sweet surrender

リチャード+正義


 ──鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰? 
 もしも魔法の鏡にそう尋ねることができるとしたら、きっとその鏡 は「俺の好きな人」の名前を告げると思う。
 なんて、「何を馬鹿なことを」と言うリチャードの声が聞こえてきそうだけど、ついそんなことを考えてしまうくらいには、リチャードは綺麗だった。見ているだけで有り難いようなその造影はもちろんだけど、中身だってそれと同じくらいすごいやつだと思う。
 俺はリチャードの傍にいられるだけでなんだかよしやるぞ! っていう気分になるし、リチャードが「俺の好きな人」になってくれたことが、すごくすごく嬉しかった。これ以上に望むものなんてないんじゃないかと思うくらいに。
 俺の、好きな人。ちょっとずるい言い方だったかもしれないけど、それをリチャードが許してくれたことも含めて、俺は嬉しいと思ったんだ。
 だから、いま、俺は一体何がどうしたのかさっぱり分からない。俺の目の前に、リチャードの顔があって。リチャードの鼻が、俺のそれをぶつかりそうになっていて。あとちょっとで、唇もくっついてしまいそうになっていて。
「リ、リチャード……?」
 そのかたちの良い唇にあまり息がかかららないようになるべく小さな声で、だけどかなり慌ててその名前を呼ぶ。
「……なんですか? 正義」
 少しむっとした様子を滲ませながらも、リチャードの声は甘かった。俺の名前に砂糖とホイップクリームとチョコレートソースをぶちまけたみたいだ。
「あのさ、」
「はい」
「いまの状況ってさ、」
「……もうよろしいですか?」
「よろしくない! よろしくないからっ!」
 この異常なシチュエーションに耐え切れずに俺が大声を出してしまったので、リチャードは鼻を鳴らして体を離してくれる。拗ねるようにそむけられた横顔が、大理石の彫刻みたいだった。って、いまはそんなことを考えている場合じゃないのに。
 だって、俺には信じられなかったんだ。
 リチャードは俺の好きな人になってくれた。だけど、俺は俺をリチャードの好きな人にしてくれって頼んだわけじゃない。リチャードが俺のことをどう思ってくれているのか、気にならないわけじゃなかった。でも、それ以上に、傍にいられるだけで嬉しくて、もうそれだけで十分だった。
 リチャードが俺のことをどう思っていても、……他の誰かを好きなのだとしても、俺は、リチャードの傍にいたいと思ったから。本当のことを言えば、答えなんて聞かない方が俺にとって都合がよかったのかもしれなかった。その答えさえ知らなければ、俺はどんなことがあってもずっとリチャードの傍にいられる。
 でも、いまリチャードがしようとしたことは。顔を近づけてするそれは、えっと、つまり、キス……? 
「……いぎ、正義!」
 リチャードに呼ばれて、俺ははっと我に返る。それと同時に、右目から大粒の涙がぼろりと溢れ落ちてぎょっとした。
「そんなに私とのキスが嫌でしたか?」
 そんなわけない、絶対にそんなわけはないんだけれど、上手く言葉が出てこなくて、俺は必死に首を横に振る。申し訳なさすぎて、リチャードの顔を直視できない。でも、なんとなくリチャードがほっとしたように表情を緩ませたことはその雰囲気で分かった。
「リチャード、俺、は……」
「無理に言葉にしようとしなくても構いません。ただ、これだけは教えてください。あなたは先程のように、首を横に振るか、頷くだけでいい。……キスをしようとしたのは、私の自惚れでしたか?」
 俺は、ゆっくりと首を横に振る。
「自惚れなんかじゃ、ない」
 やっとのことで絞りだした声は、みっともなく掠れていた。情けない。でも、
「それは良かった。……安心しました」
 と言うリチャードの声は、うんと優しかった。
 少しだけ冷静になって考えると、いまの状況はかなりひどいのではないかと思う。俺とリチャードの立場が逆だったとしたら、俺はきっとしばらくの間立ち直れないし、こんなにも穏やかな声で相手を思いやるような余裕もないだろう。きっと、傷つけたよな、と思う。「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ、ただちょっとびっくりしちゃっただけで」なんて、そんな言い訳で許されるわけがない。
 それでも謝らないと、と意を決して俺は顔を上げ、目の前の男の名前を呼ぼうとして、そして──心臓が、止まるかと思った。
 リチャードは、微笑みを浮かべて俺を見つめていた。
 それは、俺の見たことのない種類の微笑みだった。リチャードとの付き合いもだいぶ長くなって、前よりもずっと何を考えているかとか、何を思っているかとかが分かるようになってきたと思っていたのに。そんな表情は知らない、と思う。知らなかった。だけど、その眼差しに込められているものは分かる。いままでにリチャードがくれたたくさんの言葉よりも雄弁に、リチャードの気持ちを教えてくれる。切なくて、胸が痛くなるくらいに。
「ごめん、リチャード」
「謝ってほしいわけではありません」
「どうしたら許してくれる?」
「許すも何も、別に怒ってなどいませんよ」
 と軽く肩を竦めてみせながらも、俺に助け舟を出すみたいに、リチャードは冗談めかせて言った。
「しかし、そうですね。少々傷つきはしました。あなたからキスをしてくだされば、その傷も癒えるかもしれませんね」
 これはたぶん、俺のために用意された逃げ道だった。ここで笑って受け流しても構わないとそう言われているようなものだ。だけど、そうしてしまったら、リチャードはもう、自分からは今日みたいなことをしないだろう。あの微笑みも、嘘みたいに隠してしまえるんだろう。リチャードは、誰よりも優しくて、我慢強いから、そうできてしまう。だけどそんなのは、俺が嫌だ。
 俺はぎゅっと固く目を閉じる。こういうのは、思い切りが肝心だ。たぶん、きっと、そうにちがいない。そんなことを自分に言い聞かせて、俺は、世界一美しい人間の唇に、自分の唇をえいっ! とくっつける。
 そして、やわらかくて甘い何かが、一瞬だけ唇に触れて。
「グッフォーユー」
 いつもの褒め言葉を、耳元で囁かれた。
 リチャードとの間にある距離が限りなく0に近かった。しかもなんだか、良い匂いもする。頭の中が白いマシュマロでいっぱいになって、それがぐずぐずと溶け出していくみたいだと思う。顔も身体も熱くて、いたたまれない。それでも満たされたような気持ちになるのは、俺の背に回された手が温かいからかもしれない。
 ずっとこうしていたいと思う。こんな風にリチャードを独り占めできるなんて、なんだか癖になってしまいそうだった。そうならないうちに「ありがとな、もう落ち着いたから」と、俺がふたりの距離をいつも通りに戻そうとした時、
「もうしばらく、このままで」
 とリチャードの腕に力が込められた。
「リチャード?」
 驚いて思わず名前を呼ぶと、顔を隠すようにリチャードは俺を抱き竦める。落ち着きを取り戻そうとしていたはずの心臓が、また暴れまわるように高鳴り始める。だけど、リチャードの腕はがっしりと俺の体をホールドし続けていて、しばらくは離してもらえそうにない。
 俺は、どうしようもなくリチャードが好きなんだと思う。その「好き」の中には、この世界にあるありとあらゆる「好き」を含まれているにちがいない。その上リチャードも、俺と同じように思ってくれているんだとしたら、こんなに幸せなことはない。傍にいられるだけでよかったのに、それで十分だと思ったのに。溺れてしまいそうなほどの幸福に目眩がする。
 結局、俺の予想通りに、この後もリチャードになかなか離してもらえなくて困った。想定外だったのは、
「お返しです」
 と言ってリチャードからもキスをされたこと。それが俺のそれよりもスマートかつ甘かったことと、一回では済まなかったこと。その上、その合間にいつもよりもキラキラした瞳で見つめながら俺の名前を呼ぶもんだから、それから一週間くらい名前を呼ばれる度にその時のことを思い出して顔が真っ赤になってしどろもどろになるのが続いたんだけど、それはまた別のはなしだ。