そして僕は、君の親友になった

蛍→晶×創真×晶


 いま、自分に対して限りなく正直に言うと、晶が創真と付き合い始めたと僕にうれしそうに告げたとき、「よりによって創真と?」と一瞬だけ思った。きっとその瞬間の僕の顔は見ものだったにちがいない。
「……蛍?」
 と、少し心配そうに名前を呼ぶ晶の声で、僕はそのことに気づいた。
「へえ、おめでとう。よかったね、僕には全く関係ないけど」
「ありがとう!」
 晶は露骨にほっとしたような顔で、よかったと何度も言った。
「蛍に一番に伝えたかったのさ、俺も、創真も」
 ……俺も、創真も? さらりと最後に付け加えられたその一言は余計なんじゃないかと、僕は眉を寄せる。これから先も、この調子で創真のはなしばかり聞かされることになるんだろうかと思うとうんざりした。その当てつけに「俺も、創真も、ね」と馬鹿にしたようにくり返してあげたけれど、そんな僕の嫌味に気づくような晶ではない。さすが俺の幼馴染だとかなんだとか、彼のお決まりのフレーズを言い始めたので、後は適当に聞き流すことにした。
 幼馴染が幸せになることは喜ばしい。いくら僕でも、そう思うくらいの情は持ち合わせているつもりだ。
 ただ、だからといって晶の惚気話を際限なく聞いてやるかと言えば別のはなしだった。だいたい、元チームメイト同士が付き合うなんて、その時点でかなり気まずい。詳しいはなしなんて聞きたくない。一切だ。僕の知らないところで勝手に幸せになってくれ。 
 なんて、浮かれきった晶が今度「創真」という言葉を持ち出したら言ってやろうと用意していた言葉は、結局使うことはなかった。意外なことに、晶は交際を告げたその日以降、僕に創真のはなしをしなかったから。晶にも秘密にするなんて芸当ができるんだと、僕は少し驚いた。拍子抜けしたと言ってもいい。あまりにもなにも言わないので、「最近はどうなの?」とたまに僕の方から晶にはなしを振ってあげたくらいだ。
 僕が訊ねると、ここでデートしただとか、バレンタインのチョコレートはなにがいいかと迷っているところだとか、最近は忙しくてあまり話せてないだとか、晶は屈託なく教えてくれた。そして、自分からはなしを振ったくせに、「へえ、そうなんだ」としか言わない僕のことも気にしていないようだった。
 いつだったか、ふたりが一緒にいるところを遠目に見たことがある。校舎から並んで出てきた晶と創真は、穏やかにはなしをしているようだった。晶の朗らかすぎる──その上ボリュームが大きすぎる──笑い声がこちらにまで聞こえてくるのではないかと思ったけれど、そんなこともなかった。ふたりが付き合っていると知らなければ、友人同士が歩いているだけに見えただろう。実際、晶と創真が付き合っているだなんて誰かに知しられたら面倒なことになるにちがいない。
 だからそんなに静かにしているの、晶。それって、むしろ僕の目には……、と頭の中で言葉になろうとしたなにかを、僕は無理矢理に忘れた。
 そのままふたりは寮の方へと歩いて行った。少しずつ遠く、小さくなっていくその背中を、僕は黙って見つめていた。

 そして、今日、とうとうふたりは結婚する。
「晶、創真、おめでとう。まぁ、よかったんじゃない? お似合いのふたりだと思うよ、いろんな意味で」
 白いタキシードに身を包んだ晶と創真に向かって、僕は言った。
「ありがとう、蛍」
 相変わらず僕の皮肉を解さないふたりは、心底うれしそうに礼を言った。いつもならそういうところにイライラするのだけれど、今日ばかりはそんなわけにもいかない。
 ふたりが身につけているタキシードは、派手好きな晶と創真らしく、まるでウエディングドレスのようにビジューがふんだんにあしらわれている。それでいて品位を損なわない、むしろふたりの顔立ちを美しく引き立てるデザインで、さすがはコスメティック・シドーが監修しているだけのことはある。
「スピーチも引き受けてくれたんだってね、楽しみにしているよ」
 と創真が言った。いつものように指を鳴らさなかったところを見ると、案外、創真も緊張しているのかもしれないと微笑ましくなる。
「晶がうるさいから仕方なくね。まぁ、任された以上は完璧なスピーチをしてあげるよ」
「さすがは蛍! 俺の大親友……!」
「そういうのはいいから」
 晶がいつもの調子に戻りそうになったので、僕はそれをやんわりと止める。今日は他の賓客だって大勢来ている。せっかくの晴れ舞台なんだから大人しくしてなよ、という念を込めてにっこりと笑う。それを見た晶はなにも分かっていないような顔で笑う。まぁ、いいよ、晶はそれで、と僕は苦笑して、 
「主役のおふたりさんの方こそ、頑張って」
 と、高砂から早々に撤退した。
 結婚式に限らず、こういった華やかなパーティーのような場には慣れている。ああ見えて晶だってそうだし、創真も、僕の隣に座っているノエルも、隣のテーブルに座っているかかつての紅鶴学園ゴールド生の面々もそうだ。とはいえ、肩が凝るシチュエーションであることは否定できない。
 恙無く結婚式と披露宴がお開きになった頃には、僕もノエルも些か疲れていた。その上、右手には大きな引き出物の入った紙袋を下げている。だから、
「僕はもう帰る」
 と、会場を出てすぐにノエルがやや不機嫌な声で迎えの車に乗り込んだのも仕方のないことだった。
「ケイも乗って行ってかまわない。乗るなら早くしろ」 
 自宅の方向が全然ちがうのに、ノエルはそんなことを言った。よほど疲れているのだろう。
「いや、僕は遠慮しておくよ」
 と、僕は断りながら早くひとりになりたいと思った。早くひとりになって、衣類を取り替え、身体を清潔にして、たくさんの知らない人間のいる空間に長時間拘束された不快感を拭い去りたかった。
「……わかった、じゃあ、またレッスンで」
「じゃあ、また」
 こうしてノエルと僕は素っ気なく別れた。どちらにしても晶が短い新婚旅行から帰ってきたら、すぐにエトワールのレッスンを再開する予定なのだ。これで何も問題ない。
 タクシーで帰ってもよかったけれど、あまり長くこの場所に残っていると紅鶴の誰かに見つかってあちこち連れ回されそうだと思ったので、僕もやや早足で最寄り駅へと向かった。
 
 電車に乗るのは随分と久しぶりだということに、僕は乗ってしまってから気づいた。乗るとしても、一般的なサラリーマンとは生活時間が異なっているのでいつも空いている車両にしか乗ったことがない。
 だけど、どうやら今日はそういうわけにいかないらしい。そうこうしているうちにどんどん乗客が増えていき、ああ、そうだ、夕方のこの時間は混むんだったと後悔したけれど後の祭りだ。人波の中、ひどくかさばる紙袋を抱えるようにしながら、ただ時間が経つのを待つことしかできなかった。
 やっとのことで自宅に着いたころ、晶と創真には悪いけれど、僕はとてつもなく疲れていた。最悪の気分だ。いますぐベッドに倒れ込むことができたらどんなに幸せだろう。そう思いながら、僕は手を洗い、持ち歩いていたものひとつひとつを除菌し、また手を洗ってからシャワーを浴び、すぐにドライヤーで髪の毛を乾かした。
 面倒ではあるものの、ルーティーンをこなせばある程度は精神的な疲労がとれることを、僕は経験として知っている。あるいは、そう信じている。実際、やわらかなバスローブを羽織ったあたりからだいぶましな気分になりつつあった。
 あと残っているのは、ダイニングテーブルの上に置いた引き出物の箱だけだ。当然、紙袋はもう捨ててある。でもこういう物はできるだけ早く片付けてしまうに限る。そう思って僕はその箱を開けた。
 包装紙をとっている間に薄々気がついてはいたけれど、その箱の中身は、有名ホテル内にあるパティスリーのバームクーヘンと紅茶のセットだった。へえ、晶にしては気が利いているんじゃない? と僕は思った。だけどすぐに、創真と一緒に選んだからだということに思い至る。よく見ると、紅茶はフルーツのフレーバーティーだ。考えてみれば当たり前のことだった。ふたりの結婚式の引き出物なんだから。 
 それなのに、なんだか僕はまたどっと疲れてしまったような、腹立たしいような、そんな気がして「はぁ」と大きなため息をついた。そういえば、つい最近、晶が創真と一緒にこのホテルでティナーをとったと聞いたような記憶がうっすらと残っている。
 僕は箱の裏に控えめに記された、バームクーヘンの賞味期限を確認する。想像していたよりは日持ちがするけれど、これをひとりで食べ切るには計画的に、毎日少しずつ食べる必要があるだろう。いや、でも開封してからあまり時間が経ちすぎると風味や食感が損なわれてしまう。それは避けたい。 
 いろいろと思案はしてみたものの、どうしようもない、というのが僕の結論だった。もういいや、と天を仰ぎたい気持ちだ。
 だから僕は、今日の夕食をバームクーヘンにすることにした。これで僕が太ったら、晶のせいだ。僕の責任じゃない。
 僕は紅茶用の湯を沸かしている間に、バームクーヘンを取り出して切り分ける。温めたり、生クリームやアイスを添えても美味しそうだな、と思ったけれど、まずはシンプルに食べるのがいいだろう。とはいえ、味にバリエーションをつけないと食べきれない気もしたので、「明日の朝、ネットスーパーでトッピングを注文する」と頭の中にメモしておく。
 湯が湧いたので、茶葉を入れたポットにそれを注ぐ。そして砂時計をひっくり返し、食器棚からプレートと揃いのカップアンドソーサーを並べる。実家にいた頃から気に入って使っている、オールドノリタケのトリオだ。自分でも律儀だなと思うのだけれど、これでも一応、晶と創真の結婚祝いなんだから、それに相応しい物に乗せなければいけないような気がした。 
 僕は紅茶がカップに注がれる時の、あの微かな水音が好きだ。ふわりと立ち上る紅茶の香りも、なみなみと紅茶を湛えたカップを指先で持ち上げた時に感じる重みも、僕の心を落ち着かせる。
 なのにどうして、今日はそう感じられないのだろう、と思いながら僕はダイニングテーブルの前に座った。プレートと、その上に乗せられた高級パティスリーのバームクーヘン、華やかに香るフレーバーティーの注がれたカップ、使い馴染んだカラトリー。正しい手順で、正しく用意された僕好みのティータイムのはずなのに、僕の心はざわめくばかりだった。
 きっとくたびれているせいだろう。そう自分に言い聞かせて、僕はバームクーヘンを口に運ぶ。しっとりとした生地を咀嚼すると、期待通りの美味しさが口いっぱいに広がった。その適度な甘さと、フレーバーティーのさっぱりとした後味との組み合わせも良い。ただ、蒸らしすぎてしまったのか、僅かに渋くなっているのが残念だった。 
 ティータイムには音楽をかけるのが常だけれど、さすがにいまはそんな気力もなかった。だから、部屋には僕がたてるひとり分の音が鳴るばかりだ。その音を聞くともなしに聞きながら、僕は……、僕はなんだというのだろう。分からないし、考えたくない。僕は手と口とを黙々と動かして、バームクーヘンの体積を減らしてゆく。
 こういう物はできるだけ早く片付けてしまうに限る、と僕はふたたび思う。こういう物、こういう感情は、早く片付けて目の前から消してしまうのがいちばんいい。
 プレートが空になったら、僕はそれを丁寧に洗ってクロスで乾拭きし、食器棚へと戻す。ポットも、カップアンドソーサーも、カラトリーも同じようにする。箱に残っているバームクーヘンと紅茶の缶は、キャビネットへしまう。それから歯を磨き、寝室のベッドで眠る。ベッドの中では、なにも考えないし、一度目を閉じたら、朝になるまで絶対に開けない。絶対にそうする。
 明日も、明後日も、バウムクーヘンと紅茶がなくなるまで、僕はそうする。
 そして晶と創真が帰ってきたら、僕はきっとこう言うんだ。
「晶、新婚旅行は随分と楽しかったみたいだね? いや、お土産話はもう十分かな、ってちょっと聞いてる? はあ、聞いてないみたいだね……、ああ、バームクーヘンと紅茶はとても美味しかったよ。ありがとう。くくっ、晶にしては気が利いてると思ったよ。本当にね」
「ねえ、晶、創真にもそう伝えておいて」