星の光

チアキ×相談員

*R18*


 あの夜、彼女が去ったあとの俺の世界は、太陽の光が永遠に失われてしまったようだった。
 外の景色も見えない保護室の硬いベッドに座って、ただ胸の痛みに耐えることしかできない。それが俺が彼女の幸せのためにできる、たったひとつのこと。そんな自分が悔しくて、虚しくて、何よりも悲しくて、取り戻した感情の全てが痛くて堪らなかった。
「あなたに頼みたいことがあります」
 そう狩谷に持ちかけられた時、だから俺はあまり迷わなかった。
 諜報員として「黄金の蜂計画」の真相を暴くための情報を収集する代わりに、偽装工作によって「ユーゴ・クロイワ」を死亡したことにし、俺に自由を与える。──無論、与えられる自由は制限付きにせよ、いまの俺の立場を考えれば悪くない条件だった。それに、この仕事以外をしたことがない俺に、今さら他の事ができるとも思えない。
「分かった。……その話、引き受ける」
「そうですか」
 狩谷にとってもさして意外ではないのだろう、俺のその答えに表情を変えることなく簡単に頷くだけだった。
 保護室の暗がりで、彼女の夢ばかりを見た。
「俺は……、君を愛さない」
 最後に言い放った俺の言葉を聞いた瞬間の、彼女の苦しげに歪められた顔がまぶたの裏に焼きついて離れない。彼女の笑顔が好きだった。少し心配になるくらい素直で、無邪気な反応を返してくれた彼女とは、もっと楽しい思い出がたくさんあったはずなのに。
「ごめん」 
 そんな夢を見る度に、届くはずもない謝罪の言葉が思わず溢れては、暗闇のなかへと吸い込まれるように消えていった。


 島を出てからの日々は、順調とまではいかないものの、坦々と過ぎていった。偽装工作とやらがどのように行われたのか、知る由もないし、知りたくもないが、どうやら上手くいったらしい。
 諜報員としての仕事は、鈍っていた勘さえ取り戻してしまえば俺の体にしっくりと馴染んだ。仕事のために頭と体とをフルに動かしている間は、彼女のことを忘れることができた。だからだろうか、「黄金の蜂計画」に関わる情報に動きがない時には、他の仕事を受けることも許可された俺は、むしろ以前よりも積極的に仕事をこなすようになっていた。 
 彼女の夢を見ることも、保護室にいた頃よりは少なくなったように思う。それでも、眠れない夜に想うのは彼女のことだった。窓の外で瞬く星を見つめながら、今頃、彼女は何をしているだろう、よく眠れているだろうか、幸せだろうか、とそんなとりとめのないことばかりを考えてしまう。
 元の生活に戻った彼女は、きっと幸せだろうと思う。家族や友人に囲まれて、健やかに暮らしているだろう。もしかしたら、恋人だってできたかもしれない。
 調べようと思えば、彼女がいまどこで何をしているのかを知るのはそう難しいことじゃない。こっそり会いに行くことだって、できるのかもしれない。それでも、万が一にも彼女を危険に晒すことはできなかった。
 彼女が誰か他の男と幸せそうにしている姿を思い浮かべると、さすがに胸が痛んだ。「もう一度だけでも会いたい」「声が聞きたい」「元気な姿を確認するだけでもいい」と、心が叫び出しそうになる夜もあった。……でも、これでいいんだ、と俺は思う。この、耐えがたい苦しみ。痛み。それは俺の彼女への誓いの証だから、ずっと消えないままでいい。
 君を想うだけで幸せだと言ったのは、嘘じゃない。彼女が幸せでいてくれることが、俺の一番の望みだ。それを叶えるためなら、俺はなんだってできる。
 神様がいるのかどうかなんて分からないけれど、どうかこの星の光が彼女の行く末を照らしてくれますように。幸せへと導いてくれますように。
 そんな祈りを捧げては、「彼女には会わない」ということを、死ぬまで毎日選択し続けることだってできるといつも思った。


 新しい生活にも慣れた頃、「ユーゴの墓に探りを入れようとしている人物がいる」という連絡が俺の元へと入ってきた。墓を調べたところで何が分かるとも思えないが、後々に面倒なことになっても困る。そう判断し、俺はすぐに現地へと向かうことにした。
 自分自身の墓を見るなんて不可思議だと思う。あまり気分のいいものでもないなと思いつつ、俺は晴れやかな空の下を歩いた。
「いい天気だね」
 と、彼女ならメッセージをくれるような青空だ。最近はこんな風に楽しかった出来事を思い出すこともできるようになってきた。そのことが嬉しくて、少し寂しかった。彼女が思い出になってゆくことで、自分との間に距離ができてしまったように感じる。
 ──その時、教会の鐘の音が聞こえた。あたりへ響きわたる、明るく朗らかなその祝福の音に、急に視界が開けたような感覚に陥る。
 そしてその先に見えた人物の姿に、俺は息を呑んだ。
 俺の、ユーゴの墓の前には、彼女がいた。面会室で会っていたあの頃と何も変わらない彼女が、しかしうなだれ、悲しみに暮れた様子で立ち尽くしている。
 彼女の姿を俺が認めたその刹那に、鐘の音に導かれるように、彼女がこちらを振り返った。
 ──あぁ、どうして君は。
 ──どうして、俺を離してくれないんだ。
 彼女が驚きのあまり、目を見開いている。二度と会わないと決めていた、最愛のひとが、いま俺の目の前で。
 ふたりの間を隔てるガラスは、もうどこにもない。
 拒絶の言葉を頭のなかで必死に探しながらも、そんなものをいくら並べても彼女に敵うわけもないことを、俺は心のどこかで知っていたような気がした。


 朝、目が覚めると彼女がいる。
 そんな幸福に、彼女と暮らし始めて一年が経とうとしているいまでも慣れることができない。きっとどんなに時間が経ったとしても慣れることなんてできないだろう。彼女が俺の傍にいてくれるという、夢みたいな幸福に。
 教会の前で再会したあの日、あの瞬間に、彼女は俺を選んでくれた。
「もう離さないから」
 そう言って俺の手を握り、
「ずっと言いたかった……。私も、あなたのことを愛してる」
 と、涙の雫をいくつもいくつも溢しながら、震える声で伝えてくれた。
 彼女の幸せを祈るだけでいいと思っていた。そんな風に想うことができる相手がこの世界に存在しているというだけで、生きていけると思っていた。でも、いまは──それだけで耐えるだなんて、とてもできそうにない。
 もう離さない。離すことなんて、できない。
 そうより強く思っているのは、俺の方なんじゃないかと思う。今日だって、
「なにかほしいものを考えておいて」
 と言っておいたのに、彼女からの返事は、
「あなたがいれば、それだけでいい」
 というものだった。
「それは嬉しいけど……そういう意味じゃないのは分かるだろ?」
 と困った風を装いながら、俺は彼女がそう答えてくれるんじゃないかと期待していたことを自覚する。顔が熱くて、筋肉が変にひきつっていることも。
 彼女のために俺ができることなら、何だってしてやりたいと思う。俺が与えられるものなら何でも与えたい。喜ばせたい。俺が彼女を笑顔にしたい。いつだってそう思って行動している。でも、彼女が俺に与えてくれるほどには、俺は何もしてやれていないと思うのはこんなときだ。
「ありがとう」
 掠れる声で彼女に礼を言いながら抱きしめれば、
「どういたしまして」
 と、彼女の甘やかな声が俺の耳を擽った。
「チアキ」
 と、彼女が俺の名前を呼ぶ。その度に俺は、彼女への想いで胸がいっぱいになる。
 新しく得た俺のパスポートに記されている名前は、もちろん「チアキ・カシマ」ではない。特に思い入れもない、記号のような、他人のもののような名前だ。
 いや、「チアキ」という名だって、最初はそのはずだった。でも、彼女がこの名で呼んでくれたから。俺は俺を「チアキ」だと思う。彼女だけが知っている本当の俺。
 島を出るとき、誓約書にサインした名前は「ユーゴ・クロイワ」だった。しかし、「ユーゴ」はもういない。死んだ人間が誓約書を守る義理もない。ましてや「チアキ」である俺にもないだろう。きちんと仕事の成果を出し続けている俺に、今さら、誓約書を守れと言ってくることもないと思う。……まぁ、言われたところで引き返せない。そんなところにまで彼女は来てしまっていた。
 あまり部屋の外へと出る機会のなくなった彼女の肌は、島にいた頃よりも随分と白くなった。と、その裸身を見下ろしながら思う。
「……っ、ぁ」
 透けるように白いその肌に、俺の唇で赤い花を散らしてゆけば、堪えきれないというようにあえかな彼女の声が洩れた。揺れる瞳が、すがるように俺を捉える。下へ下へとおりてゆく唇が彼女の臍の下あたりに触れ、いよいよ泣きそうなその声に、ひどく興奮している俺がいた。
 もっと、もっと、彼女を愛していたい。底無しの快楽の海へと沈めてしまいたいと思う。そうして、もっと、俺を求めて。……なんて、そんなことを思ってしまう俺の方こそ彼女に溺れていることは、分かっている。
 彼女のなかを俺自身でゆっくりと割りひらきながら、唇を塞ぐ。彼女の腕が俺の背に強くしがみつくのを感じながら、俺は律動を開始する。ふたり分の荒い呼気の音と、シーツの衣擦れの音とが密やかに部屋に満ちる。そして0,01㎜の隔たりもなく、ひとつに溶けあってゆく体──そう、彼女はピルを飲んでいる。だからいくら愛しても、妊娠させてしまう心配はない。
「愛してる」
 俺の言葉で、体で、彼女にこの気持ちを伝えることができる歓びに、俺の心はどうしようもなく震えた。
「あっ!……っ、ぁっ、あ……っ!」 
 彼女の奥を揺さぶる俺の動きに合わせてあがる嬌声が、その絶頂の近いことを教えてくれる。
「……っ、いいよ、イッて?」
 と、耳元へ吹き込むように囁く俺の声を聞き、塞き止めていたものが決壊したように、彼女は達した。俺を締め付けるその感覚をしっかりと感じとった後、俺もまた彼女のなかで果てた。
 真夜中の静けさに身を浸していると、世界には俺と彼女しかいないんじゃないかという錯覚を起こしそうになる。灯りをつけていない部屋は薄暗いけれど、保護室にいた頃のような寂しさも、虚しさも感じない。
 人に触れられるのは、苦手なはずだった。だけど、俺の腕のなかで眠る彼女のぬくもりはとても心地よくて、むしろ俺の心を落ち着かせてくれた。頬に触れる柔らかな髪の毛も、匂いも、その何もかもが愛おしかった。──俺がずっと、本当に欲しかったもの。それを手に入れた恐ろしいほどの幸福が、俺を満たしている。
 ふたりきりの部屋。もう俺しか呼ぶことのない、彼女のその名前を呼ぶ。
 そして、レースカーテン越しに洩れくる秋の夜のやさしい星の光が、いつまでもふたりを照らしていた。