月も知らない

蛍・聖人


 影宮蛍は考える。
 何がいけなかったのか。どこで間違ってしまったのか。自分は一体どうすればよかったのかを、考える。そして考えれば考えるほど、分からなくなる。自分はただ、後ろから急につかまれた手を振り払っただけなのだ。それがどうして罪になる? 
 山の土はしっとりと湿っていて、重い。シャベルで土を掻き出す瞬間、両腕と両肩にぐっとかかるその重みを感じながら、彼は、自分が何か不当な罰を与えられているように思う。あれは、事故だった。僕のせいじゃない、僕は何もしていない、と必死で言い聞かせながらも、しかし、この罰を甘んじて受けている事自体が罪なのだと、薄々気がつきつつもあった。
 
 それは、今日の午後六時のことだった。
 レッスンの帰り道、影宮はひとりで歩いていた。たまに、レッスンで高ぶった身体と心を落ちつけるためのクルールダウンと称して、こうして散歩をすることにしているのだ。
 秋の日はつるべ落としと言うけれど、紅鶴学園を出た時点では明るかった空がもう暗く沈んだ色へと変わりかけている。学園裏の山へと至る道は、人気もなく静かだった。何度も来たことのある道なので、危険だとは特に思わなかった。この時間帯にここへ来る人はいないけれど、昼間ではあれば木々の紅葉を見にやって来る人もいることにはいる。だけど、実際のところは、いまのこの時間帯が一番美しい景色が見られるのだ。山の向こうへ、夕日が落ちてゆく。その残照で銀杏の樹が燃えるように輝いている。ほんの一瞬、光が消え去ってしまう前だけに見える景色。ひとりじめするには惜しいくらいだと彼は思う。とはいえ、誰かに教えるつもりもない。ノエルにも、晶にも、秘密だ。
 この場所のことは誰も知らないのだと思っていた。
 この場所のことも、この景色のことも、彼がここにいることも。
 だから、影宮蛍は油断していた。彼らしくもなく、無防備に空を見上げていた。少しでも周囲に注意を払っていればきっと気づけたであろう、彼に向けられた執拗な眼差しや、近づいてくる足音や、それらの持ち主の息遣いに気づかなかった。そして、
「影宮、蛍くんですよね……?」
 と言う男の野太い声が彼の名前を呼び、汗ばんだ手で彼の手を掴んだ時、
「うわっ!」
 と彼は悲鳴を上げて、その手を思い切り振り払ってしまったのだった。
 振り返り、驚きに見開かれた瞳で彼は見た。自分と同じく驚いたような表情で後ろへと倒れてゆく男の顔を。彼の方へと伸ばされた手が、虚しく空を切るのを。そして最後に男の後頭部が大きな石の上へと落下したのを、見ていた。コマ送りで見ているかのように、そのひとつひとつがやけにはっきりと見え、彼の網膜へと焼き付いてしまった。「ひっ」と喉の奥から引き攣れたような音が漏れた。男は、ぽかんとした表情のまま身体を地面に投げ出して、静止してしまっていた。
 目の前で起こったそれが何であるのか、影宮には分からなかった。彼の頭も心も、それを受け入れようとしなかった。日が落ちてしまったせいでじわじわと自分の体温が下がってゆくのを感じながら、けれども動くこともできなかった。
 それからどれほどの時間が経った頃だろう。ザザザ、ザザザ、と木々の生い茂っている方から草をかき分けてこちらの道へと何者かが近づいてくるのに感づいても、彼は動けなかった。いつか無人島で遭遇した熊のことを思い出しながら、いっそ熊に食われてしまえばこの状況が全て解決するような気さえして、ぼんやりと音のする方へと目を向けて立ち尽くす。
「やぁ、影宮くん。驚かしてすまないね」
 そこには、よく見知った男がいた。椿聖人だ。「いつの間にか、迷子になってしまってねえ。ここは裏山のあたりかい?いやぁ、暗くなる前に寮に帰ろうと思っていたんだけどね」と、影宮が黙りこくっているのにも構わずに話し続ける。
「おやおや、そこに倒れているのは誰かな?」
「あ、」
「どれどれ……脈はもうないみたいだね。うーん、まいったね」
 そう言いながらも、椿の声は全く困っていないように聞こえた。彼がいつもと同じ顔、いつもと同じ声なのが、影宮にはかえって不気味に思えた。
「じゃあ、影宮くんは足の方を持ってもらえるかな? 俺は頭の方を持つから」
 椿は言った。
「どうしてですか?」
 と訊ねながら、影宮はこれが自分が椿に会ってから初めて口した言葉だということに気づく。
「どうしてって、裏山に埋めるからさ」
 椿聖人は、やはりなんでもないことのようにやわらかな微笑みを湛えて言ったのだった。

 「あの時どうして寮長の指示に従ってしまったのだろう」と影宮は思う。たった一時間前のことなのに、もう取り返しがつかない。男を埋めるための穴は、あと少しで完成する。
 山の中に訪れる夜は、暗く、深い。その上、ふたりとも黒っぽいトレーニングウェアを着ているので、近くにいてもお互いの姿はよく見えなかった。だから、この穴を掘りながら椿がどんな表情をしているのかを影宮がうかがい知ることはできない。あまり声を立てない方がいいだろうと、ただ黙々と土を掻き出している。 
 ──どうして裏山に埋めるだなんて言ったんですか? 
 ──どうして、通報しなかったんですか?
 ──どうして、僕を助けてくれるんですか?
 ──……本当に僕を、助けてくれるつもりなんですか?
 影宮の頭の中で、そんなことばかりがぐるぐると駆け巡る。訊ねれば、きっと椿は問いの答えをくれるにちがいなかった。それが、影宮の納得できる理由である保証はどこにもないけれど、彼の行動原理が分かれば、今後の対処方法を考えることだってできるはずだといつもの影宮ならば考えただろう。
 けれど、いまはどんな質問をする気にはなれなかった。これ以上恐ろしいことを何ひとつ知りたくはなかった。善意だろうと善意でなかろうと、椿聖人に一生の弱みを握られてしまったことには変わりがない。 
 影宮蛍は考える。
 何がいけなかったのか。どこで間違ってしまったのか。自分は一体どうすればよかったのかを、考える。たとえば、いまここで男を埋めるのを止めて通報したとする。男の死、それ自体は正当防衛や事故として処理される可能性がないわけではない。けれども、男を埋めようとしたという事実は残る。そしてそれ以上に最悪なことに、影宮の祖父と父が血眼になって影宮の仕出かしてしまったことをもみ消すにちがいなかった。その後に、影宮はふたりの言いなりに生きていかなければならなくなることも、容易に想像することができた。
 それは、影宮蛍の死を意味した。
 どの方向へと進んでも、やがて地獄へ至る道を歩んでいる。きっと、いつかは破綻する。思いもしなかったところから嘘が解れて、全てが明るみに出る朝が来る。そんな予感ばかりがするというのに。
「くくっ、は、はははは!」
 影宮は嗤う。「それでも、僕はこの男を埋めることを選ぶんだ」と思って嗤う。そのあまりの愚かさに、全てが馬鹿馬鹿しくなる。
「大丈夫かい?」
 椿聖人が訊ねる。
「ご心配いただかなくても、僕は至って正気ですよ」
 影宮は、先程とは打って変わって静かな声で答える。
 いつの間にか空には雲が分厚く垂れ込めていて、ここには月の光も届かない。明日は雨が降るだろう。そして、ふたり分の足跡も、掘り返した土砂の匂いも、少しだけ土を汚した血液すらも、すっかり洗い流してしまうのだろう。