どうか最後に凍えるキスを

チアキ×相談員

 
 意味のないことが嫌いだった。内容の薄いメール、無駄話、陳腐な噂。どれも時間の無駄でしかないと思っていた。そんなことはどうでもいい、とそう口にすることすら煩わしく、一刻も早くその場を切り抜けるために曖昧な笑みを唇に浮かべながら、しかし俺の心は一ミリだって動くことがなかった。
 それなのに、どうしてだろう。
 彼女から送られてくるメッセージに対しては、そんな風に感じたことがなかった。頻繁に送られてくるメッセージには、特別に面白いことが書いてあるわけではない。主に彼女が出掛けた場所や、島の人たちと交わした会話について綴られているだけだ。世間話と言っても良いくらいの、他愛のないやり取りである。収容所という特殊な閉鎖環境での生活が俺の心理状態に影響を与えているのかもしれないと、そう考えたこともあった。けれども、
「ねえ、チアキくん」
 そのたった一言だけで、彼女は俺の胸を熱くさせることができる。
 俺にとって彼女は特別なひとなのだと認めざるを得ないほど、熱く、熱く。
 精一杯の平静を装って「何?」と返した俺に、呼んでみただけだと無邪気に言う彼女のことが、どうしようもなく好きだった。
 好きなひとの言葉ならば、それがどんな些細なものでも心を揺らすのだということ。その短い文面からは信じられないくらい多くの意味を見出してしまうことを、初めて知った。時折、俺からもメッセージを送るようになった。彼女とのやり取りを何度も読み返しながら、SABOTの画面に灯る光をひどく温かいもののように感じた。

 それでも、
「実は私、人間じゃないの……」
 というメッセージが初めて送られてきた時は、さすがの俺も困惑した。
「えーと。とりあえず、ご出身は……地球?」
 と、苦し紛れに送った俺の返信を、どうやら彼女は気に入ったらしい。それからは毎日のように「人間じゃないの」というメッセージが送られてくるようになった。
 もちろん、彼女がちゃんと人間なんだということは分かっている。おそらくは、部屋から出ることもできず、変化に乏しい生活を余儀なくされている俺を気遣ってくれているのだということも。そして、そんな彼女のユーモアに応える文章を考えるのはなかなか楽しくもあった。
 もしも彼女が人間ではないのだとしたら、と俺は想像する。彼女の容姿はどう見たって人間だ。だとしたら、見た目だけではそれと分からないようなもの、例えば、俺の元へ遣わされた天使とかだろうか。それとも、俺の心を惑わす悪魔かもしれない。血に飢えた吸血鬼? いや、海の底から俺に会いに来てくれた人魚姫だったらいい。あるいは──、そう、雪女。
 いつか読んだ本に記されていた、この国の昔話を俺は思い出す。人のようでありながら、異なる存在。時には人の命を奪うことすらあるという、雪の精。その恐ろしくも美しいイメージは、いつも優しく俺を気遣ってくれる彼女とは遠くかけ離れているはずなのに、不思議と彼女に似合うような気がしたのは何故だろうか。
 彼女は雪女なのだと、そう想像した日の夜、俺はなかなか寝付けなかった。そしてようやく訪れた浅い眠りをたゆたいながら、ちらちらと舞う雪の中へと俺を誘う彼女の夢を見た。彼女は、とても楽しそうに笑っていた。
 翌朝、いつものように送られてきた「実は私、人間じゃないの……」というメッセージに、だから俺は、君は雪女なんじゃないかと答えた。
 彼女は、俺の言葉を否定することも肯定することもなく、ただ、
「私に触れるものは全て凍りついてしまうんだよ」
 という返事を寄越した。
 ああ、本当に君が雪女だったら良かった、と俺は思う。
 もしそれが真実ならば、誰も彼女に触れることができないのだから。
「君に触れられるなら、凍ってもいい」
 硝子越しに重ねた、彼女の手のひらの冷たさを思い出しながら俺は返信する。──君に触れるのは、俺だけでいい。
「でも、なるべくゆっくり凍らせてほしい。できるだけ長く君を感じていたいから」

 瞳を閉じて、俺は思い浮かべる。
 どこまでも続く雪原に、彼女はひとり佇んでいる。髪の毛をなびかせ、薄い着物を一枚着たきりの、ひどく寒そうな格好でどこか遠くを見つめている。その姿を見た瞬間に俺は駆け出しそうになる。早く彼女の元へたどり着かなければ、彼女がどこか遠くへ行ってしまうかもしれないと思う。しかしあまりにも強く吹き付ける風がそれを許さず、鉛のように重い足はほんの少しずつしか前へ進んでゆかない。一歩、また一歩と彼女へ近づいてゆく俺の、その足跡はすぐに消え去り、もう自分がどこから歩いてきたのかも分からなくなった。それでも構わずに動かし続ける足からは徐々に感覚が失われてゆき、雪の冷たさも感じることができない。
 だけど、俺は嬉しくて仕方がないんだ。アメリカで生まれて初めて雪を目にしたあの日よりも鮮烈な喜びに心が震えている。
 だって、君が、俺を見つけてくれたから。
 君の唇が、「チアキくん?」と動いたのが微かに見える。いま、そっちに行くから。そう叫んだところで聞こえないだろうということは分かっているけれど、叫ばずにはいられない。降り続ける雪が何もかもを覆い隠してくれる。俺がしてきたこと、見てしまったもの、知りたくもなかったこと。そんなことは全部なかったみたいに、まっさらな世界に、君とふたりきりだ。
 目の前に、君が立っている。
 その瞳に、俺を、俺だけを映している。
 君の、不可触の肌。
 その真白に手を伸ばす。
 君を、俺の腕の中へと閉じ込める。
 ああ、思ったとおりだと俺は思う。
「……君は、あたたかいな」
 彼女に最初に触れた、指の先から俺は凍りついてゆくだろう。だけど、少しも寒くない。恐ろしくもない。ただ彼女のぬくもりが嬉しくて、愛おしくて。俺の内側が彼女に満たされてゆくのを感じている。
 愛してる。
 そう言いたくて、しかしもう動かすことのできない俺の唇に、どうかキスをしてほしい。君も俺と同じ気持ちだったのだと、そう教えてほしい──。
 彼女に触れることができるなら、この命が尽きてしまってもかまわない、なんて。少し前までの俺ならば、思いつきもしなかったであろう言葉が口をついて出そうになる。意味もない妄想に、溺れそうになる。
 まぶたをゆっくりと開き、俺はもはや見慣れてしまった収容室のベッドにひとりで座っていることを思い出す。そして鉄格子の向こうには雪原が広がっているわけもなく、眩いばかりの夏空が輝いているのだった。