チアキ×相談員
もうどこにもいないはずのひとを、私はずっと待っている。
街の人波に、満員電車の中に、あるいは晴れ渡る空の下に、彼の姿を探している。どこにいても何をしていても、いつか起こるはずの奇跡を私は待っている。「久しぶり」とか、「待たせてごめん」とか、そんなようなことを言ってひょっこり彼が現れるんじゃないかと、そう期待してしまっている。
それはとても愚かな行為なのだと、無論私は知っている。
──チアキくんは、死んでしまった。
だから朝になる度に、そう自分に言い聞かせる。ニュースにもなったその動かし難い事実を前に私にできることはもう何もないのだと、何度も何度も。第一に、私は誓約書にサインをしてしまったのだ。守れるわけのない約束を、交わしてしまった。
島からは本当に何も持ち出すことができなかった。
「規則ですから」
とだけ、見知らぬ若い看守が言った。「チアキくんはどうしていますか」と問いかけたけれど、努めて表情を変えないようにしているらしいその看守は、黙ったまま首を振ることすらなかった。
私に残されたのは、悲しみと後悔だけだ。
それらは私の世界からすっかり色彩を奪い、無味乾燥なものにした。いまならチアキくんの言っていたことが、少しだけ分かる。死んだように生きるとは、きっと、こういうことを言うのだろうと。
その封筒が届いたのは、島から出て一年が経とうとする頃だった。それはごく普通の茶封筒で、送り主の名前が記されていないこと以外は何の特徴も持っていなかった。宛名書きにはパソコンで作成したらしいラベルシールが貼られている。ポストに溜まっていたチラシ広告に混じっていたそれを、私は特に何も考えずに開封した。鞄を床に置き、上着を脱いでハンガーに掛け、ただのルーチンの一部として、坦々と。
中に入っていたのは、一冊のノートだった。私のものではない、けれどもとても見覚えのあるノート。
それは、チアキくんのノートだった。
どうして? と思うよりも早く、私の震える指はそのページをめくり始めた。どのページにも、SABOTの監視画面でははっきりと捉えることのできなかった彼の文字がびっしりと並んでいる。そのほとんどは英語で、書かれている内容を正確に理解することは難しかった。比較的きれいな筆記体で書かれているページもあれば、書き殴ったようにひどく乱れた文字が並んでいるページもあった。
それでもたったひとつ、すぐに分かったことがある。このノートに書かれているのは、私のことだ。
いつか彼に送ったメッセージを思い出す。
「今、何を考えてるの?」
という私の質問に、
「ああ、君のことを考えてた」
と、ノートに何かを書き付けていたはずのチアキくんが答えたこと。その時は、私を喜ばせようとしてそう言ってくれているのだと安易に思っていた。でも、彼はそのままの意味で言っていたのだ。
最後のページは、日本語で書かれていた。「ひかり」と題されたその文字列は、どうやら一遍の詩のようだった。
それはとても短い詩で、すぐに読み終わってしまったけれど、私は繰り返し読んだ。ほたほたと零れ落ちる涙に、丁寧に書かれた「君」という字がじわりと滲んだ。
ひかり
夜の水底の静けさに身を横たえ
もがくことを忘れた両腕の
その重みに耐えていた
幾千の夜が知らぬ間に通り過ぎては
また新しい夜を連れてきた
嗚呼、陽のひかりの眩しさよ
そのぬくもりが
俺の皮膚には痛いのだ
何故と問いかけることにも疲れ果て
閉じたままのまなぶたの裏には
もうどんな夢も映しはしなかった
すっかり青ざめてしまったこの唇では
君の名前を呼べはしまい
揺れる水面の向こう側
触れることのできぬ一筋のひかりよ
祈る心はせめて、君へと
私には何も残らなかったなんて、嘘だった。誓約書を書かされても、このノートがなくても、彼がこの世界から消えてしまったのだとしても、誰にも奪えないものを、私は受け取っていた。彼が残してくれたものは、ここにある。激しい胸の痛みが、それを教えてくれる。
チアキくんのいる場所へ行こう、と私は思う。河内さんが教えてくれた彼のお墓。ずっと勇気がなくて行けなかったその場所へ、初めて行きたいと思った。待たせていたのは、私の方だ。
「チアキくん」
私は愛するひとの名前を呼ぶ。ねえ、チアキくん。チアキくんって案外ロマンチストだよね。
堪えきれない嗚咽がひとりきりの部屋に響く。あなたは私を抱きしめてはくれない。一度だって触れることのできなかったあなたの、そのぬくもりを思い出すことすら叶わない。
けれど、ノートをそっと抱きしめれば、
「言ったはずだけど? 詩は嫌いじゃない、って」
そんな彼の照れ隠しの声が聞こえてくるような気がした。