リチャード+正義
春、酔っ払いに絡まれている男を助けた。それがきっかけで、どういうわけか俺はいま、銀座の高級クラブで働いている。
声をかけた時には無我夢中だったから気づかなかったけど、その人の顔立ちはちょっと信じられないくらいに整っていた。「どうぞ」と差し出された名刺には、やたらと長い名前とエトランジェという店名が記されている。
「今度、お店にいらしてください。あなたにぜひお礼をさせていただきたい」
と男は言った。呆然としている俺に、
「約束ですよ? 正義の味方さん」
唇の端をほんの少し持ち上げてそう駄目押しのように言う男の青い瞳は、夜の街を照らすネオンライトを灯してきらめいていた。それはまるで宝石みたいだと思った。誰もが思わず触れたくなるような、けれど美しすぎて誰も触れることができない、生きた宝石。
それもそのはず。その男、つまり俺のいまの上司であるリチャード・ラナシンハ・ドヴルピアンは、銀座では有名なホストらしい。
「ホスト、という言い方は正確ではありませんが、まぁ、良いでしょう。イメージとしては概ね合っているかと」
彼が自分で経営もしているというエトランジェのふかふかのソファーに座ってそう説明された。
「へぇー、なんかすごいですね! えっと……」
「リチャードで構いませんよ」
「あっ、はい。……リチャード」
「はい。お褒めいただきありがとうございます」
シャンデリアが天井からぶら下がった華やかな店内で、リチャードはますます輝いて見えた。その上すごく日本語が上手くて聞き上手だ。ここはホストクラブではないらしいけど、そういう店だから、対面して座るようなテーブルはひとつもなくて、そのちょっとあり得ないくらいの美人であるリチャードと俺は仲よくソファーに並んで腰かけている。隣でリチャードが少しグラスを傾けるだけで、胸がどきりとする。その度に、こんなの誰だって夢中になるよなぁ、さすが銀座ナンバーワンのホストだなぁと思う。
そんなこんなで、リチャードに美味しくてたぶん高いお酒を勧められ、楽しくおしゃべりしているうちに俺はここで働くことになっていたのだった。普段あまりアルコールを飲まないせいか、どういう流れでそうなったのかは全く覚えてない。でも、
「では、土曜日からよろしくお願いします」
「えっ?」
「はい?」
「えっと、何がでしたっけ?」
「……もしや、昨夜のお約束を忘れてしまわれましたか? 今週末からこの店で働くとおっしゃっていただけたと認識していたのですが」
と、眉を下げるリチャードがあまりにも悲しそうなので、
「えっ?! あっ、思い出しました! 俺、二日酔いなのかなぁ〜、すみません! ははは……」
と、笑って誤魔化してしまったのだ。というわけで真相は藪の中。今更あの時どんなはなしをしたんだっけ? と訊くことなんてとてもできない。
そういうわけで、俺は今日も今日とてエトランジェのキッチンでせっせと料理をし続けている。高級クラブで働くと言っても、リチャードじゃあるまいし、普通の大学生である俺がいきなりホストになんかなれるわけがない。だから雑用係みたいな感じで働く予定だったんだけど、たまたま出したまかないがリチャードに好評で、そのまま店のフードメニューとして出すことになった。こういうキッチンで働くのは初めてだし、けっこう忙しいけど、たまに、
「中田くん、美味しかったよ」
とお客様が帰り際に言ってくれることもあって、やりがいもある。その上給料も前のバイトよりずっと良くて生活も楽になった。本当にリチャード様様だ。
でも最近、ホールの方の手伝いを全然できてないんだよなぁと思う。たまにリチャードがしつこいお客様に絡まれたりすることもあるから、なるべく注意はしているつもりだけど、心配だった。リチャードは、
「そういうお客様もいらっしゃることは否定はしませんが、私もプロですので、心配には及びませんよ」
と涼しい顔で言っていたけれど、心配なものは心配だ。だから、いつでも何かあればキッチンから飛び出していって俺にできることをやるつもりだった。
あと、もうひとつ気になることもある。それは、追加メニューの中にプリンが入っていないことだった。ああ見えてリチャードは、スイーツが大好きな甘味大王だ。それをお客様もみんな知っているので、アルコールと同じくらい甘いもののオーダーが多い。でも、リチャードが毎日のように食べたいと俺に強請るプリンは、メニューに入っていない。メニューに入れればいちいち俺に言わなくたって好きなだけ食べられるのに変だと思う。リチャードにプリンを食べたいと強請られて、断れるお客様がいるはずがない。俺だって断れないくらいなんだから。
「なぁ、リチャード。ちょっと訊きたいんだけどさ、プリンはメニューに入れないのか?」
いくら考えたところで埒が明かないと思った俺は、閉店作業をしながらさりげなくリチャードに訊ねた。
「ええ」
リチャードは疲れを感じさせない爽やかな表情で言った。
「確かにあなたの作るプリンは絶品です。しかし、プリンを好きなのはホストとしての私ではなく、プライベードの私ですから」
「へー、なるほどな」
よく分からないけど、こういう仕事をしているからこそプライベートは大切にしたいのだろう。好きなもののひとつくらい、お客様に秘密にしておきたい気持ちになるものなのかもしれない。うん。そう俺が納得しかけた時、
「……上手く伝わっていないようですね」
小さなため息と共にリチャードは言った。しなやかな手の動きで近くのソファーへと座るように勧められ、俺はよく分からないままそこへ座る。店主こだわりのソファーはふかふかで、手触りが良くて、雲の上に座っているような感じがする。リチャードはいつも接客でそうするように、俺の隣にふわりと優雅に座る。あれ、なんだかデジャヴだな、と思ったのはきっと気のせいだろう。こうして並んで座るとリチャードの顔をうんと近くで見ることができて眼福だった。ちょっと緊張もするけど疲れが癒やされる。
「美人って、マイナスイオンも出せるのかな?」
「はい?」
「いや、なんでもない」
リチャードの顔が綺麗すぎて、思わずおかしなことを言ってしまった。危ない。それはどういう意味かと訊ねられる前に、慌ててリチャードに話の続きを促すと、彼は言った。
「何故、メニューにプリンを追加しないのかという話でしたね」
そう、そうだったと俺は思う。あれ? でも、なんかリチャードの顔がさっきよりも近づいてきてないか!?
「あなたのプリンは誰にも食べさせたくない、と私はそう言っているのですよ。正義」
至近距離で見るリチャードは綺麗すぎて、それを見つめるなと言う方が無茶だと思う。きらきらと輝くその青い湖のような瞳が、俺にもっと見つめてほしいと語りかけていると勘違いしそうになるくらいだ。
「う、うわっ!」
悲鳴をあげてその圧倒的な美から逃れるようにのけぞる俺を、リチャードがむっとしたような顔で見る。本当に申し訳ない。
「急にホストモードになるのはやめてくれ! 心臓に悪いっ! ……はぁー、すごいなぁ、ナンバーワンホストって」
ははは、と笑って俺は言った。びっくりしすぎて、まだ胸が痛い。
「……お茶」
すっかり不機嫌になってしまったリチャードが言う。どうしていつも伝わらないんだとかなんだとか、ひとりぶつぶつと言っているけど、リチャードが思った以上に俺の作ったプリンを気に入ってくれていることはよく伝わってきた。それは、ちょっと、いやかなりうれしい。
俺はいそいそとロイヤルミルクティーとプリンを用意して、
「お待たせしました」
と、リチャードの前へと置く。まだ怒っていますよ、という顔を作っているけど、明らかにさっきよりは機嫌がマシになったようだ。まぁ、リチャードは怒ってても様になるけど。
「私の顔が、何か?」
もぐもぐと口を動かしていたはずのリチャードが言う。
「今日もおまえは世界一綺麗だなって思って見てた」
俺がそう言うと、リチャードは一瞬むせた後、ものすごい顔で俺を凝視した。褒めたつもりだったけど、余計に怒らせてしまったようだ。「ごめん、食べにくかったよな」と付け足してみたけれど、後の祭りだった。しばらく口を利いてもらえそうもない。
仕方なく、俺はリチャードの方をあまり見ないようにしながら自分の分のロイヤルミルクティーをゆっくりと飲む。リチャードも目を伏せたまま、黙々とプリンを食べている。
いつの間にかふたりきりになっているホールはとても静かだった。そして、贅を尽くした空間で、美の塊のようなリチャードと過ごしている。そんな状況は身に余りすぎて落ち着かなくてもおかしくないはずなのに、どうしてだろう? 俺はこの時間が一番落ち着くし、一番好きなんだよ、リチャード、と心の中だけでそっと思った。