豹変

チアキ×相談員 エンドレスモード

 額から噴き出した汗が頬を伝って流れ落ちた。ひとつ、またひとつと落ちてゆく汗が、Tシャツの胸のあたりをじっとりと湿らしている。空調の効いた部屋は、しかし暑いわけではない。分厚い硝子越しにかすかに聞こえる蝉の声だけが、いまが夏であると告げていた。
 大股で歩けばたった数歩で一周してしまう部屋を、俺はひとりぐるぐると歩き回る。殺し損ねた呻き声が、喉の奥で低く響く。大粒の汗がほたりと床に落ちる。それがゆっくりと床に染み込んでいくのを横目で眺めながら、恐ろしいほどに滑稽だと思う。滑稽、愚図、愚鈍。そうやって自分自身を罵りながらも、歩みを止めることはできなかった。
 彼女に会いたい。
 もうずっと、そのことばかりを考えている。
 彼女とはほんの数日前に面会をしたばかりだった。ノースリーブのワンピースに身を包んだ彼女は、「ここ少し寒いね」と両腕を抱きかかえるようにさすっていた。最近はよく海辺を散歩しているのだという彼女のその肌は、以前よりも日に焼けている。彼女は海で拾ったシーグラスの話をする。あるいは、花壇に咲いていた向日葵や、食堂の夏限定のメニューの話を。それらに頷きながら、俺は、この硝子さえなければ君に触れられるのにと思っていた。
 次の面会の予定はまだ決まっていない。形式上は彼女は俺の相談員ということになっている。その彼女が申請をしない限り、面会は行われないのだ。もっとも、彼女が毎日面会したいと申し出たところで、看守の許可が下りないだろう。なにひとつ自由にならないこの部屋での生活は、嫌な記憶ばかりを呼び覚ます。自分の意思を取るに足らないものとして扱われる苦痛。俺は無意識に傷跡を庇うようにうなじに手のひらを当てていること気づき、短く息を吐いた。
 俺がこの施設に収容されてからもう四年が経とうとしている。事件はとっくの昔に解決したというのに、ここを出られる見通しは立っていない。恐らく俺は死んだことになっているのだろう。もともと偽造に偽造を重ねたパスポートを使って入国したのだ。記録を抹消するのは容易いはずだった。
 彼女が何をどこまで知っているのかは分からない。いつの間にかあの事件については話さないことが暗黙の了解になっていた。彼女はなにも言わない。ただ当たり前のような顔をしてこの島に残っている。そのせいで、もうずっと家族や友人に会えていないし、直接連絡することさえままならない日々を余儀なくされている。
「いつまで彼女をこの島に縛りつけておくつもりですか」
 いつだったか、須田看守にそう問われたことがある。彼は普段通りの胡散臭い微笑みを浮かべてはいたが、その瞳は珍しく真剣味を帯びていたことを覚えている。
 そのときの俺はまともに取り合わなかったが、いまなら分かる。俺の存在が彼女の人生を大きく歪めてしまった。そのことが、時間が経つにつれて重くのしかかってくるようだった。
 さっきから、頭がズキズキと痛む。脳の中心部から腐敗していくような、不快な痛みだ。それを誤魔化すようによりいっそう部屋を歩き回りながら、俺は彼女に会いたいと思う。彼女に会いたい。彼女に触れたい。彼女にこの気持ちを伝えたい。そのどれもがきっと叶わない、叶えてはいけないのだと知っているのに、心は思う通りに動いてはくれない。
 ぐるぐる、ぐるぐると、円を描くようにひたすら歩く。思考と感情の渦に飲み込まれていくように、景色は霞んでいく。それでも歩いて、歩いて、歩いて、いよいよ目が回り始めたとき、俺は、自分が黒豹になっていることに気づいた。
 まず目に入ったのは、黒い毛に覆われた前脚だった。次に慌てて尻尾を探した。そして、いつもよりも随分と低い位置に広がっている視界をきょろきょろと見回して、「嗚呼」と声を漏らした。しかしそれは、獣の唸り声として部屋に響いた。それを聞きつけたのか、部屋に飛び込んできた若い看守が悲鳴を上げた。
 その一瞬の隙を突いて、俺は扉の向こうへと走った。
 そこからのことは、よく覚えていない。
 俺はただひたすらに走り続けた。こうして全力で走るのは久しぶりのはずなのに、やけに体が軽かった。風を切る音が耳に心地良い。数人の看守とすれ違ったが、誰も俺の脚についてはこられなかった。
 本能のままに駆けているうちに、いつの間にか森の奥深くまで入り込んでいた。とっぷりと日も暮れて、空には大きな満月が昇っている。少し離れたところでは、看守たちが俺を探している気配がした。けれども、鋭くなった嗅覚を使えば身を隠すことはそう難しくない。
 風下を通って、俺はゆっくりと移動する。木々の梢がさわさわと夜風に揺れている。腐葉土のやわらかな感触。水の音が聞こえる方へと歩みを進めれば、すぐに小川のほとりへと辿り着いた。
 ちろちろと舌先で小川の水を掬い取るようにして喉を潤す。その水面に映っているのは、やはり獰猛な顔つきの黒豹である。それを横目で眺めながら、俺はひどく腹が減ったと思う。もしかすると、部屋を出てから数日が経っているのかもしれない。何か食べるものを調達しなければ、と考えようとしたところで、俺の意識はふっつりと途絶えた。
 はっ、と目が覚めたとき、あたりはもうすっかり明るくなっていた。チチチ、と鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。ぐっと伸びをするように背をしならせてから起き上がると、どういうわけか足が泥で汚れているのが見えた。その上、小川のほとりから大きな樹の影へと場所も移動しているようだった。ぐるりと一帯を見回してみたものの、どうやってここまで来たのか何ひとつ思い出せそうにない。あの事件の直後のように、記憶が混濁しているのだ。俺はずっと眠っていたのではなかったのか、と考えると空恐ろしい気分になる。
 そのとき、ふと、何かとても惹きつけられる匂いがした。ひくひくと鼻を動かしながら、忙しない足取りで樹の周りを一周する。そうこうしているうちに、俺は急に腹が減って仕方がなくなった。
 気がつくと、俺は、その匂いのする方角へと一心に走り出していた。ざざざ、ざざざ、と草をかき分けながらまっすぐに進む。そうだ、俺は看守に見つからないように夜の間だけ移動することにしていたのに、とふいにそんなことを思い出したが、足を止めることはできなかった。俺はどうしようもなく空腹だった。このいい匂いのするものを食べたかった。その肉を裁ち、骨を砕くのを想像すると、口の中で唾液が溢れ出しそうになるのが分かった。
 走れば走るほど、匂いは濃くなっていく。それに釣られるように、走る速度も増していく。あと少し、あと少しで獲物にありつける。いよいよその目前に辿り着いたとき、ぐるると喉を鳴らしながら俺は草むらの外へと躍り出た。
 そこには、ひとりの人間がいた。その人間は、「わっ」と声を上げて、尻もちをついた。そして、俺の姿をひと目見て、「チアキくん?」と言った。
 チアキ。その名前を聞いて、俺は自分がチアキ・カシマだったことを思い出した。そう、俺は自分が人間であることをすっかり忘れていた。身も心も黒豹になりかけていた。そのことを自覚すると、頭の奥がズキリと脈打つように痛んだ。
 俺はすぐに草むらへと身を隠した。彼女にこの醜い姿を見られたことが、恥ずかしくて堪らなかった。彼女に嫌われてしまった。そう思って地に伏したまま、いまにも溢れてしまいそうな涙をただこらえていた。
「ねえ、チアキくんなんでしょう?」
 その間にも、草むらの向こうから、彼女の気遣わしげな声が聞こえてくる。
「ずっと探してたんだよ。……無事でよかった」
 と言った後、かすかに鼻を啜るような音がして、彼女もまた泣いていることが分かった。黒豹になってしまった男を果たして無事と言えるだろうかと思ったが、それを口にするのは野暮だろう。
 こんな姿になってしまったのを目撃してなお、彼女は俺に「帰ろう」と言った。「帰ろう、みんな待っているから」と言う彼女が嘘をついているとは思えない。彼女は心の底からそう信じているのだろう。あるいは、信じていなければ自分を保っていられないのかもしれない。
「きっとなんとかなるよ。大丈夫、私がなんとかするから」
 そんな悲鳴のような彼女の声を聞きながら、そうだ、俺は彼女のこういうところが好きだったんだと思った。優しくて、お人好しで、俺みたいなどうしようもない人間のためにいつも必死になってくれる。俺がほしかったものを与えてくれる。だから、彼女のためにならないと分かっていたのにいつまでも離れることができなかった。いまだってそうだ。俺の脚なら彼女から逃げ切れると知っているのに、ぐずぐずとここに留まり続けている。
「どうして、俺だって分かったんだ?」
 俺は震える声で彼女に訊ねた。
「そんなのすぐに分かるよ。ずっとチアキくんのことを見てたから」
 彼女はそんな何の説明にもなっていないことを答える。どうせ俺が部屋から逃亡する映像でも見せられたんだろうと思いながらも、俺を傷つけまいとする彼女の言葉が嬉しくて、「ありがとう」と言った。
 俺がどんなに彼女に感謝しているか、きっと彼女には分からないだろう。彼女と過ごした四年間、俺は確かに幸せだった。いくら言葉を尽くしたところで足りないくらい、幸せだったのだ。彼女がいたから、俺は人間らしい感情を取り戻すことができた。喜びも、悲しみも、醜い嫉妬や憎悪でさえも、彼女がくれた美しい贈り物のように思った。そのせいで、いまこうして身を滅ぼすことになったのだとしても、俺は全てを甘んじて受け入れよう。
 俺は彼女の名前を呼んだ。「チアキくん、」と彼女が何かを言いかけるのが分かった。それを制止するように、俺はひらりと草むらから彼女の目の前へと飛び出した。
 突然黒豹と対峙することになった彼女は、驚いたように立ち尽くしていた。その上着の裾や膝のあたりが泥で汚れているのが見えた。
 ふたりの間には、もうあの憎き硝子が立ち塞がってはいなかった。あと数歩近づけば彼女に触れられる。けれど、理性を失えば、俺はたちまちこの牙で彼女に食らいついてしまうのかもしれなかった。
「もう俺のことは探さないでくれ。君を傷つけたくない」
 俺の低く唸るような声に、彼女は一瞬怯えたように身を竦ませた。それでも、この場から逃げようとはしない。俺を見つめるその瞳にうっすらと張った涙が、朝日を反射してきらきらと輝いていた。
 その姿を永遠に目に焼き付けておきたい。そう思いながら、俺は、彼女に告げた。
「俺は……、君を愛していた」
 彼女の返事は聞かなかった。彼女は俺を愛している。そのことを俺は随分前から知っていた。
 俺はそのまま、森の奥へ向かって駆け出した。背中の方から、彼女が俺を呼ぶ声が聞こえた。「チアキくん、チアキくん」といつまでも呼んでいた。その声が聞こえているうちはきっとチアキでいられると思った。
 俺はもう二度と振り返らなかった。できるだけ彼女から離れるために、力の限りに走って、走って、走り続けた。息が苦しくなっても、足が傷ついても、止まることはなかった。次第に霞がかってゆく意識の中で、彼女のことばかりを想った。
 そして、とうとう自分がどこへ向かって走っているのかが分からなくなった頃、俺は、夢現に銃声がひとつ鳴るのを聞いた。