チアキ×相談員
9:45AMの目覚まし時計
「えっ」
彼女のほとんど叫ぶような声に、俺は目を開けた。
「どうしよう、急がなきゃ!!」
がばり、と掛ふとんを跳ね飛ばす勢いで彼女が起き上がり、そのまま洗面所の方へと走っていくのが見える。
どうやらふたりとも目覚ましをかけないまま眠ってしまったらしい。俺はまだぼんやりとした頭で時刻を確認する。9:45AM。そういえば、午前中に人と会う用事があるのだと彼女が言っていたような気がした。
ゆっくりと体を起こしながら、おかしいな、と俺は思う。こういうとき──つまり、彼女の悲鳴が聞こえたとき──は、すぐに体が反応するはずなのに。緊急度がそれほど高くないことが分かっているせいなのか、今朝は慌ただしく支度する彼女を目で追うばかりで、なかなか覚醒しようとしない。
ベッドのシーツにも、俺の体にも、昨夜の彼女のぬくもりがまだ残っている。ここから抜け出すのは名残惜しいけれど、仕方がない。彼女を見送るために、俺はベッドの脇に落ちていたパンツを履いて洗面所へと向かった。
「おはよう」
鏡のなかの彼女に俺は言う。
「おはよう、チアキくん」
と、ピアスをつけながら答える彼女の、そのつむじのあたりにキスを落とす。リップを塗ったばかりの唇が、微笑みを浮かべる。昨日のうちに着る服を用意していたのか、彼女の支度はほとんど終わっていた。
せめて珈琲くらいは、と思ったけれど、時間がないからと素気なく断られた。こんな風に慌ただしく見送るのは本位ではないけれど、俺の自業自得だから強くは言えない。前から今日の予定を伝えられていたはずなのに、すっかり忘れてあんなに……、と昨夜のことを思い出しそうになって軽く首を振った。
玄関のポーチで、いつもより低めのヒールを履いた彼女が、背伸びをして俺にキスをしてくれる。俺はすこし体をかがめて、頬でそれを受け止める。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、気をつけて」
そう言いながら、君がいまから会いに行くのが俺だったらいいのにと思う。
彼女がゆっくりと遠ざかっていく。春のつめたい風が、その長い髪の毛を楽しげに揺らす。玄関にはマグノリアの香水が微かに香っている。彼女の背中が小さくなり、やがて見えなくなるまで、俺はドアに凭れたままそこに立っていた。
ついさっきまであんなにもあたたかかったのに、いまでは肌寒いとさえ思った。日差しはともかくとして、風が強い。俺は諦めてひとり部屋へと戻ることにした。
改めて珈琲でも淹れようかと思ったが、彼女がいないのに用意するのも面倒になって蛇口をひねる。冷蔵庫にはミネラルウォーターもあるはずだけど、喉の乾きが癒えるならなんでもよかった。俺は水道水を一気に飲み干して、そのまま空になったグラスをシンクに置く。
一度どこかへ腰を下ろしてしまったら、彼女が帰ってくるまで動けないような気がした。
そのとき頭に思い浮かんだ自分の姿が恐ろしくて、俺はさっさと着替えてしまうことにする。さっき適当に履いたパンツを脱ぎ、下着を替え、クローゼットの一番手前にかかっていたシャツとジーンズを身につける。寝室の床には、昨夜の自分が脱いだらしい服が散らばっている。それらと脱いだばかりの服を抱えて、洗面所へと移動した。
いつも通りの手順で顔を洗い、身だしなみを整えると、いくらか気分がましになった。この調子で部屋を片付けてしまおうと、俺は窓を開けた。風に押されるように、ぶわりとカーテンが膨らんで、大きくたなびきはじめる。それに構わず、俺は皺の寄ったシーツをまとめて洗濯機に突っ込んだ。これだけ風が強ければ、服もシーツも乾燥機をかけるまでもなくすぐに乾いてしまうだろう。
新しいシーツを出し、ベッドメイキングをすれば部屋は見違えたようになった。もともと物をあまり置いていないから、掃除も片付けもそう難しくないのだ。その分、長く使う家具類は質の良いものをそろえるようにしているおかげで、ちょっとしたホテルくらいには見えなくもない。
そんな部屋におよそ似つかわしくないものがあった。
ベッドサイドテーブルに無造作に置かれたままのそれを、俺は手に取ってみる。こうして白昼のもとで見ると、こんなものを自分が付けていただなんてとても信じられない。
それは、彼女がどこからか持ってきた猫耳と首輪だった。
かつてあの孤島で差し入れられたときから、彼女にはそういう趣味があるのかもしれないと疑ってはいた。だけど、まさか本当にそんなものを付けたままあれこれする羽目になるとは思ってもみなかった。
昨夜だって、最初こそ抵抗したものの、彼女に乗せられて色々ととんでもないことを口走ってしまったような気がする。特大のため息をついて誤魔化してみたものの、自分の痴態を思い出すと顔が熱くなるのが分かった。
彼女がひどくよろこんでくれるから、つい調子に乗ってしまったのだ。なにがそんなにいいのか俺には理解できない。かわいい顔立ちなわけでもないし、体格だって筋肉質だ。自分で言うのも変だが、どちらかと言えば男性的な雰囲気だと思う。どうせ付けるなら彼女の方がずっと似合うだろう。それなのにどうして俺に猫耳をつけようと思うのか、全くもって理解できない。できる気もしない。……けど、理解したい、とは思っていた。
彼女が可愛いと言うんだから、俺は本当に猫耳が似合うのかもしれない。
日本語なら『魔が差した』というのだろう。俺は猫耳をつけた自分自身の姿をちゃんと見たことがなかった。この世には知らない方がいいことだってある。そう思っていたからだ。
だけど、あの彼女が嘘を言うだろうか?
いや、言わない。絶対に言わないはずだ、と俺は強く思う。
そのことを確認するために、クローゼットのなかの姿見の前に立った。手の持ったままのそれを頭の方へと持っていき、装着する。思わず嚥下した唾液のせいで、喉がごくりと鳴るのが分かった。
そして俺は、目線を上げた。
「これは、ないな……」
考えるよりも先に、そんな言葉が口をついて出た。
気がつくと俺は笑っていた。はじめは苦笑のつもりだったのに、いつの間にか本気でおかしくなってきて、声を立てて笑った。鏡のなかで猫耳をつけた男が腹を抱えている姿がまた滑稽で、ますます笑った。これが可愛いだなんて、まったくひどいジョークだ。
「いい歳をしてなにをしているんだか」
そんな言い訳のような言葉を口にしながらも、悪い気分ではなかった。
離れているときでさえ、俺の心に君はいて、こうして幸せな気持ちにしてくれる。
軽く目を閉じて、君が帰ってきたら、と俺は想像する。
君が帰って来たら、きっと俺はさっきの出来事について話すだろう。「君は一体どんな趣味をしているんだ?」と俺はからかい、君はむきになって言い返すだろう。「機嫌を直して」と俺が淹れた珈琲を飲み、最後はふたりで笑うのだろう。
気持ちのいい風が俺の頬を撫でた。開け放ったままの窓からは、雲雀の鳴き声が聞こえていた。
36.5℃の体温
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
そのことに気づいたのは、目が覚めてからずっと後のことだった。
先日ハウスキーパーが入ったばかりだからか、汚れひとつない窓ガラスからまっすぐこちらに向かって透明度の高い光が伸びている。それは触れるまでもなくあたたかな温度を伴っていて、春の訪れを告げていた。
俺は、しかし、その光が指し示すものばかりを見ていたせいで、そのことにまるで気づかないままでいた。
──そう、君を見ていたから。
彼女はまだ毛布に包まって静かな寝息を立てていた。丸まった背中が呼吸に合わせてゆっくりと上下している。顔色も悪くない。一緒に暮らしはじめてから少しふっくらした頬が愛おしかった。
ただ隣にいるだけで、彼女の体温がじんわりと伝わってきてあたたかい。このまま抱きしめたら、きっともっとあたたかいだろう。だけど、それを望む気持ちと同じくらいの強さで、ずっとこの寝顔を見ていたいとも思っていた。
こういう朝が自分に訪れる日が来るだなんて、いまでも信じられないような気がする。
ずっとひとりで眠るのが当たり前だと思っていた。それを淋しいことだと考えたことすらなかった。むしろ、誰かが傍にいる方が疲れるから、自分ひとりの部屋に戻るとほっとするのが常だった。隣にいる人がいくら笑っていてもそのなかに含まれる好意を信じることができなかったし、してはいけないのだと思っていた。
それがいまでは、彼女が先に起きてベッドを抜け出していただけで淋しくなるのだから人は変わるものだ。
かつての俺ならきっと「子供でもあるまいし」と一笑するだろう。あるいは、「軟弱になったな」と言うかもしれない。
いまそこのベッドの脇に立ったあいつがじっと俺を見下ろしているような錯覚を覚えてしまうほど、その姿はありありと目に浮かんだ。あいつなら、馬鹿にしたように鼻を鳴らし、「そんな腑抜けた顔、見るに堪えない」と吐き捨てるだろう。彼女に向けられた眼差しは驚くほどに冷たい。こんなものは必要ないはずだ、とあいつが思っているのが手にとるように分かる視線。その真っ黒な瞳に映る光景を、俺はまだ覚えている。
──おまえは俺が羨ましいんだ。
と、俺は心のなかで亡霊に話しかけた。
──俺はおまえだから、よく分かるよ。とっくの昔に痛みなんて感じなくなってしまったのに、なにかが足りないことだけは知っている。それが永遠に満たされないことを予感して、未来への期待すら捨ててしまった。それなのに、こうやって俺だけがほしいものを手に入れて、心底羨ましいんだろう。
亡霊は、──かつての俺自身は、否定も肯定もせずに黙っていた。ドアを一瞥し、退路を確保する。いつしか癖のように身についていた職業的態度だ。あいつの唇が形だけの笑みを作った。
「いつか痛い目を見るぞ」
感情の籠もっていない声であいつは言った。
「ご忠告をどうも」
同じ形の唇を片側だけ歪めて俺も笑ってみせた。
相似形の笑みを浮かべしばし俺たちは見つめ合い、やがて懐かしい幻影は足音ひとつ立てることなくドアの外へと去って行った。
俺だって、「いつかそんな日が来るかもしれない」と思わないわけではない。あいつの言うことも半分くらいは真実なのだと知っている。いまの俺は彼女を失っただけで簡単に不幸になってしまうから。生物である以上、死別は確定事項だ。打つ手はない。
それでも、俺は彼女と一緒に生きていたい。
その「いつか」が明日でも、明後日でも、ずっと先の未来でも構わない。俺の命がある限り、彼女の傍でこのぬくもりを感じていたかった。
明日も君の隣で目を覚ましたい。
それだけが、俺の願い。
「そう願ってもいいんだって、君が教えてくれたんだ」
彼女の顔にかかった髪の毛を払ってやりながら、俺は独りごちる。
そろそろ日が高くなってきたのか、いつの間にか部屋が随分と明るくなっていた。床に反射した光がちらちらと瞬いて、眩しいくらいだ。
まだ浅い眠りのなかを漂っているらしい彼女は、むにゃむにゃと寝言のような曖昧な音声を発している。なにを言っているんだろうと耳をすましたが、よく分からない。ただ楽しい夢をみている気配だけがなんとなく分かった。誰のことも一ミリだって疑っていないような、無防備な寝顔。
すこしだけ、と思って触れた頬は、存外にやわらかかった。彼女がちゃんと生きている。その事実があたたかさとして指先に伝わってくる。
「チアキくん?」
「ああ。……ごめん、起こしたか?」
そっと触れたつもりだったのに、さすがに目が覚めてしまったらしい。彼女はぱちりと目を開けて、まだ焦点の定まらない瞳で俺を見つめた。
「うーん、おはよう」
と、言いながらベッドのなかで大きく伸びをする彼女は、まだまだ眠そうな様子だ。
「おはよう」
と、いつものように顔を近づけると、彼女は当然のように頬で俺の唇を受け止める。そこに照れのようなものはもはやない。「これくらいアメリカでは普通だから」と言い含めて少しずつ慣れさせた甲斐があったな、と俺は笑みを深める。まぁ、軽いキスですら恥ずかしがって真っ赤な顔をしていた頃の彼女も、それはそれで可愛かったけれど。
「ちょっと待ってて」
俺はベッドを出て立ち上がり、カーテンを開けた。すると、すぐに日差しが部屋じゅうに一気に広がって、目の前が真っ白に見えるほど明るくなる。そして、突然のことに彼女が顔を顰めながらも、光のなかに俺を探すように視線を彷徨わせるのが見えた。
──ああ、君も俺と同じなのかもしれない。
一瞬だけ垣間見えた彼女の不安そうな表情に、俺はそう思う。
彼女も俺と同じように、毎朝隣にいるはずの俺を探しているのかもしれない。ちゃんとそこにいることを確認して、泣きたいくらいにほっとして。それ以上に、今日も一緒にいられることがうれしくて堪らなくて……、言葉ではとても言い表せない感情に圧倒されて「おはよう」を言うだけで精一杯になるような、そんな想いを君も抱いているのかもしれない、と。
それは都合のいい思い込みに過ぎなかったけれど、俺を世界一幸せな男にするには十分だった。
「すぐに戻るから」
彼女を安心させるようにそう言ってから、俺はキッチンへと向かった。
素足のまま歩き出した、その足裏に伝わるフローリングの冷たささえも心地よかった。今朝は彼女の好きなカフェオレを淹れようと思った。ミルクとはちみつのたっぷりと入った、甘いカフェオレ。
自分がハミングをしている。
そのことに気づいたのは、カフェオレを淹れ終わったずっと後、ふたり分のマグカップを手に寝室へと戻った頃のことだった。
40°のシャワー
──またやってしまった。
そう気づいた頃には、すべてが取り返しのつかない事態に陥っていた。
額に浮いた汗を腕で軽く拭う。じっとりとした湿度を伴った体温と、急速に冷えていく脳とのアンバランスが、俺をにわかに不安にさせた。さっき整えたはずのベッドは、いまや見るも無残な有様だ。すっかり昨夜の状態に戻ってしまったシーツ──もちろん、新しいものに取り替えたばかりだった──をまたどうにかしなければいけないことに思い至り、途端に面倒な気持ちにもなる。
彼女の方もまた俺と同じように汗をかいているようだった。キャミソールの背中がうっすらと上気して艶めかしい。そうさせたのが自分だと思うとますますそそられた。
お互いになにも喋らないまま、荒い呼吸を繰り返す。充足感と倦怠感。そして、「またやってしまった」というわずかな後悔。
いくら休日だからといって、朝からこんなに激しくするだなんてどうかしている。盛りのついた犬だってもうすこし分別があるだろう。せっかくふたりででかけるつもりで早起きしたのに、時計の針はもう正午を指していた。
彼女は怒っているだろうか。多少強引だった自覚がある分、確かめるのが怖かった。前に彼女を怒らせてしまったとき、「チアキくんなんて嫌い」と言われたことがあるが、あれは随分と堪えた。たとえ嘘だと分かっていても、二度と言われたくない一言だ。またあんなことを言われてしまったら、たぶん一週間は立ち直れない。
緊張のせいか、それとも起き抜けに動いたせいなのか、やけに喉が乾いていた。目に入ったペットボトルの炭酸水を無造作につかんで、一気にあおる。しばらくの間ベッドサイドに置きっぱなしになっていたそれは、気が抜けてぬるくなっていた。もはやただの水に近かったが、ないよりはましだ。
俺は空になったペットボトルをベッドサイドに戻しながら、彼女の横顔をちらりと覗き見た。耳にかきあげた髪の毛がわずかに乱れて顔に張り付いている。潤んだ瞳と相まって、なにかいけないものを見てしまったような気になりながらも、俺は安堵していた。
ぐったりとしているが、彼女は怒った表情をしてはいなかった。それなりに満足もしてもらえたようだ。とりあえずはよかったとほっと胸をなでおろす。デートの予定もプランBに変更すれば、午後から出かけても十分に楽しめるだろう。まぁ、俺としてはこのまま一日中部屋に籠もっていたって構わないけれど。
「シャワーを浴びにいこうか」
「えっ」
彼女の呼吸が落ち着いてきたタイミングを見計らって、俺は言った。彼女は驚いたようにこちらを振り返ったが、これも想定内だ。いつもの俺なら「シャワーの用意をしてくるよ」とか、「お先にどうぞ」とか、そういう言い方をする。暗に「一緒に浴びないか」と誘われたら警戒するのも無理はない。さっきまでしていたことを考えると尚更だろう。
「ほら」
と、俺は戸惑った様子の彼女の手を取って立ち上がらせる。足元がふらついた拍子に自然と抱きしめるようなかたちになったのは、別に意図したわけではなかったが、好都合ではあった。
「君も一緒に、ね?」
そう言ってとびきりの笑顔を浮かべてみせれば、彼女の心に動揺が広がっていく様がそっくりそのまま表情にあらわれる。その様子をじっくりと観察しながら、どうすればいいか分からないだけで嫌ではないんだな、俺は結論づける。あとひと押しだ。
「……だめか?」
そう言いながら顔を覗き込むと、彼女は小さく息を飲んだようだった。さっきまでもっとすごいことしていたのに、と思わないでもなかったが、そういう反応もいまとなっては新鮮で悪くない。一緒に暮らし始めてすぐの頃の彼女のようで、かえって興奮する気さえする。
「えーっと、それはその……、」
と、口ごもる姿は普段の彼女からは考えられないものだった。そうやって恥ずかしがれば恥ずかしがるほど俺を喜ばせるだけなのだけど、あえて言う必要もないから黙っておく。たまにはこういうのもいいかもな、と思ったことは彼女には秘密だ。
どうせなら湯船にお湯を張った方がいいかもしれない。「疲れがとれるから」と言えばいけるはずだと思う。あるいは、特に了承を得ていなくても用意さえしてしまえばなし崩し的に一緒に入ってくれる可能性は高い。
たぶんこの雰囲気なら彼女は俺のお願いを断らない。確信を持って、俺はそう思う。
口では色々言うかもしれないが、最終的には俺の要求を呑んでくれる。あとは彼女が俺の要求を受け入れやすいような環境を整えてやればいいだけだ。「恥ずかしいから」とか、「ちょっとそれは」とか、一見すると拒絶に思えるそれらの言葉は、深層心理において「チアキくんのせい」にする口実を探しているだけに過ぎない。
もちろん、すべては俺のせいなのだから彼女の認識は間違っていないのだけど。
不明瞭なうめき声を出し続けている彼女をその場に置いて、俺はキッチンに飲み物を取りに行った。空調が効いているおかげで、下着しか身につけていない状態でも肌寒さは感じない。数秒考えた後、冷蔵庫のなかからレモンフレーバーのよく冷えた炭酸水を取り出して、トレイの上にグラスと一緒に乗せる。そろそろ体が冷えてきた頃合いかもしれないが、すぐにシャワーを浴びるから大丈夫だろう。
寝室に戻って、「どうぞ」とベッドサイドにトレイを置く。
「ありがとう」
と、応える彼女の首筋を汗が伝う。ついでだからとグラスに炭酸水を注いで手渡せば、よほど喉が乾いていたのか彼女はそれを勢いよく飲んで咽た。どうやらまだかなり動揺しているらしい。……いい兆候だ。
苦しそうな彼女の背中をさすってやりながら、いまの自分が悪い男の顔をしていることを自覚していた。
彼女が盲目的に俺を信じてくれることがうれしいくせに、たまにこうやって意地悪をしたくなる。
白線だけを踏んで歩くゲームみたいに、危なっかしい足取りで君の心の奥底へと入り込めるルートを探している。
君はやさしい恋人のために、一体どこまで受け入れてくれる?
「じゃあ、先に入ってるから」
その答え合わせをするために、俺は宣戦布告する。有無を言わせぬように、だけど、どこか甘えるような声で。
「待ってる」
そう言い残すと、俺はさっさとバスルームへ向かって歩き出した。彼女がなにか言いたそうにしているのは分かっていたけれど、これ以上反論の言葉を聞くのは得策ではない。
君はきっと来る。俺はそれを知っている。
そうだ、彼女の好きなバスミルクを入れておけば、抵抗感が薄れるかもしれないな。いや、あまり長湯をしても疲れるか。出かけるための体力は温存しておきたいよな。……なんて、次の策に考えを巡らせながら、君がどんな顔をしてバスルームに入ってくるか、いまから楽しみで仕方がないのだった。