ありふれた幸福

チアキ×相談員 END2

 薄く開けた窓から入ってくる風が、レースカーテンを揺らす。やわらかな午後の日差しがフローリングの床にたわんでいる。もちろん、窓に鉄格子は嵌っていない。ふと顔をあげたとき、そんな当たり前の光景が目の前に広がっていることを、私はとてもうれしいと思う。
 今日は久しぶりにふたりそろっての休日だった。その上、天気は一日じゅう晴れの予報だ。だから、私たちは随分と張り切って午前中のうちに掃除も、洗濯も、買い物も、クリーニングに預けていたチアキくんのスーツの受け取りも、ぜんぶ済ませてしまっていた。
 「ねえ、チアキくん」と、いつもの癖でとなりにいる彼に呼びかけようとして、やめた。
 長い睫毛を伏せて分厚い本を読みふけっている彼は、ソファーを背もたれのようにして、床に敷いたラグの上に直接座っている。彼のかたちの良い後頭部の、短めの髪の毛が少しだけはねているところが、なんだかかわいくて愛おしい。
「ソファーに座らないの?」
「いや、この方が落ち着くから」
 一緒に暮らしはじめてしばらく経った頃に、そんな会話をしたのもなつかしかった。そのまま何の気なしに床に置いた本が、いつの間にか積み上がってちょっとしたタワーのようになることも、いまではもう知っている。
 今日みたいに、チアキくんにならって私もたまにラグの上に座ることもある。お尻が冷たくなるので、一応クッションを下に敷いてはいるけれど。こうしているとソファーに座っているときより目線が低くなるのが新鮮だったし、足を自由に伸ばせるのも案外気持ちがよかった。
 ぱらり、と彼の指先がページをめくる乾いた音。それを聞きながら、マグカップに入れた珈琲をすする。体の右側には、じんわりとチアキくんの体温を感じている。彼の本を読むスピードは、私よりもずっと速い。ぱらり、ぱらり、と規則正しい音とともに、物語はぐんぐんと読み進められていく。だぶん、とても面白い小説なのだろうと思う。チアキくんの集中しきった横顔を見れば、そのことがよく分かった。
 もしも声をかければ、彼はすぐに顔を上げてくれるだろう。こちらへと振り向く瞬間の、彼の表情が好きだ。私が呼ぶ度に、チアキくんは「ああ、よかった、君はまだちゃんとここにいる」という心の声が聞こえてきそうなくらいに、安堵に満ちたほほえみを浮かべる。そのあとで、ちょっと取り繕うように、「なに?」とか、そういうすこしそっけない返事を寄こすのだ。
 私はどこにも行かないのに。たまにそう言いたくなるけれど、そんなことはチアキくんにだって分かっているにちがいない。分かっていてもどこか不安で、どうしようもなくて、私の姿を無意識のうちに目で追ってしまうのだと思う。
 だからこそ、こうしておだやかな表情を浮かべているチアキくんの横顔をもうしばらくのあいだ眺めていたかった。
 本当のことを言えば、午後はふたりで出かけるつもりだった。たとえば、すこし離れた場所にある広い公園だとか、大通りに新しくできたカフェだとか、日本語の本も置いてある書店だとか、そういうデートっぽい場所へ行きたくて早めに用事を済ませたのだ。せっかくの休日なんだから、というのがその理由で、どうしても出かけたかったわけではない。チアキくんも私も口にこそ出さないものの、どちらかといえば家にいる方が好きだった。
 空になったふたりぶんのマグカップを持って、私はそろりと立ち上がる。いまは本に夢中になっているけれど、声をかけたり、大きな音を立てたりすれば、チアキくんはすぐに我にかえって「いまからでもいいから出かけよう」と言い出すだろうから。
 私はキッチンの電気ケトルのスイッチを入れ、ドリッパーの準備をする。豆から挽くのは断念して──チアキくんはいつも珈琲を淹れる直前に豆をミルで挽いてくれる。力加減を均一にするのがコツなのだと言っていた。──大人しくすでに粉になっているものを探すことにした。たしか、行きつけの喫茶店で買った珈琲の粉が戸棚のなかにまだ残っているはずだった。
 ケトルの中で沸騰し始めたお湯が、ごぼごぼと大きな音を立てる。そろそろチアキくんに気づかれてしまったかもしれない。そう思って振り返ってみたけれど、まだ大丈夫だったらしい。私はほっと胸をなでおろし、お世辞にも洗練されているとは言えない所作で珈琲をドリップしはじめた。
「……よし」
 上手く淹れられたかどうかは分からないけれど、ひとまず香りは良さそうだ。そのまま、それぞれのマグカップにたっぷりと珈琲を注ぐ。それを両手に持って、私はチアキくんの元へ戻ろうともう一度振り返った。
 チアキくんは、さっきと同じポーズのまま本のページをめくっていた。
 彼の横顔を照らす日差しはいよいよ眩しく、長いまつ毛が目元に淡い影を落としていた。投げ出された両足の、その指先がほんのわずかに動いた。ページをめくるスピードは一定に保たれたまま、先へ先へと順当に進んでいた。
 そして、チアキくんは私が離れていたことも、いままさに戻ってこようとしていることも、まるで気づいていないようだった。あるいは、気づいていたとしても、当然私が戻ってくることを知っているような──。
 それはとても自然な光景だった。多くの人にとってはありふれた、普通の、なんでもない瞬間だったはずだ。だけど、私にはやっぱりそれがとてもとてもうれしくて、思わず口元がゆるむのが分かった。
 チアキくんの目の前にマグカップを置く。そのことに気づいた彼は、「ああ、ありがとう」とようやく顔をあげた。すぐに本を置いて、珈琲へと口をつける。
「うん、美味いな……、香りもいい」
 と、まるでひとりごとのように低くつぶやく声は、あの島にいた頃よりもやけに甘く響いた。
「なに? どうかした?」
 よほどにやけた顔をしていたのかもしれない。私の顔を見て、チアキくんは怪訝そうに眉を顰めて言った。
「なんでもない。ただ……、幸せだなと思って」
 そう、なんでもないのだ。大きな事件もない。心臓がドキドキするようなことは、もう何も起きない。大好きなひとに毎日会える。こうやって手を重ねられる。そんな奇跡みたいな時間が、いつの間にか私たちの日常になっている。
 だけど、それがすごいことだと言葉にしてしまったら、この魔法が解けてしまいそうだから。私はただうんと笑ってみせる。
 その意味を正確に読み取ったように、チアキくんも表情を和らげて、「そうだな」と言う。
 彼の大きな手のひらが私の手を包みこんでいる。それに応えるように、私もぎゅっとチアキくんの手を握り返す。私たちは手をつないだまま、黙って珈琲をすする。
 きっと日が沈んだ頃になって「結局出かけなかったね」と笑うはずのふたりは、いまはまだ、あたたかな沈黙を分けあっていた。