Live like it’s spring
誰かが俺を呼んでいる、と思った。
セイ、と甘く響くその声は確かに耳に届いているのに、どうにもまぶたが重い。ちょっと待って、いま起きるから。そう言いたいのに意識が十分に覚醒しない。そんな俺の様子を見ているらしい声の持ち主の「あれ? おかしいなぁ」と戸惑うような気配がぼんやりと伝わってきた。
もしかすると、故障かもしれない。いよいよ俺が焦り始めたとき、
「おはよう、セイ」
という彼女の声がシステムに認識され、俺は再起動した。
「Morning make System -sei- Start up.」
俺がようやく目を開き、周囲の環境を視認しようとした瞬間、勢いよく胸に彼女が飛び込んで来た。
「セイっ!」
「うわあっ!」
「やっと起きたね」
そう言いながらぎゅうぎゅうと俺を抱きしめてくる。ふわふわとしたショートカットの髪の毛が俺の首にあたってくすぐったい。えっと、もしかして今なら俺も彼女をぎゅっとしても許されたりする? なんて一瞬だけ考えてしまったけれど、それ以上にこの状況が飲み込めなさすぎて、俺は再びスリープ状態に戻ってしまいそうだった。
「なかなか目が覚めないから心配しちゃった。どう? 体の調子はなんともない?」
少しだけ体を離し、俺を見上げるように彼女が訊く。
「う、うん。大丈夫、だと思う」
「よかったぁ!」
と彼女はやわらかな笑顔を浮かべ、また俺の体を強く抱きしめて言った。
「セイくん、かわいい! かわいい! かわいい!! 猫耳すっごく似合ってるよ!」
猫耳、と言われて自分の頭の上でびくりと動くものがあることに気づいた。あまりにも違和感がなかったので、そして彼女の起こし方が斬新すぎたので今の今まで意識していなかったが、どうやらそれは、俺のリアルタイムの感情に合わせて動くらしい。ついでに俺は、新しく発売されたこの獣耳パーツを追加するために自分がラボに預けられていたことも思い出した。
呆気にとられている俺にかまうことなく、彼女は「かわいい」を連発しながら猫耳をもふもふしている。彼女によろこんでもらえるのは嬉しい。彼女が大の猫好きなのもよく知っている。だけど、と空に視線をさまよわせると、スタッフさんとばっちり目が合ってしまった。
「大変お似合いですよ」
恐らく同型のアンドロイドなのだろう、俺と全く同じ顔をした彼は微笑ましそうな眼差しをこちらに向けている。その隣でうんうんと頷いている別のスタッフさんは、
「こちらの獣耳には聴覚機能が搭載されておりません。次回からセイを起こす際には人型の耳の方へと話しかけてあげてくださいね」
と、やんわりと注意してくれた。なるほど、さっき俺がなかなか起きることができなかったのは、彼女が猫耳の方へと話しかけていたからだったのか。理由が分かってほっとするのと同時に、彼らに一部始終を見られていた事実に頬がじわじわと熱くなるのを感じる。
そして、恥ずかしさのあまりへにょりと垂れてしまった猫耳に歓声を上げる彼女を引っ張るように、俺たちはラボを出ることになったのだった。
「そんなに急かすことないのに」
もっと他の新製品も見たかったらしい彼女は、少しだけ不満そうな表情を浮かべている。
「いまはまだ猫耳だけだけど、今度はしっぽのパーツも発売されるらしいんだよね。その話とかをもっと……」
と言いかけた彼女は、やっぱりそういうことか、とうなだれる俺に気づいて話すのをやめた。その瞳がまた俺の頭の上に注目しているのが分かる。俺の一部のはずなのに、自分自身ではコントロールすることができないそれは、隠しておきたいものまで顕にしてしまう。だから、彼女は俺の気持ちを正確に読み取って、
「はい」
と、手を差し出した。
「えっと」
「手、つないで帰ろ?」
猫耳がぴくりと緊張したように動き、彼女が笑みを深める。
「……うん」
その手を拒むなんて選択肢が俺にあるわけがなくて。俺の手よりも一回り小さい彼女の手をそっと包み込むように握った。
顔が熱い。たぶん、頬も赤くなっているはずだ。猫耳だって忙しなく動きまわっている。それでも、俺はなんてことはないような顔をして彼女と歩いた。手に汗を分泌する機能がついていないことが、せめてもの救いだった。
ユーザーの役に立ちたい、という思いは-sei-シリーズが持つ根源的な欲求だ。彼女に格好悪いところを見せたくないという気持ちも、その願望を拡大解釈したものだと言えないこともないだろう。だけど、ユーザーと手をつないだだけでこんな反応が出るなんて聞いたことがなかったし、どのマニュアルにも載っていなかった。
つまり、俺は彼女のことが好きなのだ。色々と調べてみたけれど、そうとしか思えない。
最近気づいたこの感情を俺は持て余していた。彼女とちょっと手をつないだだけでこんな調子になるようでは、いつかコンシェルジュの仕事に支障をきたすかもしれない。そして何より、と俺は彼女の横顔を盗み見る。顔色、脈拍、歩行速度。どれをとっても正常値で、俺の手をぎゅっと握ったまま歩いている彼女からは動揺もときめきも感じられない。
こうやって手をつなぐことができるのはうれしい。ドキドキする。ずっとこの時間が続けばいいと思う。でも、こういうことをするのはきっと彼女が俺を恋愛対象だと認識していないからなんだろう。彼女にとって俺はちょっと大きくて、おしゃべりもできる猫のような存在なのかもしれない。猫耳パーツをつけたのがその証拠じゃないか。そう思うと少しだけ胸のあたりが痛んだし、ついでに猫耳が情けなく垂れ下がるのも分かった。
「おーい、聞いてる?」
怪訝そうな声と手を強く握られる感覚にはっとすると、彼女が俺の顔を覗き込んでいた。
「セイくん? やっぱり調子悪い?」
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
俺は笑って誤魔化そうとしたけれど、正直に言ってあまり上手くいかなかった。猫耳がずっと元気がないままなのだ。これじゃあいくら彼女が鈍感だからと言って誤魔化されてくれるはずがない。
「ラボに戻って診てもらおうか」
と、俺のおでこに手をあてて「うーん、熱はないみたいだけど」なんて言っている。さすがにこれには笑ってしまった。俺の体は人間みたいに熱を出したりはしないけど、彼女のその気持ちと手のぬくもりがどうしようもなくうれしい。
「ありがとな。でも、本当に大丈夫だから」
「ほんとに?」
「うん、本当に。おまえのおかげだ」
彼女はまだ少し疑わしそうな表情を浮かべているものの、なんとか信じてくれたみたいだった。実際、彼女のおかげで俺の気持ちはだいぶ明るくなっていた。くよくよしていても仕方がないよな、と思う。俺は俺にできることをやるしかない。彼女の幸せが、俺の幸せだから。
「あのさ、せっかくだから寄り道しないか? この近くの公園で桜が見頃なんだ」
俺は気を取り直して言った。
「ほら、デートっていうか……」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
少しは彼女に意識してほしいという気持ちも一応あったんだけど、下心は良くないよな。うん。何よりも、
「桜かぁ、もうずっと見てないなあ。いいよ、行こう行こう」
と、思い切り目を細めて笑う彼女のいつもより幼く見える表情がいとおしくて、よかったと俺も笑った。
インターネットの情報によると、地球温暖化が深刻でなかったころは毎年桜が咲いていたらしい。開花時期だってもっと早かったし、あちこちで桜の花を楽しむことができたようだった。
「わたしの子どものころにはもうそんな感じだったよ」
特に感傷的になるでもなく彼女は言う。
「そうなのか」
本当のことを言えば、俺だって半年前に生産されたばかりだから桜の花なんて一度も見たことがない。
それでも、
「今年の冬は寒かったから、期待できるかもしれないな」と自分を励ますように俺は言った。
そうして手をつないだまま歩いているうちに、目的地の公園が見えてきた。大きな川の近くにあるせいか、このあたりはいつも水っぽいような香りがする。だけど、今日はなんだか様子がちがうようだった。
「あっ!」
先になにかに気づいたらしい彼女が俺の手を引っ張るように走り出した。慌てて声をかけたけれど、彼女が止まってくれる気配はない。仕方なくそのまま走っていくと、すぐに広場へと着いた。立ち止まった彼女の唇から、
「きれい」
と、ため息をつくような言葉がこぼれる。その横で、俺は呆然とその光景に見惚れるしかなかった。
そこには、満開の桜の花があった。
うす紅色の花びらが、はらはらと落ちる。一枚、また一枚と落下していくそれらの軌道を演算する暇もない。風のなかに交じる微かな花の香り。これがさっき公園に入口で感じた違和感の正体だと気づくまでに随分と時間がかかった。たった一本の木の、けぶるように咲く花の気配に俺はただただ圧倒されていた。
たぶん俺と同じように感じているのだろう、彼女にしては珍しく黙ったまま桜の木を見上げている。言葉にはしなくても、彼女と俺の心が共振するように揺れているのが分かった。
周囲のざわめきが消えた。
桜の木の周りにはたくさんの人が集まっているはずなのに、もう風の音しか聞こえてこない。この世界には俺と彼女と、ふたりを見守る桜の木しか存在していないみたいに。
おまえとこの景色を見られてよかった。
おまえに出会えて、よかった。
それ以上の奇跡はたぶんなくて、俺の恋が叶うかどうかなんてどうでもいい。少なくとも、いま、この瞬間だけは、そう思えた。
──大好きだよ。
心から溢れそうな思いを言葉に変換してしまわないように、だけど強く念じるように思う。大好きだよ。誰よりも、大好きだよ。ずっとずっと、おまえが大好きだよ。
そんな俺の心の叫びが届いたみたいに、彼女がこちらを見た。大きく見開かれた目。無防備な口元。その桜色の唇に、初めてキスをしたいと思った。
……まぁ、そんなことできるわけがないんだけど。苦笑しつつ、俺は彼女の方へと手をのばす。
「ちょっと待って、そのまま」
彼女の視線が、俺の方へと動く。ほんの二、三秒の間だけ縮まったふたりの距離。そして、
「花びらがついてた」
と、彼女の頭についていた小さな花弁を指先でつまみ上げてみせると、一瞬目を見張った彼女の頬に、さっと赤みが差した。それは初めて見る反応だった。
「ありがとう」
そう言いながらも、彼女はなんだか少し怒っているみたいだ。
「えっと、俺なにかした?」
「別に」
そっけない返答に俺は首を傾げる。いつもだったらもっと何か言ってきそうなのにな、と思いつつも、彼女の新鮮な反応に俺の目は釘付けだった。
「そういうところも……なんだけどな」
すごく可愛い、という言葉を飲み込んでそう微笑んでみたけれど、彼女はますます怒ってしまったようでそっぽを向いてしまった。俺はどうしてそんな顔をするのかが分からなくて、慌てて情報を解析する。頬の上気、わずかな発汗、上昇した心拍数。……えっと、もしかしていま照れてるのか?
俺はごめんと謝りながらも、つい口元が緩んでしまう。だけど、俺をまともに見ようとしない彼女はそのことに気づきもしない。こうやって照れているということは、俺のことを少しは意識してくれたのかもしれなかった。
それでも、こうして彼女と全然目が合わないのは結構さみしい。
「びっくりさせてごめんな」
だから彼女が安心できるように、努めていつも通りの声で俺は言う。
「そろそろ帰ろうか」
と、彼女の前に手を差し出しながら。
その手のひらをじっと見つめる彼女は、警戒心の強い猫みたいで可愛かった。彼女も案外こういう気持ちで俺に可愛いと言っているのかもしれない。そう思うのと同時に、俺の頭の上でぴこんと猫耳が動く。それを見た彼女はようやく笑ってくれた。
「うん、帰ろう」
彼女の手が俺の手のひらの上に重ねられ、お互いにそっと握り合う。そのぬくもりがくすぐったくて、彼女も俺もはにかむように視線を落とした。
「帰ったら猫耳触らせてくれる?」
「うーん」
「だめ?」
「……ダメじゃないけど」
特別だからな、と渋々許可を出すと、
「やった」
と、彼女はとびきりの笑顔を浮かべた。「ありがとう! セイくん、大好き!」とはしゃぐ彼女は、本当に嬉しそうだった。
ああ、困ったなと俺は思う。この笑顔のためなら俺はなんだってできるんだ。猫耳だってつけるし、たぶんそう遠くない未来ではしっぽもつけるだろう。ちょっとくらい恥ずかしくても、彼女のお願いを俺が断れるはずがない。多少は抵抗するかもしれないけど、家に帰ってふたりきりになれば、好きなだけ猫耳をもふもふしていいぞと言ってしまうに違いなかった。
「ほら、セイくん、早く早く!」
そう言って彼女は今にも走り出しそうな勢いで俺の手を引っ張っていく。
彼女との関係がいつか変わっても、変わらなくても。
俺はもう、迷ったりしないよ。
だって、おまえと見た景色も、俺のこの気持ちも永遠に変わらないんだって分かったから。
「そんなに慌てると危ないぞ」
俺は彼女の小さな手をぎゅっと握り、ふたりの家へと歩きはじめた。