世界で一番とくべつなあなたへ

創真の母視点


 あの子をひと目みた瞬間から、あの子は特別な子どもなのだということがわたしには分かった。
 乳児院に並べられたいくつものベビーベッドのひとつに、あの子は寝かされていた。同じかたちのベッドの上でそれぞれに、眠ったり、目を開いていたり、あるいは泣いていたりしている子どもたち──ここに来る前にわたしが想像していた以上の人数の──がいたというのに、わたしの目は吸い寄せられるように、あの子だけを捉えた。
「抱っこしてみますか」
 と、わたしに尋ねた職員は、返事も待たずにわたしが見つめていた子どもを抱きかかえた。わたしが逡巡していると、その子はこちらを見て、にこりと笑った。乳児はほとんど視力を持たないのだと知っていたにも関わらず、わたしにはそんな風にしか見えなかった。
 ふたたび職員に促され、おずおずと腕の中へと抱き寄せると、一瞬きょとんとした後、あの子は大声で泣き始めた。その小さな手で、近くにあったわたしの人差し指を握りしめながら、高らかにラの音を鳴らすトランペットのように。
 生まれてきたその瞬間も、この子はこんな風に泣いたのだろうかと、わたしは思った。 
「涙が、」
 と、ハンカチでわたしの目元を拭う夫の目にも、うっすらと光るものがあった。
 泣き笑いの顔で、わたしたちはこの子をあやし始めた。代わる代わるに抱きかかえながら、その重みや、あたたかさや、汗で少し湿り気を帯びた肌を感じていた。
「ねえ、うちに来てくれる?」
「わたしたちの子どもになってくれる?」
 いつまでも泣き止まないこの子に、わたしたちは懸命に話しかけ続けた。つられるようにして泣き出した他の子どもたちの声がこだまする部屋で、この子の声だけに耳をすましていた。

 
 こうして、わたしたちは家族になった。
 創真は生まれたときは体が少し小さかったと聞いていたけれど、健康に育ってくれた。いまでは目を離すとどこへ走り出すか分からないくらい、元気のいい男の子だ。
 成長するにつれ、創真はわたしにとって特別な子どもだっただけではなく、他のひとの目にもまた特別な子どもに見えるらしいこともだんだんと分かってきた。
 創真を連れて歩いていると、
「かわいいですね」
 頻繁に見知らぬ人に話しかけられた。
 そのせいか、乳児院で出会ったあの日はあんなにも泣いていたのに、いつの間にか創真は、人見知りもなく、誰に話しかけられても笑って手をふるようになっていた。
 創真のはっきりとした目鼻立ちは、明らかにわたしと夫のどちらにも似ていない。時折、創真の顔を見た後に、わたしたちの顔をちらりと見て、なんとも言えない表情を浮かべるひともいた。その視線に晒される度、普段は意識すらしない「血が繋がっていない」という事実を、否が応でも思い出した。
 しかし何よりも、あの不躾な眼差しに、いつか創真も気がついてしまう。そのことが一番恐ろしかった。何も知らない、まっさらなこの子の中に、心無い一言が刻まれてしまうことだけは避けたかった。

 
 何度も話し合った末に、わたしたちは創真に本当のことを告げることにした。創真がまだ幼すぎることは分かっていた。それでも、他の誰かからではなく、わたしたちの口から伝えたかった。傷つくことが避けられないのであれば、わたしたちのいないところでではなく、せめて抱きしめることができる場所でその時を迎えたいと思った。
 その日の午後、創真が落ち着いているのを確かめた上で、わたしたちは創真を呼んだ。
「創真、あのね、お父さんとお母さんは創真が大好きだよ。創真は、お父さんのお母さんのこと、好き?」
 わたしたちの緊張した面持ちに戸惑っていた創真は、「大好き」のひと言を聞いた瞬間にぱっと顔を明るくし、
「うん、だいすきっ!」
 と言った。
「……、ありがとう」
 わたしたちは続けた。
「創真に覚えておいてほしい、大切なことがあるんだ。お父さんとお母さんは、創真とは血が繋がってないの」
「でも、お父さんとお母さんは創真が大好きで、創真はお父さんとお母さんが大好きでしょう? だから、……だからわたしたちは『大好き』で繋がってるんだよ」
「誰が何を言おうと、わたしたちは、愛で繋がってるんだからね」
 言い終えて、創真の大きな瞳が陰りはしないかと、はらはらとしながら彼を見つめるわたしたちに、「──ぼくたちは、あいでつながっている」と創真はくり返した。そして、
「うん、わかった」
 と、答えた。幼稚園で「いいお返事」といつも褒められる、よく通る朗らかな声で。
 わたしは創真を抱きしめながら、創真は世界で一番特別な子どもだと思った。世界中の親たちが、自分の子どもをそう思うのと同じように、世界で一番特別なわたしたちの子どもだと。
 しばらくの間ぎゅうぎゅうと抱き合った後、わたしたち三人はおやつのさくらんぼをおなかいっぱい食べた。
 いまのあなたがどれくらい理解することができたのか、わたしには分からない。だけど、いつかあなたが傷ついたとき、今日の記憶が、みんなで食べたさくらんぼの甘酸っぱい味が、あなたを守ってくれることを、わたしは願う。