はつ恋

創真×モブ×創真

*R18*

 俺は誰かと付き合う気はなかったし、実際にそう公言してきた。いまは頭の中がダンキラでいっぱいで、他の何かを考える余裕なんてないと思っていた。
 だけど、遠征で訪れた海外──そこでの強烈な体験のせいなのか……、それがどこだったかは忘れてしまった。英語圏だったことは辛うじて記憶に残っている。──で、とても不思議なことが起こった。
 その出来事について俺はどう考えればいいのか、いまもまだ分からないでいる。自分が体験したことじゃないみたいに思える時すらある。だけどふとした瞬間に、「それ」によって以前の自分とは全く変わってしまったことに気づかされもする。そのことは、まだ誰にも気づかれてはいない。だけどきっと時間の問題だろうと思う。ぼんや、聖人、あるいはコーチに隠し通せるとはとても思えない。
 それとも、と俺は思う。
 それとも俺は、ずっとこういう人間だったんだろうか。
 俺が、俺だけが、知らなかっただけで。
 
 五日間ほど滞在する予定だったその場所で、珍しいことに俺はひとりだった。地元ダンキラスクールとの合同練習の後、時差ボケがひどいからホテルで休むと言ってぼんは部屋へ戻ってしまったし、聖人は何やら対戦相手と随分と話し込んでいると思ったら、彼らに近くの名所へと案内してもらうらしかった。
「創真も一緒にどうだい?」
 と誘われたけど、断った。血まみれのスカートだとか、夜な夜な叫び声が、だとか、さっきから物騒な単語ばかりが耳に入ってきていたから。
「おやおや、それは残念だねえ」
「ごめんね」
「いや、創真とぼんの分も楽しんでくるよ」
「帰るときは連絡してくれたら……」
「大丈夫だよ、ホテルまで送ってくれる約束だからね」
 それなら安心だと俺は思う。海外のよく知らない街で迷子だなんて、笑えない冗談だから。分かってるよ、と言うように聖人が笑う。少し過保護だったかな、と思いながら俺も苦笑し、「Enjoy楽しんで 」 と互いに言い合って別れた。
 そういうわけで、俺はひとりだった。
 大通りを歩いている分には恐らく(聖人でない限り)迷うことはないから、気楽に歩く。一歩進むごとに石畳の道がコツコツと音を立てるのが何だか愉快な気持ちだった。通りにはぼんが喜びそうなショップもいくつかあった。ホテルに帰ったら教えてあげようか。それとも明日、サプライズで連れて行くのもいいかなと思う。コーチへのお土産を選ぶのもいいかもしれない。本当は一緒に来る予定だったのに、急に別のチームの試合のコーチを頼まれて来られなくなってしまったから、喜ぶだろう。……両親には何がいいだろうか。いつもお土産はいいから、荷物になるでしょう? と言うけれど、渡すと嬉しそうな顔をしてくれるから……と、いつになく俺の頭の中はにぎやかだった。
 もしかしたら、俺は浮かれていたのかもしれなかった。いつものオフは、一日中ピアノの練習をしたり、家庭菜園の手入れをしたりして過ごすのがほとんどだから、こんな風にひとりきりで夕暮れの街を歩くのは稀だった。見るもの全てが目新しく、時折すれ違う人の唇からまるで音楽のように英語が流れていた。
 だから、にわか雨に降られたことすら、俺にとっては旅先のちょっとしたイベントのように感じられた。目の前にあったカフェへ飛び込み、コーヒーを頼みながら、ぼん好みのミュージカル映画みたいだと思った。
 濡れてしまった髪の毛を気にしながら、コーヒーを待つ。店内は外から見て想像していた以上に薄暗く、カウンターの隅で濡れたままでいる俺になんて誰も注意を払っていないように見えた。ああ、ここは紅鶴じゃないんだと俺は初めて思った。
 それはとても不思議な気持ちだった。ここでは誰も俺のことを知らない。俺がダンサーであることも、どんなダンスをするのかも知らない。何も知らないのだ。俺はそれを悔しがるべきだったのだろうと思う。俺の夢──俺のダンキラで世界を愛で包むこと──を考えれば、それは明らかな敗北だった。
 俺は呆然とした。自由だ、と自分の心が歓喜に震えていることに対して。
 ことん、というコーヒーのグラスを置かれる音で俺は我に返る。気持ちを落ち着けようと、それにすぐに口をつけたけれど、胸の鼓動は速くなるばかりだった。はあ、と吐いた息からはホイップクリームの甘い香りが混じり、店内を流れるジャズのスタンダード・ナンバーが遠かった。
 雨で冷えていた身体が熱を求めていたのか、あっと言う間にコーヒーを飲み干してしまった。手持ち無沙汰にグラスの脚をなぞる。何度か振り返って小さな窓へと目を凝らして見たけれど、雨はまだ止んでいないようだった。おかわりを頼むべきか、それとも雨に濡れながらホテルへと戻るべきか、俺は決めかねていた。理性は早く退散するべきだと言っていたけれど、俺の中の「何か」はまだこの冒険を続けたがっていた。
 そんな俺の様子が誰かを待っているように見えたのかもしれない。あるいは、誰かを待っていたけれど振られてしまったように。
 「Hi」と声をかけてきたその人は、俺の隣に座って「こちらの人と同じものを」と注文した。その後でちらりと俺のグラスを見て、「それから、こちらの人にもおかわりを」と言った。一拍遅れて、その英語の意味を理解した俺は慌てて断ろうと思ったけれど、慌てれば慌てるほど何と言えばいいのか分からなくなり、結局、目の前にはふたつのコーヒーが並ぶことになった。
「どこから来たの?」
「ひとり?」
「誰か待ってるとか?」
「アイリッシュ・コーヒーが好きなの?」
 俺が聞き取りやすいように、はっきりとした発音でその人はいくつもの質問をした。俺は戸惑いながら、それにごく簡単な英語で答えた。
「From JAPAN」
「Yes」
「No」
「Maybe」
 ただそれだけのことなのに、俺も、たぶんその人も何だか可笑しくなってくすくすと笑った。馬鹿みたいな、会話とも呼べないようなそのコミュニケーションが嬉しかった。
 その人のエメラルドグリーンの瞳が、よく熟れた果実のようだと思った。フォークを突き立てればぷつりと音を立てて皮が破け、透明な汁を滴らせる新鮮な果実。もちろんそんなことはしないけれど、唆られた。空腹ではなかった。だけれども、その瞳が美味しそうだとばかり思った。それを誤魔化すようにコーヒーを啜りながら、その人の声を聴いていた。そのスイングをいつまでも聴いていたかった。
「なに?」
 と、その人は言った。
「そんなに見つめて」
「見つめてないよ」
「いや、見つめてたよ」
「そうかな」
「そう」
 俺はすっかり寛いだ気持ちだった。そのくせ、胸は痛いほどに高鳴っていた。
「それは、君が俺を見つめていたからだよ」
 と、俺は言ってしまった。
 それは出任せだったけれど、言葉にした途端に真実になった。俺の顔のすぐ近くに、その人の顔があった。綺麗な瞳があった。それを縁取る睫毛があり、日本人のそれよりも高い鼻があり、唇があった。信じられないことだけど、俺はそれが欲しかった。そして、欲しかったものはすぐに与えられた。ふたりの口の中は同じコーヒーの味がした。
 それからすぐに店を出た。雨はもう止んでいた。その人と縺れるようにして、大通りから一本外れた道に入ってキスをした。さっきよりも激しくて、身体ごとぶつかり合うようなキス。頭の奥がじいんと痺れて、何も考えられなくなった。だけど、身体の方はこれから何をするべきなのか、何をしたいのかを知っているようだった。
 数え切れないキスをしながら、俺たちはベッドへとなだれ込んだ。近くにあったホテルに行き、キーを奪い取るようにして部屋に入った。シャワーを浴びる余裕もなかった。俺はただ、エメラルドグリーンの瞳に夢中だった。次第に顕になってゆく素肌がますます欲望を掻き立てた。身体が燃えるように熱い。それが俺の身体なのか、相手の身体なのかは定かではないけれど、とにかく熱くて堪らなかった。焦れる俺を見て、君が微かに笑う。経験がある分、俺よりも余裕があるのだろう。だから、俺は噛みつくようなキスをしてやる。その笑顔が歪んでゆくのを見下ろしながら、ほら、君も早くこの熱に身を委ねて、と思う。負けじと君が俺の肩を噛む。その痛みすらも、快感へと変換されてゆく。
 挿入の後、すぐに俺は果ててしまった。しかしコンドームを外し、白濁にまみれたそれに直に触れられた時にはもう、もう一度挿入できるだけの硬度を十分に保っていた。
 荒い息を吐く俺に君が馬乗りになり、再びひとつになる。やがて君が絶頂をむかえ動きを止めたので、それを組み敷いて腰を動かす。君が嬌声をあげる。強すぎる刺激に君は逃れようとするけれど、俺は深く、深く、最奥を穿つように律動する。またすぐに達してしまいそうで、だけどいつまでもこうしていたくて、我武者羅に身体を動かす。動く度に汗がぽたぽたと落ちてシーツの上に染みを作る。君と踊っているみたいだと思う。ふたりきりのダンス。だけどこんなにもエゴイスティックなダンスを、俺は踊ったことはなかった。いまの俺は、ただの八神創真だった。そして俺の名前も知らない人と一緒になって、自分を満たすためだけに踊っているのだった。
 ぎゅっと目をつぶり、俺はコンドームの中へと欲望を放つ。「あいしてる」と、頭の中で唱えながら快楽の波に意識が攫われそうになる。そして急速に下がってゆく体温を感じながら、恋人にするように君を抱きしめ、その汗ばんだ額にキスを落とした。

 初めての夜を過ごしたその人の名前を、俺が知ることはなかった。
 交代でシャワーを浴び、少し時間をずらしてホテルを出て、それっきりだ。
 その後、俺は自分のホテルの部屋へ帰って、夕食も摂らずに眠った。翌日、ぼんも聖人も特にそのことについては触れず、朝食の席では専ら聖人が連れて行ってもらったというゴーストの出る古い屋敷の話題で持ち切りだった。そして練習と試合との合間に三人でそれぞれのお土産を買いに行き、俺たちは帰国した。
 俺たちの日常は何も変わらなかった。ただ、海外や地方へと遠征へ行ったときに、たまに俺がひとりで過ごすようになったこと以外は。
「えー、ソウちゃんも一緒に行こうヨ!」
 と、冗談めかせて引き止められることはあるけれど、大抵の場合ふたりは快く送り出してくれた。
「楽しんできてネ!」
「気をつけるんだよ?」
 と、何も知らないふたりは笑顔で言った。
「ありがとう」
 と応えながらさほど罪悪感を感じないことが、何よりも罪深いと思った。
 そして俺はたくさんの人と寝た。相手は男でも、女でも良かった。身体を重ねればいつも、誰のことも等しく「愛している」と思った。
 初めてのときのあの興奮を上回る体験をすることはできなかったけれど、俺はこの悪い癖を止めることができなかった。何度も何度もあのときの思い出をなぞるように、見知らぬ人と寝た。このままくり返し続けていれば、いつかまたあの興奮が、満ち足りた感覚が戻ってくると期待しているみたいに。
 そのことをベッドの上で相手に話してみたこともある。そして、
「アイリッシュ・コーヒーってウイスキーが入ってるの。知ってた?」
 とある人が教えてくれたので、俺はあのときの自分が酔っていたことを今更ながらに知った。
 今度はアイリッシュ・コーヒーを飲んでから、寝てみようか。そう一瞬考えたけれど、あの魔法は決してアルコールのせいではないことを心のどこかでは分かっていた。あの日の追体験をすればするほど、むしろ記憶は薄れてしまうことにも気づいていた。その証拠に、もう美しいエメラルドグリーンの瞳についてしかあの人のことを思い出せない。
 俺は今でも、誰かと付き合いたいわけではない。
 あの雨の日の出来事も、どんどん遠い景色になってゆく。
 それなのに、どうしようもなく胸が痛む理由を、俺は知らない。