忘れたいひと

チアキ×相談員

*R18*


 ハァ……、と熱い吐息とともに彼女の名前が唇から溢れる。
「だめだ、抑えないと……」
 彼女に会いたい。
 シャワーを浴びていることによって少しばかり気が緩んだのか、さっきからずっと彼女のことばかりを考えてしまっていた。面会で会うのは当分やめてほしいと自分から伝えたくせに、この様だ。彼女に会いたくて、心が、体が、堪らずに彼女を求めてしまう。
 そしてひとりでに熱くなってゆく体に、俺は冷水を浴びせる。寒い、冷たい、皮膚が、傷口が、痛い。ぎゅっと目を閉じてそれらの感覚に集中する。──忘れなければ。こんな島に閉じ込められておきながら、「行ける場所や、やれることが増えてきて楽しくなってきたよ」なんて、無邪気に言う彼女。用がないときでもメッセージでいつも気にかけてくれた。誰よりも優しくて、あたたかくて……、だからこそ、もう、彼女を俺に関わらせてはいけないのだと思う。
 本当は、俺がこれ以上なにも彼女に知られたくないだけかもしれなかった。彼女なら受け入れてくれるかもしれない。俺の手を掴んでくれるかもしれない。そう期待してしまうことも、彼女に幻滅されてしまうことも、何もかもが恐ろしくて。
 どちらにせよ、結論は同じだ。と俺は思う。俺は彼女を……、この感情を、忘れなければならない。

 冷え切った体を拭き、着替えてベッドに横たわれば、フランキンセンスの香りが鼻を擽る。彼女自身はこの部屋に一度も来たことがないのに、いま身を包んでいるやわらかな毛布も、トマトの鉢植えも、本も、CDも、視界に入るものすべてに彼女の気配と思い出とが満ちていると思う。
 忘れなければと思えば思うほど、彼女の存在を強く感じてしまう。俺はどうにかなりそうになりながら、とにかく早く眠りに落ちてしまおうと瞼を閉ざす。まぶたの裏の暗がりの静けさ。それは幼馴染の親しさで俺をここから逃してくれる。

 どれくらい時間が経っただろう。
「チアキくん」
 と、浅い眠りのなかで俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「……、チアキくん」
「……っ!」
 その控えめな呼びかけに目を開くと、彼女がベッドに腰掛けて俺の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫? うなされてたよ?」
 と、心配そうに揺れる彼女の瞳に吸い込まれそうになる。
「そ、そんなことよりも、どうしてここに!?」
 彼女がここに来られるはずがない。どうして? と起き抜けのまだうまく回らない頭を必死に動かそうとしながら、しかしパニックに陥りかけていることを自覚する。危ないことはやめてくれと何度も言ったはずなのに、どうして、どうやって? 
「どうしてって、会いたかったから」
 なんてこともないように、彼女は言う。俺は会いたくなかった。そう言うべきなのに、言葉が出てこない。
「チアキくん、……寂しいな」
 そう言って俺に、もっと顔を近づけてくる。彼女の小さな唇。面会室でも見た、そのつややかな紅の色から目が離せなくて。
「俺も……っ、だめだ、」
 さみしかった。会いたかった。その手に、触れたかった。……だめだ、言ってはいけない。そんなことを、思ってはいけない。そう決めたのに。
「もう、我慢できない……っ」
 俺はその唇を奪おうと、彼女の腰を掴み、強く強く引き寄せた。
「……ん、っ……!」

 そして、彼女を抱きしめようと伸ばした手が虚しく空を切る感覚と、下半身に甘く走った衝撃に、俺は呆然と目を覚ます。
 ……夢、だ。
 覚めてしまえばそれ以外にはあり得ない、当然の事実。どうやっても彼女が厳重に管理されたこの部屋に来られるわけがないし、ましてや俺にあんな態度をとるはずもない。
「くっ、くくっ……」
 こんなことをしている場合ではない。あの看守に目敏く見咎められる前にシャワーを浴びなければいけない。頭ではそう判断できるのに、どうしても動けなかった。
「……っ、はは、……」
 あんな夢を見るなんてどうかしている。その上こんな……、と思うとひどく可笑しかった。熱を帯びてゆく両目を左手で覆う。自分の愚かさが、つくづく嫌になる。
 たとえ夢のなかでも、君に会えて嬉しかった。
 俺は、いま、そうとしか思えないのだ。
 そうして殺しきれなかった感情が、ひとつ、目から溢れた。