいままで知らなかった。
「あっ、あっ、あっ……! ん、ぁっ!あっ!」
浅いところをていねいに、俺自身を擦り付けるように動かすと、零士は息も絶え絶えに喘ぐ。ここだけでこんなにも気持ちよくなれるくらい、何度もひとりで練習したんだろう。生真面目な彼がどんな顔でそんなことをしていたのかを想像すると、ひどく興奮した。それも俺が全部したかったな、なんて、そんなことを考えると、零士の弱いところを攻める腰の動きを止められない。
「ぅ、ッ、あっ、あっ!ああっ!あっ!」
強すぎる快感から逃れようと身をよじる零士の腰をつかんで、前立腺を穿ち続ける。零士のなかは、あたたかくて気持ちがいい。ずっとこのままでいられたらいいのに。そう思いながら、うっかりイッてしまわないようにペースを調整する。ゆっくりと動かしたり、止まったり、急に早くしてみたり。そうやって俺が彼のなかを堪能しているうちに、いつの間にか零士は軽くイッてしまっていたようだった。
「ひっ、ぁ、ッ! や、がみ、さんっ! あっ、ああ……っ!」
彼のものを覆っていたはずのコンドームは、もうなんの機能も果たしていない。溜まった先走りと精液の重みでずり落ちかかっているそれは、零士の腹を汚すばかりだ。
「……っ、零士、」
ごめん、という言葉を飲み込んで、俺は激しく腰を動かす。最奥まで俺を受け入れながら、「やがみさん」と、零士が何度も呼ぶ。「やがみさん、やがみさん、やがみさん」悲鳴に混じって聞こえる、その声が愛おしくて、俺は気が狂ってしまいそうだった。獣じみた声で、零士を呼ぶ。腰を振りたくる。唇をふさぐ。もう自分がなにをしているのか分からないくらい、気持ちがよくて。──零士、零士、零士。俺のすべてを零士が満たしていく。
イッてしまった瞬間は、あまりの気持ちよさに声も出なかった。全身がぞくぞくと震えるような感覚に、零士を気遣う余裕もない。
「ぁっ、あっ、ああっ、……ッ、ぅ、あぁっ、あ!」
零士がひときわ大きな声で喘ぐ。俺はただただ快楽を追い求めて腰を打ちつけながら、最後まで出し切った。
そのときの俺は、きっと間抜けな顔をしていたにちがいない。誰よりも間抜けで、格好悪くて、だけど、世界中の誰よりも幸せな男。それが、いまの八神創真だった。
ふと見下ろした腹のあたりには、もう一度イッてしまったらしい零士の精液がべっとりとついていた。たぶん、シーツもどこか汚れてしまっているだろう。その上、ふたりのありとあらゆる体液が混じり合ったせいで、部屋の空気はむわりとしている。
熱に浮かされていた体と心は、次第に落ち着きを取り戻そうとしている。体は妙に重くて、喉が痛い。きっと零士は、腰も痛むはずだった。俺の体の下でまだ荒い息を吐いている彼は、泣きはらしたような顔で目を閉じている。そんな姿のまま俺の腕のなかに収まっている彼を、もう弟のようだとは思えなかった。
そのまぶたが開いたとき、彼の瞳に俺はどんな風に映るんだろう。零士の気持ちを聞くのが、怖かった。さっきまでたしかに感じていた、ふたりの間にかかっていた魔法。もしもそれが解けてしまっていたらと思うと、身がすくむ。
いつまで経っても俺が帰ってこないから、心配した両親が電話をかけてきたのだろう。床に投げ出されたままのスマホが振動しはじめた。ブーッ、ブーッ、と低い音が響く。そのまま十回くらい振動をくり返したあとで、ようやくスマホは静かになった。
両親には今日は帰れなくなったとメッセージを送っておこうと、俺は体を起こそうとした。そうできなかったのは、零士が俺の腕をつかんだせいだ。ぐっ、と引っ張られる感覚。どこにも行かせまいとするように、零士は俺を自分の方へと引き寄せる。
「零士?」
「八神さん、」
気だるげな、ともすれば怒っているようにも聞こえる声で彼が言う。
「……いまは、なにも言わないでください」
そのまま俺の胸に顔をうずめてしまった零士の、丸い後頭部をやさしく撫でた。いくら撫でつけても跳ねてしまう毛先を、手のひらに感じる。零士吐く息が、俺の胸をしっとりと濡らす。それが冷えはじめた体をあためてくれるから、俺はこのまま零士を離したくないと思う。
ふたりの間には、言葉にできない想いが確かにあった。この手で、唇で、声で、お互いのすべてで、そのことを分かっていた。それでもそれを言葉にできないのは、俺たちが似た者同士だからなのだろう。
負けず嫌いで臆病な俺たちは、先に相手がそれを言葉にしてくれるのを待っている。
夜が明けたら、俺たちはただのルームメイトの関係に戻っているのかもしれない。あるいは、おはようのキスでもするのかもしれない。いまはまだ、なにもわからない。
それでも、黙ったままベッドの上で抱き合うふたりは、まるで恋人同士みたいだと俺は思った。